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DAOKOやルーティン動画にみる、ありのままで繋がることの強さ

このnoteはSNSにある構造的な課題を探りながら、より今っぽいSNSの楽しみ方を見つけようとするものです。

<まとめ>
・いきすぎた手段主義的なフォロワー獲得競争 → 「今ここ」的楽しさの重視
・映え的、Fake的 → ありのまま/垂れ流し的、Real的
・ネクストソーシャルなライフスタイルSNS、stayhomeを4/1に公開

まえがき

こんにちは。セブンイレブンの担々麺ばっかり食べてるイギー奥村です。花山椒、カイエンペッパー、クミンを適当に足して食べるのがいいです。スパイス最高。深みの元素。

まあ雑な現実でも、心から求めるものをちょっとでも感じて生きていきたい……そんなライフスタイルが私のリアルです。すべてを支えてくれる、セブンイレブンさん、いつもありがとう。サンキュー、市場経済。


さて、ライフスタイルといえば最近、Youtubeにあがっている本棚食堂さんやinliving.さんのルーティン動画がめっちゃ面白いです。私の周囲では、


「ルーティン動画は地味にハマる」
「知ってる!twitterで話題になってたね。やかましいインド人でしょ」
「寝る前は、だいたい毎晩実況か、そういうの(ルーティン)見てるかも、あと金属バット(お笑い)」


という声が聞かれます。好きなもので繋がれるのとっても幸せです。


ルーティン動画

私の大好きなinliving.さんは今年の1月にyoutube活動を本格始動して、1ヶ月ちょいで10万チャンネル登録とかで、時代にフィットしている感じがすごいです。

まだ見たことがない人はぜひこちらからどうぞ!
一人暮らし女子のモーニングルーティン(冬の休日編)morning routine.

とくに代表的なコンテンツはルーティン動画なのですが、見てるだけで穏やかな気持ちになるし、inliving.さんの透明感がやばい。みんな癒やしを求めてるのかなあと思う。

instagramとか、facebookとかtwitter見てて、こういうただ幸せな感じってそういや最近あんまりなかったな〜って思って、この感覚はなんなんだろうとずっと思ってたんです。

で、これって、

「ついに訪れた(ありのままの)ライフスタイルをweb上で消費する贅沢」

じゃないかと。ライフスタイルって、もしそれが虚構だったらよっぽど上手くやらないと響かないと思うんですね。

だって嘘のライフスタイルとかしらけるだけじゃないですか。

今までもライフスタイルコンテンツはたくさんありましたが、ここまでのリアリティはなかった。ルーティン動画は演出はあっても題材はどこまでいっても現実です。ドキュメンタリー映画みたいな。

カメラを通してるからもちろんバイアスはゼロじゃないけど、ちゃんと現実なのだろうっていう信用がある。

だからライフスタイルを楽しく消費できているし、そういう安心感をベースにした人が繋がり合う幸せがある。まるで友達の家に行って、遊んだ時みたいな感覚。


SNSの矛盾

同時に、「instagram的な、今までリアルとされてきたものがだんだん色あせてきてるかも?」って思いました。

「instagramはSEOコンテンツに支配されていなくて、リアルな投稿をハッシュタグ検索できるからいい」っていう感覚が今まであったんですが、だんだん過剰に演出されたコンテンツにリアリティを感じなくなってきました。

一方でツイートやコメント欄で、ちょっときつめの言葉が流れてたり、フォロワー獲得競争、いいね獲得競争っていう空気があったりして、そっちはどこまでもリアルだなって思います。

素敵な投稿がいっぱいあるから見たいけど、時々事故みたいに嫌な気持ちになったりする。それを日々繰り返し、思えばもう何年もしていると思うんです。

人によってはSNSに疲れて使わなくなったりして。私はこれって本当に健全なのかなって思うようになりました。

ここに「今、SNSが乗り越えるべき壁」みたいなものが見える気がします。

ちょっと息苦しさがあるけど、繋がるにはそうしなきゃいけない「繋がるほどに孤独という矛盾」

ルーティン動画に感じた希望をこのnoteでもう少し深掘りして、新しいSNSの楽しみ方を見つけたいと思います!


SNSで起こってる現象

なんでもない共有のためであったり、フォロワーに喜んでもらったり、「いいね!」を欲しがったり、フォロワーという資本を獲得するために、また誰かと繋がっていくというのがSNSに参加する楽しさだと私は思います。

だけど、場合によって「いいね!」が欲しい、フォロワーをたくさん増やしたいという姿勢が強まりすぎた時に、そこは幸せな空間でなくなってしまうのかもしれません。

たとえば友人のキラキラした投稿と自分の現実の差に苦しんだりする「相対的剥奪の問題」があります。

相対的剥奪は、自分の期待値と現実の差を認識することで生まれる欠乏感のことを指します。他人の芝生が青く見えたときに、感じる苦しさがそうです。

でも、キラキラした時間を過ごしている友人も、実際にはいつもがいつもそうじゃない訳ですよね。当然、誰しもが日常と非日常を繰り返していますが、SNSでは映えている方が「いいね!」を得られるので、非日常ばかりが切り取られがちです。

ですが、閲覧側はそれが日常であるように錯覚してしまい、暗に自分の現実と比較して苦しんだりします。

投稿側にも苦しみの種があって、多くの人が、いいね数のためフォロワー獲得のために、キラキラ度合いを高め合う競争が過剰に進むと、どんどん承認を得るためのコスパが悪くなってしまいます。(キラキラのインフレ化!)

また、キラキラのために日常生活を使う程度が高まりすぎると、本来、日常生活で得られたコミュニケーションの機会を失ってしまう面もあります。

そして過度に編集された投稿に対する「いいね!」は、実のところ、投稿者ありのままに対しての承認には繋がっていないとも思います。

こうした未来のために今を手段化するという近代的な態度を、「手段主義」というそうです。

今あるSNSのトラブルの一部は、行き過ぎた手段主義的な態度と、それに端を発するありのままでない投稿競争が生んだ歪さにあるという風に私は思います。


ルーティン動画の希望

さて! ルーティン動画の希望とは、ありのままの投稿なのに、ライフスタイルの垂れ流しというフォーマットと合わさることで、新たなコンテンツとしての価値を手に入れたことにあると思います。

ありのままの投稿に対する共感や承認は、お互いにとって心が通いあうものになっていると感じます。

そして、ありのままをコンテンツ化しているので、日常生活に対して無理を促す構造ではないです(もちろん動画の企画、撮影、編集は大変です)。むしろ日常生活を無理してキラキラにしていくことは、ありのままでなくなるので、コンテンツの価値を下げることに繋がっていくのでしょう。

きっとそこで大切になるのは、ただ、ありのままのささやかなお洒落さであり、幸せなのです。


ルーティン動画のその先とstayhome

手段主義の次に来るのは、consummatory(自己充足)であると、社会学者の見田宗介先生はいいます。

自己充足の世界とは、未来のために今を使うということではなく、徹底して今ここを楽しむ! という世界です。

今のSNSに手段主義的な要素が含まれるのは、プラットフォーム設計そのものによるところが大きいんじゃないかと思います。

たとえばyoutuberとしてプロのメディア活動をすすめるyoutubeでは、投稿者が大量のフォロワーを獲得することがプラットフォームの戦略上、極めて重要です。

なので、もし自己充足のSNSを考えるならば、新たなSNSの場が必要だと思います。

4/1に再リリースするstayhomeというアプリでは、手段主義ではなく、自己充足のための設計をしています。たとえば、フォローフォロワーの概念がない代わりに、親密度の概念があったりします。テーマは「バーチャルシェアタウン」です。

具体的な内容は、またstayhome運営記録の中で書いていければと思っています。アプリ自体は現在のバージョンから大幅ピボットします(ios版のみ)。

私は生存戦略としても、SNSの矛盾を乗り越えたいと思うし、SNSはまた違う在り方がありえるはずだから、その可能性としてルーティン動画に感じた希望を形にできればとても幸せです。

**

DAOKO**

締めくくりとして、DAOKOの神曲"NICE TRIP"のメッセージを持ち出してみます。

**“君が好きな私になるべく
ありのままを捨てることを厭わない
求めるならば 与えなければ

昨日 今日 永遠 無い
明日 明後日 消えて しまう かも

どうしようもない私達 慰め合いませんか
だれでもいい このなかに
同じ気持ちの人はいませんか"**

daokoの叫び。

遠い光の中にある、理想を追い求める私たちが、だからこそ同じ痛みを感じられる。その「今ここ」にある痛みからスタートして、新しい繋がりを模索しよう。

そういう歌だと私は解釈しています。今のソーシャルメディア環境は、たぶんいびつさがあって。これからSNSはどうなっていくといいのだろう。もし私と“同じ気持ちの人がいたら”、みなさまの意見が聞きたいです。ありがとうございました。

DAOKO "NICE TRIP" 使用CM
Beats by Dre「ワタシたちが、新色。」 | We Are The New Color


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