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対談「どーげんをプロデュースvol.2」③

2022年7月28日(木)にフルーティストの木ノ脇道元さんのコンサート「どーげんをプロデュースvol.2」が開催されます。昨年から木ノ脇さんが始めた新しいコンサート・シリーズで、彼が依頼したプロデューサーがコンサートのプログラムを決定し、木ノ脇さんの演奏の新しい魅力を引き出す企画です。インタビュー書き起こしの第3段となる今回は、この演奏会が日本初演となるハンス・ツェンダーの『笛の音に引き寄せられて』について、それと少し委嘱作曲家・山下真実さんについてお話しました。

対談・パート③

ツェンダーの『笛の音に引き寄せられて』と山下真実さんについて

稲森:プログラムの最後の曲は今回のテーマ作曲家にしたハンス・ツェンダーの日本初演となる曲です。

木ノ脇:タイトルが『笛の音に引き寄せられて』で、表紙には「日本の禅語による3つの小品」とも書いてありますが。

稲森:これはサブタイトルですね。

木ノ脇:こちらも、もう一曲演奏するツェンダーの『月の書』と同じ「洛書」シリーズなんですか?

稲森:これは「洛書」じゃないです。禅語なので。洛書は中国の易学とかですよね?

木ノ脇:「洛書」じゃないんですね。

稲森:それぞれの楽章のタイトルが実はよく分からなくて現在調査中です。2曲目の「照顧脚下」(脚下照顧と書くことの方が多い)というのはすぐに分かりました。禅で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめなさいという戒めの語らしいです。漢字で照らして顧みる脚元って書くんですが。他の2曲のタイトルがなかなか資料が見つからなくて、ちょっとお坊さんの知り合いに聞いたりしてみます。この曲に関して少しだけ言及されている記事なんかも見つけたんですが、ドイツ語で禅語に関しては何も書かれていないし、ツェンダーが何の本を読んでこれらの語を拾ってきたのか分からないんですよね。だけどドイツ語の意味が併記されているから推測は出来て、例えば「テキジカンザン」という語のテキは笛のはずです。山を行くのだから、ザンは山、だから笛と山が入っている禅語を探せばいいということなんですが、なかなか大変で難航しています。「チョウクウコウガン」はたぶんクウが空で、ガンが雁かな。で、チョウとコウが分からない。

木ノ脇:なるほど。

稲森:裏どりが大変です。訳を見れば曲のイメージを掴むのは大丈夫だと思いますが。それで、2曲目「照顧脚下」がちょっと変わった曲です。

木ノ脇:ええ、ずっと四分音符。

稲森:1曲目と3曲目は結構普通の現代音楽のようなイディオムで、『月の書』なんかよりももう少し古典的な佇まいの音楽のような気がしますね。

木ノ脇:まあ、いわゆる普通のフルートの音を使ってっていう。この2曲目、一応小節線があって、表紙まではないんですけど、最初の音にちょっとストレスがかかるようなやり方をしてくださいと言っているように見える。

稲森:そうですね。これ面白いですよね。この楽章をすごく聞いてみたいんですよ。だんだん伸びて終わるのかと思いきや、最後に予期しない高速パッセージが入ってたり。結構意味不明な曲です。僕はそれなりにツェンダーの曲を勉強してきた中で、『カンタータ』という曲があるんですけど、『カンタータ』も抽象的な変な譜面なんですよね。すごい音数も少なくて。難しい音楽で。

木ノ脇:『カンタータ』はどういう編成なんですか?

稲森:アルト(声)と、アルト・フルート、チェロとチェンバロですね。

木ノ脇:へえ!まあ音域的には近いのかな。

稲森:これも抽象的な楽譜なんですけど、それをさらに抽象的にしたイメージが「照顧脚下」。例えば、コンマでフレーズが区切られていくけれども、一音でも区切ってます。すごい意味深な表現が多くて、小節も小節なんだかよく分からない。小節で区切った次の1音がコンマで区切られてたりしている書き方が結構あって、悩ましい。ずっと四分音符が続いているのに、すごく考えなきゃいけないことがたくさんある楽譜。ちょっとクリスチャン・ウォルフとかみたいな難しさを感じます。哲学みたいな楽譜って思っちゃうんですよね、こういうのを見ると。こういう楽譜を見ると僕はすごく興奮するんですよ。これは絶対良い曲って思っちゃう。

木ノ脇:(笑)スルスル行く演奏では絶対にないですよね。

稲森:有名な「洛書」シリーズの『月の書』とも比較して、こういう幅のある作曲家だというのを聞いてほしいんです。ツェンダーを複数曲まとめて聞きたいと思った理由でもあるんですけど、シューベルトの編作をしたり、振れ幅がすごく大きな作曲家だと思うんです。作風を東洋思想への傾倒みたいなことで考えることもできるかもしれないけど、その中で使われている語法がそれぞれの曲で全然違っていて、なかなか全体像を掴みづらい作曲家だと思っているんです。でも一曲一曲興味深いんですよね、考えていることが。なんというか流派みたいな名前を当てづらくて、プログラム中のツィンマーマンもちょっとそういうところがありますが、「こういう音楽」を書く人という言葉が見つけにくい。そういう言葉で表現しづらいような作風の振れ幅がある人って、全体像を掴みづらいのがまた面白さになっているというか。僕は探りがいがあると思っています。

木ノ脇:有名な人だったらベリオとか?

稲森:そうですね、ベリオも振れ幅が大きいですね。なんか西洋音楽の作曲家って「作風」を身につけることみたいなのが使命みたいに思っている人がいて、僕もそんなふうに思っていた時期もありますが、最近は「作風」って既にあるよねって思います。別に身につけようとしなくてもその人らしい音しか多分書けない。「作風」の現れ方を音楽語法で説明しないケースというのはたくさんあるんですが、書法的な特徴を言語化しやすいものはマーケティングもしやすいという状況をよくクラシック音楽業界や現代音楽業界で見かけます。僕はマーケティングしづらい方の人たちに、より関心がある。

木ノ脇:マーケティングしやすいというのは、現役の作曲家もですか?

稲森:現役の作曲家こそじゃないですか?だって売る必要があるのは今の人でしょ?

木ノ脇:例えば亡くなった作曲家たち、リゲティとかクセナキスとかは。

稲森:まあでも著作権がまだ残っていたら十分マーケティング対象なのでは?

木ノ脇:なるほど。

稲森:著作権が残っていても、亡くなった人ばかりをマーケティングするわけにもいかないと思いますが。

木ノ脇:その分類しにくい人たち、今回の山下さんなんかもそっちの方ですか?どう思いますか?

稲森:ご本人がどのように思っているかわ分からないですが、僕の中ではそう感じています。作品の振れ幅がまずとても広いし、興味の幅が広いんですよね。作品がマーケティングしにくいかは分かりません。売れてほしいと思いますし。まだ曲は見ていませんが(6月中旬の対談時)、今回『5番の香水』っていう曲で僕はとても驚いたんですけど、会うたびに全然違う関心事が曲になってくる感じがします。音楽のテーマ自体が曲ごとに変わる人は少なくないけど、山下さんはその対象事象に対して音楽的なアプローチを一からしっかり練ってくる。だから結構骨太な作曲家というイメージです。何ていうかな、音楽がファッションにならない。彼女の曲で音のデザイン性とか響きのファッション性みたいのことに強く振っているものをあまり聞いたことがなくて、でもそういう流行を追わないことで、もし、彼女の持っている作家性みたいなものが売りにくいものとして判断されたり、受容しにくいものとして判断されることが万が一あるとしたら、それはとても残念なことだなと思います。それで僕は今回新曲を聞きたいと思ったんですけど。

木ノ脇:後押ししたい?

稲森:僕なんかに後押しなんてできないですよ。後押ししたいというより、関心があります。山下さんの新曲を聞きたいという。

木ノ脇:なるほど。良いと思います。稲森さんのフィルターを通して別の作曲家を選んでいただくのは今回の狙いでもあります。要するに僕のソロのコンサートなんだけど、稲森さんの個性も全面に出ているのであってほしい。

(次回に続く)

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