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変な顔してみせて

 寒さの残る3月の下旬、夕食後の江藤家のリビングにはまだ、こたつが1台設置されていたままであった。

 おそらく、このこたつは10月の中旬から出しているだろうから、半年近くに亘って彼らの足を、お腹を、またある時には顔までを、すっぽりと暖め通してきたことになる。紺色の格子柄のこたつ布団は、汚くはないが、心なしかくたびれている。長方形の机台の4辺には、物はほとんど置かれていないものの一家全員がそこに集合していた。各自が思い思いに足を広げたり、縮めたりしていても、お互いの足がぶつからない様子をみると、チームワークは悪くないようだ。
 洋太はコーヒーを飲みながら、群ようこの『れんげ荘』をぼーっと読んでいた。近頃、洋太は集中力というものがめっきり憔悴しきっているので、3行に1度は他の3人の顔をチラチラと見ていた。洋太から見て右側にいる姉の美紀は、両肘をついて携帯をいじっている。時々、彼女の仕事終わりの脂ぎった頬の口角が上がり、ニヤニヤしている。きっと何か楽しい記事でも見ているのだろう。と洋太は考えた。母の涼子は、白湯をすすりながら、テレビのニュース番組を観ていた。母の入れる白湯は恐ろしく熱いので、彼女自身も紙粘土のように口を尖らして飲んでいるのだが、かえって口の先に神経が集中してしまい、喉元を通るときには涙目になっている始末である。洋太は、母のその一連の動きが、朝露を飲む野生の猿のように思えてしまった。また、母は特殊な能力を有しているので、正面に居座っている美紀の体躯を上手に透かしてテレビの映像を観ることができる。父の剛は、近視用の眼鏡をおでこに上げて、眉間に皺をグイーと寄せて、携帯と睨めっこしていた。そんな父の顔は、なぜか洋太に銭湯の風景を思い起こさせた。父も含めた江藤家4人は、父は機械に疎い方だと思っていたが、最近では誰も教えてもないのに慣れた手つきで携帯のプロレス動画を見ている。
 洋太は、この辺りで手元の活字に再び集中し「れんげ荘」の生活に戻れることもできたが、一旦本を閉じ、冷えたコーヒーを一気に飲みほした。そして何故か、これは当の本人にも分からないことであるのだが、誰に向けられたでもなく、洋太は唇を力いっぱい変形させ、アヒル口にし、目をできるだけ寄り目にした。最後にやや顎を突き出した。その一切を無音で為した。
 そのまま2秒間の時間が流れて、母は視界の右側辺りに映った、洋太の変な顔に気付いた。母はなんとなく微笑んだ後、何その顔。と言った。洋太はそこでようやく顔を戻し、こう言った。「母さんもね」

しばらくして、こたつの中は蹴り合いになった。

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