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檀原実奈評 ナギーブ・マフフーズ『ミダック横町』(香戸精一訳、作品社)

評者◆檀原実奈
翻訳小説は異文化を知る恰好のガイド――モノトーンで描かれた庶民の町のしたたかさが見えた
ミダック横町
ナギーブ・マフフーズ 著、香戸精一 訳
作品社
No.3592 ・ 2023年05月27日

■今の時代、本との出会いはさまざまで、毎月店主が一冊選んで送ってくれる定額サービスもある。何が入っているかは封を開けてのお楽しみだ。この本が入っていたらどうだろう。『ミダック横町』――聞きなれない語感の地名で、表紙にはモスクが見える。帯には「近代庶民の『千夜一夜』」と。ああ、むかし児童書で読んだ「シンドバッドの冒険」とかの。待てよ、ノーベル賞作家なのか! アラビア語なんてとうてい読めないから、翻訳が出たのなら有り難い。
 それでも緊張が残る。イスラム教ってよくわからないし、厳しそう。そういえば大人になって読んだ『アラビアン・ナイト』は随分印象が違っていたな。表紙の絵はモノトーン。本の見返しや扉の褐色が表すのは砂嵐か夕暮れか。
 目次は三十五章から成り、それぞれのタイトルから予想を始めると興味が湧いてくる。次の見開きには主要登場人物のリストと説明があり随分親切ではないか。聞きなれない語感の名前でも大丈夫な気がしてきた。
 最初に、舞台となるカイロの下町〈ミダック横町〉の説明がある。時代はここで明かされないが、第二次大戦中である。この通りには『千夜一夜物語』当時の面影が残る可能性も暗示されている。そこに立つ喫茶店〈キルシャ亭〉に人々が集い、水煙草や紅茶を注文する。
 はじめに一同が会して観客への顔見せが終わり、一幕ずつ主人公を立てる舞台演劇のように、順にスポットライトを当てながら話が進む。この一人ひとりのキャラクターが濃い。例えばハミーダ。生後すぐに両親を亡くし養母に育てられた二十代の娘だが、か弱さのかけらもなく、贅沢な暮らしにあこがれ、養母と喧嘩ばかりしている。部屋の窓から外を眺め「横町さん、こんにちは」からの長い独白で横町の人々をこき下ろす(四〇頁)。同じく孤児で養母に育てられ、窓から見える美しい景色を長い独白で讃えた『赤毛のアン』との落差がはげしい。全編にわたるハミーダの毒舌と闘争心には笑ってしまう。一方で、近所の青年アッバースと恋仲になると、アパート階段での別れはまるで『ロミオとジュリエット』のバルコニーシーン。アッバースがハミーダを讃える長い独白はどこか聞き覚えがある。「ああ、大好きなハミーダ! なんて美しい名前だ!『ハミーダ』と口にするだけで僕は気がおかしくなってしまいそうだ」(一三七頁)。本作は当然『千夜一夜物語』をベースにしているだろうが、著者は西洋文学にも明るかったらしく、その影響を推測してみても面白い。
 近代版『千夜一夜物語』を構成する要素もまた、青春小説にかぎらない。中年小説、ざあます小説とでも呼びたくなる十五章のハミーダ母と寡婦アフィーフィ夫人の建て前合戦に爆笑する。著者マフフーズの作品の多くが映像化されて国内外で人気なのは、この場面を想像するだけでも納得できる。
 ノワール小説でもある。パン屋の奥に間借りするザイタは、物乞い志望者に恐ろしい手術で身体改造を施し、手術代や手数料で稼いでいる。けれど、あんたはその威厳を活かせばいい、と追い返すまっとうな面もある。
 イスラム教文学とも読める。自らの子供を皆亡くした悲劇のあと、信仰によって立ち直り、やがてミダック横町の人々を励まし、尊敬を一身に受ける存在となったフセイニ氏。聖都巡礼への出発前の熱弁は数頁に及んで感動を呼ぶ(三四二頁)。横町から犯罪者が出たことは、彼らの苦境に気付けず安穏と暮らしていたせいだと悔やむ。こんなに慈愛に満ちた教えなのか、とイスラム教に暗い読者も共感する。
 他の濃厚な登場人物たちも次々と濃密な物語を編んでいく。「聞きたかねえよ」「畏怖を感じさせるものがあるぜ」「間違いなくってよ」と、多彩な会話表現で漫画のようにキャラクターが確立される。予想外の展開を「まさか」「そうきたか!」と見守り、「ここは似ている」「いや、これは独特」と、異文化と既知の文化を比べて行き来するうちに、読者の角張った緊張はしだいに削られ丸みを帯びてくる。
 不安は消え未知の世界にすっかり慣れて、東アラブ風ケーキ〈バスブーサ〉を食べてみたくなり、アラブ女性が手で胸を叩くのは嫌悪のしぐさだとわかってくる。特段調べなくても物語の中で用例たっぷりに理解させてくれるのだから。
 著者が子供時代に一九一九年エジプト革命を目の当たりにした影響だろうか、若者のイギリス軍基地への就業や外国人の流入で起こった格差や悲劇も物語に織り交ぜている。生涯、カイロをほとんど離れずアラブの人々を小説に書いたというが、かのジェイムズ・ジョイスが母国を離れてもダブリンの街と人々を書き続けたことに重ならなくもない。ともに当時の大国に翻弄された都市だった。事件が起こり憤怒をおぼえても最後は『千夜一夜物語』のごとく「大団円」とするところに、モノトーンで描かれた庶民の町のしたたかさが見えた。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3592 ・ 2023年05月27日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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