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これぞ最新・最高の舞台作品だ。「The Greate Tamar」

 2019年6月29日、彩の国さいたま芸術劇場ではスタンディングオベーションが起きていた。多種多様な舞台作品をランキングするのもどうかと思うが、日々アップデートされている人類の認識その最新の哲学を感じる作品を目の当たりにし、その情報量の多さと壮大さに浮遊感を覚えながら、これは今この時代にやっと現れることが出来た最高の作品だと感じていた。

 この舞台では、空を飛ぶし、地に潜るし、重力は無くなるし、時間移動もする。特に時間移動に関しては全体を通じて常に行われていて、それがこの舞台の最大の特徴だと思う。

 公演が始まる前、黒いスーツを着た男がこちらを向いている。既に、公演開始の境界が曖昧で、かつ第四の壁(客席と舞台の間にある見えない壁)も曖昧だ。
 公演が始まると彼は歩き出し、全てを脱ぐ。そして黒い板を一枚めくり、裏の白を表にしてそこに寝そべる。すると、もう一人黒いスーツを着た男が舞台に現れ、まるで遺体を安置するように白い布を掛け、舞台を去る。去ったその瞬間、手前から黒いスーツを着た男が現れる。観客は演者が瞬間移動をしたような錯覚を覚える。その彼は別の黒い板を持ち上げて倒し、白い布を風で吹き飛ばし裸体が露わになる。すると、もう一人の黒いスーツの男が戻ってきて再びシーツを掛けるが、また吹き飛ばされ、掛けては飛ばされ、それが何度も繰り返される。
 不思議なのは、白い布を掛ける彼は、風で吹き飛ばす彼の事が見えていない点だ。しかし風の彼は布の彼のことを見て行動する。ここで、この二人に時空の歪みがあることが分かる。

 この新しい表現を例えで説明してみよう。パラパラ漫画は1枚目の絵と2枚目の絵がほぼ同じ絵なのにほんの少しズレていて、それを連続で見る事で動きを見ることができる。この舞台では、その2枚の絵を同じ机に広げているようなものだ。別の時間の同一人物が、同じ空間に現れている。前の時間の彼の事を、後の時間の彼は見る事が出来る。観客は、彼らを連続した物として鑑賞する。

 同じような衣装を使ったトリック自体は「Scala –夢幻階段」でも存在した。しかし「The Great Tamer」は、他にも多くの時間を扱っていた。

 例えば上のシーン。美しく青きドナウがゆっくり流れ時間が引き延ばされた状態で、宇宙服で無重力遊泳する演者が出てくる。当然2001年宇宙の旅が思い浮かぶが、あの映画が時間を操っている事以外にも、そもそも実在の映画をテーマにしたシーンが舞台に存在すること自体が、虚構性や時代感に揺さぶりを掛けてくる。

 裸で彼らがポーズを取ればギリシャ神話の彫刻に見えるし、黒いスーツに白い襟を足せばカラバッジョの絵画になる。リーフレットに書いてあったのだが、この舞台作品はいじめで自殺した少年が泥の中から発見された事件が出発点だという。引用元の時代があちこちに飛んでいる。

 それは、明らかに虚構の世界の中に入り込んで楽しむ多くの舞台作品とは異なる。そして台詞が無く、身体性が強い。逆立ち、スティルト、玉乗り、パントマイムなどの技法だけを言葉で言えば、サーカスのようでさえある。

 それらを纏め上げ、まるで映像作家による超現実的イメージを、生身で体現し甘美な魔法を掛けてくるパパイオアヌーの「The Greate Tamar」。
 では、それを見て観客は何を思うのか。

 それは、思いもしなかった人間の自由さだと思う。

 下の写真のように体がバラバラになるのを見ると、自分の可能性に対しての思い込みをほぐしてくれる。人は分解可能だったのだ。

 そして、この作品はとにかく時間を扱っている。時間が移動できると言うことは、三次元より一つ上の高次元の存在だということだ。そこでは、死ぬ事も生きることも出来る。青年を地面の中から救い出して抱きしめることも、自らと二人でダンスすることも出来る。目の前で本当に起きていることなので、こんな世界があり得る事を知る。

 でも、所詮は舞台上の魔法でしょう?と思う人のために、ラストシーンがあったように思う。あの特別な装置も特別な身体も必要としない動きの中に、何かを見いだせたら、それは観客にとっての希望だ。単体では何気ない動きに見えても、直ぐ側にはあの世界が控えていて、それは現実社会ともつながっている。

 本当に素晴らしい作品なので、見て欲しい。明日から京都公演が始まり、当日券もある。是非。
https://rohmtheatrekyoto.jp/event/54252/

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