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#38『教科書に載らない「ニッポンの文化」』vol.1

1『書道』
「書道は、墨と筆で文字を書く芸術」
日本語は、世界一美しい形をもった文字と言われます。
「書」の起源は中国ですが、日本で「書」が始まったのは奈良時代と言われています。そして、「書」を床の間に飾ったり、「書」を味わうようになったのは室町時代と言われています。
日本語には、漢字、ひらがな、カタカナがあり、これらを組み合わせて文章をつくります。漢字は、直線的な線からなり、ひらがなは、曲線的な線からなります。そして、カタカナは、2本、3本の線からなります。
また、日本語は、縦書き、横書きにも対応することができる、世界でも希な文字と言えます。
こうした日本語を「芸術」まで高められた表現が、「書」と言われます。
「書」は、一筆で多様な表情の線を生み出すことで、「喜び」、「悲しみ」、「暖かさ」、「激しさ」などを表現することができると言われています。また、「書」の力は、研ぎ澄まされた集中力から生み出されると言われています。

2『茶道』
「作法にのっとって茶を客にふるまう文化」
茶道は、「茶の湯」とも呼ばれます。
日本では、鎌倉時代の終わり頃から各地で茶の栽培が行われるようになり、それに伴い、茶を飲む習慣も広まっていきました。
室町時代になると、どこのお茶(産地)を当てる「闘茶」という遊びが流行しました。
現代に通じる「茶道」を作り上げたのは、安土桃山時代の「千利休」という茶人です。
「茶道」には、「一期一会」という言葉があり、人との出会いを一生に一度のものと思い、心をこめてもてなすという心遣いがあります。そのため、茶室を整え、茶花・掛物・香を用意し、庭の手入れも行います。
利休は、無駄を省き、質素で飾り気のない茶道具を使い、「茶を点てる」。その作法を「点前」といい、空間の全てを鑑賞し、心の交流を重んじる「わび茶」という独自の文化を確立しました。
織田信長や豊臣秀吉など戦国武将のあいだでも広く愛され、江戸時代には武士の教養として重んじられ、現代の「茶道」につながったと言われています。

3『華道』
「草花や樹木で作り上げる芸術」
「華道は、生花」
とも呼ばれ、その美しさを表現し、鑑賞する芸術です。
草花は生き物なので、切ってから少しづつ変化し、最後には枯れてしまいます。「華道」は、その短い命を惜しみ、命の大切さや、自然の持つ美しさを表現する芸術ということができます。
そのため、単に草花を美しく見せるための技術に留まらず、命と向かい合う心構えや礼儀作法を学ぶことも大変重要ととらえられています。
草花を切るための「花ばさみ」、草花を生けるための器「花器」、草花を花器に固定するための「剣山」が用いられます。「花器」は、草花・樹木の種類や生け方に合わせてさまざまな形や素材のものがあります。
現在につながる「華道」は、室町時代に始まるとされています。書院作りの建物の「床の間」に花を飾る「立花」に由来されるといわれています。
京都の池坊専慶が披露した花が評判を呼び、「立花」は、貴族や武士の間に広がっていきました。安土桃山時代から盛んになった「茶道」の「茶室」でも花を飾るようになったことも「華道」の発展につながりました。

4『和歌』
「歌謡が和歌の始まりになりました」
「歌謡」は、祭りの場や労働の場で、自分たちの感情を音楽に乗せて歌ったのが始まりと言われています。元来、集団で歌われていましたが、個人の感情や考えを込めたかたちの「和歌」に変化していったと言われています。
和歌は、「短歌」のほかに「長歌」、「旋頭歌」がありますが、和歌が「短歌」のことを指すようになったのは、鎌倉時代からと言われています。
日本最古の和歌集「万葉集」は、奈良時代に約4,500の歌を集めてつくられました。
平安時代の優れた短歌「古今和歌集」に、鎌倉時代には「新古今和歌集」にまとめられています。
現代でも親しまれている「百人一首」は、鎌倉時代に「藤原定家」が古代からの優れた短歌の中から100首を選びまとめたものになります。
江戸時代に入ると、「狂歌」が流行しました。「狂歌」は、「和歌」の形式に面白おかしい内容を盛り込んだものでした。
現代の「短歌」は、そうした伝統に加え、明治時代に入り外国の自由な表現の詩の持つ「情景や感情」の取り入れられて発展してきたと言われています。

5『俳句』
「俳句は俳諧の句から進化して生まれました」
「俳句」は、五・七・五の十七音でつくる、短い詩です。
十七音で自然や人々の様子、自分が感じたことを表現します。季節を表す言葉である「季語」を入れるのが基本的ルールです。また、言葉の意味の切れるところに「や」、「かな」などの「切れ字」をおくこともあります。
「俳句」のもとになったのは、「俳諧」です。
「俳諧」は、「愉快な」、「面白みがある」という意味になります。
室町時代に、短歌の上の句と下の句を分け、それぞれ別の人がつくる「連歌」が生まれました。
「連歌」は、やがて「俳諧の連歌」となり、最初の上の句(五・七・五)に季語を入れ、それを「発句」と呼ばれました。江戸時代になると、「発句」の部分が独立して一つの作品として扱われるようになりました。そうした「俳諧の句」を一つの文学として高めたのが松尾芭蕉たちと言われています。
そして、明治時代になると、正岡子規らによって「発句」にかわる「俳句」という言葉がつくられ、「俳句」には、自然や人々の様子を写す「写生」という考えが取り入られるようになり、現代の「俳句」形式が整えられました。
正岡子規がつくった「俳句」の数は、約24,000句と言われています。

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