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君たちは歴史小説に何を求めているんだね?

 WEB連載の「桔梗の人」よろしくお願いいたします! と共に、2019年2月新刊の「奇説無惨絵条々」(文藝春秋)と文庫化「曽呂利」(実業之日本社)もよろしくお願いいたします。

 どうしたわけか知りませんが(すっとぼけ)、ここのところ歴史に関する話題がホットになっています。

 まー、わたしなんぞはいい加減な性格をしておりますので対岸の火事を気取っておりますし、もし延焼を起こしそうなものなら逃げ出す所存ですが、それでもときどきわたしにも火の粉が飛んできます。

 いや、世間の皆様は、歴史小説を何だと思ってらっしゃるのでしょうか。時々分からなくなることがあります。

 よく言われるのがこちら。
「歴史小説は歴史学の成果を啓蒙するべき」
 「いや、知らんがな」ですよ。
 我々歴史小説家は物語を書く際に歴史学の成果を参照することもあるので、結果的に新知見を読者さんにお伝えする橋渡しになることもありましょう。けれどそれはあくまで副産物でしかありません。そもそも、平成が終わろうというこの時代に「蒙を啓く」なんて言葉を使うのやめましょうぜ旦那。

 以前言われたことがあるのはこちら。
「歴史小説は歴史学に隷属するべき」
 「いや、もっと知らんがな」ですよ。
 歴史学の成果を十二分に参照した上でフィクションを構築なさる歴史小説家がいてもいいですけど、なぜ歴史学に隷属しなくてはならない? もしかして、歴史学が「歴史」のすべてを網羅できるとでも思ってらっしゃるのでしょうか。大変謎です。

 歴史小説は「歴史」を参照する小説ですが、歴史学「のみ」を参照しているわけではありません。
 わかりやすいのが、忠臣蔵でしょうか。
 もちろん、忠臣蔵を書く際に歴史小説家は最新の研究などにも目を通しますが、ほかにもいろいろなものを参照しています。事件発生から連綿と続く「忠臣蔵」の逸話や、さらに芝居や講談、小説などで醸成された「忠臣蔵世界」を参照しています。「忠臣蔵世界」は史実上認めがたい事象がいくらでも語られていますが、それらの事象すらも「忠臣蔵」という史実を支える逸話なのです。
 もちろん小説家の中には「史料だけを頼りに忠臣蔵を再構成するんじゃい」と意気込む方もいらっしゃるでしょう。けれど、そうした方も、ネタかぶりを避けたりするために過去作を知らず知らず参照するはずです。いわゆるネタかぶり回避ですね。
 閑話休題。
 わたしは、「歴史」をかなり大きいものとして捉えています。真偽不明な逸話、昔話、巷説、これらもわたしたちのイメージする「歴史」を構成するものです。わたしは門外漢なので確定的なことは言えませんが、歴史学というのは厳密なルールを設けて「歴史」の中から「そうであったろうもの(=史実)」を抽出せんという営みなのでしょう。
 だとすれば、歴史小説とはかなりスタンスが違うといえましょう。

 歴史小説はあくまで小説なので、最終的には面白さが称揚されます。
 もちろん、歴史的事実の中から面白そうな事象を選び取って史実通りの小説を仕立てるという仕事もありでしょう。けれど、その作業もまた「著者の考える面白さ」という評価軸による編集が入り込む余地があります。小説を名乗る以上、歴史小説も「面白さ」が求められるのです。

 歴史小説家は面白さに隷属している。
 それが、今のわたしの暫定的な結論であります。

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