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思考と感情の総量はたいして個人差がない

前回の記事で、高橋巌さんの本に夢中、みたいなのを書いたのですが、そんな事例を少し。たとえば、『神秘学講義』(角川選書)「思考と感情、感覚と直感」の章で、こんな解説があります。

。。。ところが更にユングは、意識の生活において、日常の覚醒時の生活において思考の発達している人は、無意識の生活において感情が発達している、意識の生活において感覚の発達している人は、無意識の生活において直観が発達しているとも、言っています。そして、日常生活において、思考型の人があまりに思考中心に生活を行っていますと、無意識の中からその人間の気がつかない部分に非合理的な感情の爆発みたいなものが起こって、突然自分でも思いがけないようなことをすることがありうると言っています。

たとえば会社につとめている間は非常に理性的な思考型の人が、家にかえってくると、途端に非常なわからずやになってみたり、そういうことは逆に、感情が意識の表面に出ている場合にも言えることです。感情型の人は、逆に無意識の生活においては、非常に合理的に計算する場合があります。

こういうのって、なるほど〜って思いますよね。感情的な人とか、理知的な人っていう言い方をよくすると思うのですが、でも実際に目に見えていない部分をあわせて考えるとみなどちらの要素もみんな同じぐらい持っているという、そんな感じ。

たとえばルドルフ・シュタイナーについていえば、その文章からは常に理知的に目に見えないものについての考えを突き詰めているような印象を感じますが、その背後に非常に熱い思いみたいなのを感じます。先日取り上げられた小杉英了さんのシュタイナー入門ではその熱いシュタイナーのようなものがよく描かれていて、人物理解にとても新しい視点を得られました。

今回のこの記述はシュタイナーではなく、ユングの無意識の解説部分でしたが、このようにシュタイナーを軸にして、その周辺の膨大な情報がとてもよくまとまって僕の知りたいことを書いてくれている感じがするのが高橋さんの本を読んでいて止まらなくなる理由です。



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