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楽譜のお勉強【69】ゲオルク・フリードリヒ・ハース『AUS.WEG』

普段の私は作曲活動を続けながら洗足学園音楽大学で非常勤講師をしていますが、今学期(2022年度冬学期)は愛知県立芸術大学の大学院の集中講義も受け持つことになっています。現代作品の楽曲分析中心ですが、楽曲の作られ方を分析するのは半分くらいにして、作品が演奏の実現に向けてどのように記譜されて演奏家とのコミュニケーションを図っているかを読み解いていく時間を長めに持ちます。現代の音楽演奏の場で難しいのは、調性理論が支配していたロマン派までの時代と違って、個々の作曲家が独自の音楽語法を持って、作曲している点です。楽譜の書き方の基本は20世紀前半までの音楽と変わっていないのですが、応用の部分で作曲家個人個人の思想が深く入り込み、同じ記号が意味する内容が通常とやや異なっていたり、あるいは完全に新しい音楽記述を試みていたりするので、音楽内容を慎重に検討した上で演奏にあたる必要があるのです。もちろん古典派やロマン派の作曲家もそれぞれの記譜のクセがありますが、そこに書かれている音符はほとんど和声音と非和声音に割り当てることができるため、音の機能を一定の基準で読むことができます(「ほとんど」と書いたのは、民族音楽に取材したいくつかの作品、教会旋法を復古させた作品では機能和声で読むことを難しくしているケースがあるためです)。音を構成するさまざまな新しい方法を試みる今日の作曲家たちは、自分が考えた音楽とだいぶニュアンスが異なる演奏に出会うことがあります。それを面白みと考え、よしとすることもできますが、やはり自分が想像した音の世界を味わってみたい思いが勝つことが多いでしょう。若いうちに楽譜を通した演奏家とのコミュニケーションについて考えることは有用で、このような講義を考えました。

取り上げる作曲家は今日の西洋現代音楽シーンで最重要とされる人たちの中から四人を選びました。講義では、以前記事でご紹介したカローラ・バウクホルト(Carola Bauckholt, b.1959)、マルク・アンドレ(Mark Andre, b.1964)のほか、レベッカ・ソーンダース(Rebecca Saunders, b.1967)、ゲオルク・フリードリヒ・ハース(Georg Friedrich Haas, b.1953)を取り上げます。今回の「楽譜のお勉強」では記事で取り上げたことのないハースの作品を今週読み、来週はソーンダースの作品を読みます。これらの作品は愛知県立芸術大学の集中講義で取り上げる予定の作品とは異なります。

(講義で取り上げる楽曲)

ゲオルク・フリードリヒ・ハースはオーストリアのグラーツに生まれた作曲家です。いくつもの音楽大学で教鞭をとってきましたが、2013年以降はアメリカのコロンビア大学で教鞭を執っています。スペクトル楽派の作曲家と呼ばれることがあり、倍音構造を意識した音響を用いて作曲しています。非常な多作で、8曲のオペラを含み、あらゆるジャンルの作品があり、その多くは演奏時間も長い大作です。響きの推移を味わうタイプの音楽が多いので、演奏時間の長さは作品の説得力に繋がっています。

本日読んでいく『AUS.WEG』(2010)(アウス・ヴェークもしくはアウス・ヴェクと読みます)は、8人の奏者からなるアンサンブルのために書かれています。タイトルの意味が多重に巡らされているため、日本語訳しませんでした。「AUS」はおよそ「~から」などという意味ですが、「WEG」は、「道」を意味する「Weg」と「行く、離れる」を意味する「weg」の意味がかけられています。二つの語を繋げた意味は「逃げて」とか、「立ち去れ」とか、いくつかの意味が生まれます。考えられるいろいろな意味がそれぞれにタイトルとして成立していると作曲者は語っています。編成は、フルート、バリトンオーボエ、バスクラリネット、打楽器(マリンバ、クロタレス、鐘などの異なる金属楽器8種、ヴィブラフォン、ムチ、ウッドブロックなどの鋭い音質の異なる木質楽器8種)、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロです。

作曲者が言うには、この作品ではオペラ『美しき傷』(»Die schöne Wunde«, 2003)で用いた和音表を使って作曲したそうです。和音表は縦もしくは横に読むことができ、どちらの方向にも推移を決定するものらしく、時間的推移も定められているもののようです。持続音として現れるこの和音の推移の長いバージョンと短いバージョンを用意し、それによって曲全体の構造が決められていると解説しています。和音表を見たわけではないので、想像するしかありませんが、縦にも横にも読むことのできる和音表というのは興味深いです。読譜にあたっていくつかの示唆を得ることができます。楽譜は一見して層状になっており、いくつかのレイヤーが関わって響きを構成していることが分かりますから、それぞれのレイヤーを分けるときに先の推移時間の決められた和音というヒントが生きてくるでしょう。

冒頭でピアノとヴィブラフォンが演奏する和音が曲全体に決定的に影響を与えています。B-F, Bb-E, A-Ebと、減5度(増4度)を3回積み重ねた和音、もしくは減5度と完全4度を繰り返して積んでいく和音です。通常、後者の読み方が自然な解釈ですが、最下部のペアB-Fがオクターブで下に繰り返されて拡大されている点、上の2ペアもオクターブ関係で上部に広がっている点から考えて、減5度のペアを組み合わせていると考える方が良さそうです。これらは様々なオクターブに散らばって、響きの層を作りますが、基本となるペアはB-Fでしょう。冒頭の後、ヴィオラ、ヴァイオリン、チェロが順次入ってきますが、いずれもB-Fという重音です。一見、一つの和音をいろいろなオクターブで使っているように見えますが、散逸しているリズム点を整理していくと、別の景色が見えてきます。通常の16分音符分割によるパルス、三連符によるパルス、5連符によるパルス、そして時折7連符によるパルスが存在していて、その時々で対応している楽器の組同士が異なるレイヤーを作っています。また、弦楽器は微分音推移による微細な音程を上行グリッサンドしたり、下行グリッサンドしたりして、響きに歪みを与えています。これは響きを歪ませるだけのものではなく、いくつかの作曲的目論見があります。グリッサンドが現れる層に置いて、楽器の低音域では下行グリッサンドになることが多く、反対に上行グリッサンドでは上行グリッサンドが採用されていることが多いです。これは、冒頭に示された響きが放射状に拡がっていく構造を持っているということです。

このような出発点となる和音や音列の軌跡(トラジェクトリー/トラジェクトワール)をコントロールして、類似した形の異形を生むプロセスを繰り返し、最終的にはそれなりに違った形・響きの構造を生み出していく作曲方法はスペクトル楽派の作曲家、特にジェラール・グリゼイの作品で頻繁に用いられたものです。今日でも多くの作曲家に愛される技法として定着しました。

ハースの音楽は、一つの和音の構成音に見えても、別のリズム点を介して別の層に移っていくことがあるので、楽器間の縦の重なりを読むことが非常に重要になります。リズム点、パルスの状態で関わり合っているものが一つの層を形成し、それと異なるリズム点・パルス状態を持つ楽器たちは他の層として処理されていることが多いので、強弱やアーティキュレーションもそれぞれに対応したように書かれています。そのために彼の音楽に特有の響きの滲みが生まれるのです。 特に強弱に関する時間軸のズレは微分音や和音の重なりによる響きの本来のブレが強調される効果を持つので、ハース作品の演奏の肝とも言えるでしょう。

83小節までは時折呼吸を置きながら、和音をじっくり展開していき、響きのカーペットをだんだん広げていく様子ですが、84小節目からハースの音楽でよく見られるもう一つの技法が現れます。前半で縦の軸で処理する和音のトラジェクトワールを聞いたのに対し、ここからは線のトラジェクトワールが出てきます。ピアノが短く上行音階を二声のカノンとして弾きます。その直後はまた冒頭和音から派生した和音に戻りますが、高速の音階に触発されたかのように、高速の分散和音状で提示されることが増えます。再びピアノとマリンバが音階の追いかけっこをします。その後、後半のもう一つの大事な要素である任意の異種金属打楽器が独奏で提示されます。金属打楽器の余韻の中からピアノ、マリンバがもう一回音階を演奏しますが、今回は最低音域から最高音域まで到達します。そこから最初音階として現れた線の軌跡が歪められていきます。2音が組となり長2度だったものが次第に短2度にまとめられていきます。その結果多くの3度を含むガタガタの音階形となります。それがフルート、バスクラリネット、マリンバ、ピアノでどんどんと繰り返され、無限上行とも言える渦を生み出します。短2度までまとめられたペアの音のいくつかはさらにまとめられ、3度のアルペッジョへと変質していきます。3度を作った直後に4度へと拡大して、音型は前後をカットされ、音程の拡大が進むとともに音型の縮小が繰り返されていきます。このように、あるプロセスを繰り返すことで別の表現世界を引き出す作曲技法は、ハースの音楽でとてもよく見られるものです。特にここで挙げた音階線の軌跡操作は、かなりの頻度でハースの作品に出てきます。有名なものだと、4本のアルプホルンと管弦楽のための『コンチェルト・グロッソ 第1番』(»Concerto grosso No.1«, 2014)などに、弦楽器群完全分割の壮大な例が認められます。

ハースは『AUS.WEG』の解説文の最後に面白いことを書いています。先述のように、この曲では時間の推移があらかじめ厳密に決められているのですが、それはハースの音楽では実は珍しいことなのです。

私は15年間、あらかじめ定義された時間構造を用いて作曲しておらず、同様に和音の推移もあらかじめ用意されたものを8年間使っていません。(この作品での)以前の作曲方法への「退行」は、最初は刺激的でしたが、やがて不安な経験になっていきました。作品の終わりに向かっていくにつれ、私はこの不安な思いから解放されます。任意の金属打楽器の振動のタイミングを制御することはできません。聴衆にとって、作曲技法状の私の不安な思いは無関係ですが、この曲を書いたときに経験した自分を解放する行為が、聞き手にも伝わってほしいと思います。

最後に現れる金属打楽器群は一番最後のコーダを除いて鳴らしっぱなしです。発音のタイミングも、厳密に規定された他の器楽部分とは無関係に、リズム点を定めずに記譜されていることが多いです。彼にとって、作曲を進めるうちに予定調和のような姿を見せてくる音楽に倦怠をおぼえた可能性は否めません。そこに無関係で、尚且つ共存可能な音楽的要因が入ることで、作曲者は心の自由を取り戻します。このことは、作曲において多くの気づきを与えてくれます。私も作曲に細かい戦略を立てることが多いですが、いつも肝に銘じているのは、「仕上げは感覚で」ということです。私が思い描いた楽曲が思い描いたままの姿で現れたとしても、私はきっと満足しないのです。願わくば、最初のインスピレーションは生きたままに、命ある楽曲として色々な演奏家に育てられ、様々な生を獲得していってほしいのです。そのために、私の小さな考えだけで曲を閉じることに少しだけ抵抗する姿勢を持っていたいと考えています。

今年3月、ニューヨークのコロンビア大学でハースにお会いしました。ドイツでもご挨拶をしたことはありましたが、たくさん学生がいる中でまともにお話するタイミングなどはありませんでした。私の講演を聞いて、特に私がシューベルトとベートーヴェンと出会う内なる旅として作曲した『エクソフォニー I』という作品について、とても興味深いと聞いてくださいました。ハースの音楽は、現代音楽を勉強していると本当に頻繁に聞く機会があります。意識して受けた影響、知らず知らずに受けた影響、どちらも大きいものだと思います。彼の作品に頻繁に出会える時代に生まれて嬉しく思います。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。

https://www.universaledition.com/georg-friedrich-haas-278/works/aus-weg-13626

(本文中に紹介した作曲者による楽曲解説が載っています)

本文中で紹介したバウクホルトとアンドレの記事はこちら。


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