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「こんな音にしたい」という意志をどうやって持つか?(10)

サイレント映画、ダダ/シュールレアリスムドイツ映画、表現主義映画をざっと概観する。私はとくにフリッツ・ラングの作品に(とくにその手法に)関心があるけれど、それについては次回投稿する。その前に一応その背景を見ておく。シェーンベルクの『期待』についてもそのうち書くけれど、そちらは今勉強をしているので、それがまとまったときにする。

muet...

1927年まで、サイレント映画は存在しなかった。映画だけがあった。連続する写真によるパントマイム。それが映画だった。挿入字幕をできるだけ減らして、映像の中のアクションとその映し方だけで何が起こっているかを説明することに成功すれば、その作品は言語の壁を越えて容易に世界中に広まった。チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin, 1889-1977)やバスター・キートン(Buster Keaton, 1895-1966)のようなパントマイム芸やスタント芸で魅せる映画が世界中で愛好されたのも当然だろう。

レオス・カラックス(Leos Carax, 1960-)の初期作品『ボーイ・ミーツ・ガール(Boy Meets Girl, 1984)はそういう古い映画へのオマージュがある。サウンド映画だけれど、白黒で、ときどき黒一色の画面が挿入される。その中で、耳の聞こえない人が「昔のサイレント映画は楽しかった。役者たちが話の筋と関係のない冗談を言っているのを、唇を読めるわたしらはよく笑ったものだ。」と言っている場面がある。ミュージカル映画『雨に唄えば(Gene Kelly/Stanley Donen, "Singin' in the Rain," 1952)』は、サイレントからトーキーへの移行を背景としたコメディだけれど、そのような話の筋と関係ないことを役者が言う場面がギャグとして描かれている。今でもフランス語圏ではサイレント映画はmuetと呼ばれるけれど、これには「唖」という意味もある。muetが演じる芝居。それはもともと絵画がやってきたことだった。その絵画が時間を手に入れた。それが映画だ。

今日、サイレント映画を見慣れていない私たちが感じるのは、それなりに複雑な筋で大作だと、観るのにかなり集中力がいるということだ。登場人物が何かを言っている。けれどそれが挿入字幕で説明されない。そんな場面もたくさんある。想像力を働かせて観ることを要求される。また、表情、動作、配置などから意味を「読む」ことを要求される。

これは創る方にとってもチャレンジだけれど、面白いことでもある。たとえば初期の頃の、自然光に頼っていた時代に、遅いレンズで、ズームはおろか移動もできない手回しカメラで、どう部屋の中の朝昼夜といった時間を表現するか。登場人物の性格や感情をどう表現するか。制限が技術を生む。一方で「もしカメラが動かせたら面白い絵が撮れるのに」などと撮影現場から要求があったりして機械や設備のほうも進歩する。

1927年にサウンドを乗せることができるフィルムが実用化され、『ジャズシンガー( Alan Crosland, "The Jazz Singer")』が公開されたときは、そんなmuetが技術的にも産業システムとしても発展し、言ってみれば一番良い時を迎え花開く矢先だった—当時映画に関わっていていた人が、当時を振り返ってそう言っている—そんなドキュメンタリーがある。そういう人にとっては、トーキーは映画の破壊者でしかなかった。『雨に唄えば』に描かれている、それまでパントマイムしかやってこなかった役者たちがあわててディクションのレッスンを受け始めるというのがあるけれど、それ以上に業界にとって大変なことだった。

ついでに、『雨に唄えば』ではジーン・ケリー演じる主人公が自分はいかに役者として劣っているか、ただの「影」でしかなかったか、と嘆く場面があるけれど、本当はパントマイムがストレートプレイに対して芸術として劣ってるとか、そういうことはない。すぐれた英語の使い手が、明日から日本語でよろしくと言われても困るのと同じで、またいちからやり直さなければならなかったということだ。それは俳優だけの問題ではなかったのである。

映画の伴奏音楽の始まり

ブリュッセルの映画博物館(シネマテーク、CINEMATEK)ではいつもサイレント映画を上映していて、ピアニストが生演奏で伴奏をしている。それも学生のアルバイトとかではなくて、何気にたとえばICTUSのような名だたるアンサンブルで仕事をしているような人が弾いていたりする。ブリュッセルにいたのは15年前までのことで、それ以後は訪れていないから、今はどうなっているのか。たぶんそう変わらないだろう。

ウィキペディアによると、映画に伴奏が付いたのは、最初は映写機から出るノイズを和らげるためだったらしい。ノイズは他にもあっただろう。サイレント映画ではほかの観客がおしゃべりしていても話が分からなくなるということはないけれど、それも過ぎれば気が散るだろう。おしゃべりの内容がこちらの耳に入ってこないぐらいにマスクされていたほうが良い。喫茶店のBGMみたいに。そのBGMも、映画の内容と全く関係ないのではやはり気が散ってしまう。せめてコミカルなシーンには軽いコミカルな音楽を演奏するとか、雰囲気を合わせるとか、シーンごとに段落を区切るように演奏されていないとやはり気が散ってしまう。シネマテークのピアニストはライトモチーフの操作みたいなことはしなかったと思うが、シーンごとに調子を変えるぐらいのことはしていた。当時そのピアニストを知っているという人に訊いたら、あれは全く即興でやっているということだった。

もうひとつ伴奏が必要な理由としては、沈黙は観客に緊張を強いるということがある。沈黙は疲れさせる。長い作品であればなおさらだ。1903年の『不思議の国のアリス』は8分ほど。1910年の『フランケンシュタイン』は12分ほど。この頃の作品は、今風に言えば、有名な文学作品を映画にすることを「やってみた」という感じ。アリスの小さくなったり大きくなったりするのをどう現すかなんて、カメラを持てばやってみたいだろう。それぐらいの長さならまだ無音でも我慢できないこともない(実際には伴奏を付けたのだろうけれど)。1913年の『プラハの学生』1915年の『不思議の国のアリス』は40分以上。この辺になるともう「やってみた」のずっと先を行っている。映画産業も大きくなってきた。世界大戦でヨーロッパの映画産業は壊滅する一方、アメリカではハリウッドを中心に急速に発展する。1916年のD. W. グリフィスの『イントレランス』はすでに3時間半だった。大戦後のヨーロッパでは、1920年代のドイツで映画産業が発展する。『カリガリ博士(Robert Viene, "Das Cabinet des Dr. Caligari," 1920)を始めとしたいわゆる「ドイツ表現主義映画」の名作が多く生み出された時代だ。世界大戦後の1920年ごろには80分は当たり前、120分のものも多い。フリッツ・ラング(Fritz Lang, 1890-1976)の1922年の『ドクトル・マブゼ』は1部2部に分かれていて、それぞれ2時間ほどある。伴奏音楽もそれぞれの作品に対してそれぞれ一貫したものが書かれ、大きな劇場ではピットを掘ってオーケストラが、小さな劇場ではそのピアノ版などが演奏するようになった。

見世物小屋で手回しオルガンの伴奏で見せる出し物が一晩の劇場作品になるまでかかった時間の長さと、一般の人々が携帯電話を手にするようになってから、やがてカメラが付き、いろいろな機能を好きなように付け加えることのできるスマホになるまでにかかった時間の長さはそう変わらないと思う。そうなるために伴奏が果たした役割は大きいだろう。

パリで—シュールレアリスム映画について少し

伴奏音楽と映像をより互いに関連させるために、映画のために特に作曲し、各劇場付きのピアニストや場合によってはオーケストラにスコアを配って演奏してもらうということも、多くの製作者が早くから考えていただろう。初期のそういったスコアとしては、これもウィキペディアで知ったのだけれど、サン・サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921—ドビュッシーより後に死んでいる)が1908年に書いたのがある。シーンごとの曲調の書き分けや、挿入字幕をキューにして調子を変えるというようなこともなされているようだ。格闘シーンもそれらしくなっている。スタイルは古めかしいけれど。それにしても、ドビュッシー(Claude Debussy, 1862-1918)が映画音楽を書いていないのはちょっと意外な気もする。

サティ(Erik Satie, 1866-1925)には1924年のルネ・クレール(René Clair, 1898-1981)のバレエ『本日休演』の幕間の映画のための音楽がある。これは映写機の都合などで尺が上映ごとに変わってしまうことも考慮してリピートを入れたりして柔軟に書いてあるそうだ。ただし映像はストーリーもなく、何か強い感情のようなものを表現するというよりは、ちょっと滑稽だけれど、むしろニュートラルな客観性を求めるようなところがある。映像との関連性は感情よりも速度にある。スローモーションから車や汽車や人々が走り、やがて立ち止まるシーンまで、映像の中のリズムが加速減速するのに音楽が呼応するようになっている。その効果は、そこから滑稽さを抜けば、スティーヴ・ライヒ(Steve Reich, 1936-)やフィリップ・グラス(Philip Glass, 1936-)の音楽を聴きながら都市の風景の映像を眺めるときに受けるものから、そう遠くに隔たってはいない。

これは後に述べるドイツ表現主義映画と比較して言うのだけれど、ダダ/シュールレアリスムの舞台作品や映画を観て感じるのは、人間のドロドロした部分を切って捨てようとする態度だ。感覚を楽しませるけれど、感情移入は拒否する。そのためにストーリーやそれを運ぶロジックは捨てられる。ダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)とブニュエル(Luis Buñuel, 1900-77)の『アンダルシアの犬(Un Chien Andalou, 1929)』も、あれはショッキングだけど、基本的な態度は同じだ。盛り上がったりしたくないのだ。それは、シュールレアリスムを文化運動として推進したアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)の動機が、彼が神経科の医学生だったときに世界大戦を経験し、そのトラウマや精神病に興味を持ったことから来ることを考えれば、ちょっと奇異に感じられる。彼は最初ダダに参加してそこから別れてシュールレアリスム運動を始めた。ダダはもともと戦争で滅茶苦茶になった世の中に対してちょっと斜に構えるところがある。ナンセンスを好んでクラフトを拒む態度はそこから来る。ブルトンはそこに精神(分析)を持ち込んだと言える。運動に参加した芸術家たち中にも、よりダダ的だった人も、よりブルトン的だった人も、実際には様々だったと思う。

客観の1920年代と表現主義

「ドイツ表現主義映画」という芸術運動はなかった。「ドイツ表現主義」というのも、定義は難しい。1905年ごろからナチス政権樹立までの間にドイツ、オーストリアで起こったいくつかの芸術運動をまとめて呼ぶときに使われている。ニューヨーク近代美術館のサイトは、フランスの「フォーヴ(les Fauves)」と比較される「橋(Die Brücke)」、以前の投稿で触れたカンディンスキーとシェーンベルクが関わっていた「青騎士(Der Blaue Reiter)」といった世界大戦前に結成されたアーティストグループから、戦後のソーシャル・コメンタリー的な作品が多い「新しい客観(Neue Sachlichkeit)」と呼ばれる運動まで含めている。

大雑把にまとめると、戦前は個人の精神—不安、苦しみ、悪夢、欲望、意志—といったことをテーマにすることが多かったのに対して、戦後はそれが「社会の」になってくる。それが「新しい客観」で、社会に対してむしろ辛辣な風刺になっているものが多い。「客観」と聞くと何かニュートラルな感じがするけれど、そうではない。1928年に初演された有名なクルト・ワイル(Kurt Weill, 1900-50)とベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)の『三文オペラ(Die Dreigroschenoper)』のような作品もそのような流れの中にあるだろう。ちなみに(ここのところシェーンベルクや新ウィーン楽派について書いているので)、アルバン・ベルク(Alban Berg, 1885-1935)のオペラ『ヴォツェック(Wozzek)』は1914年から1922年の間に書かれ(従軍中の休暇の間にも書かれていた)、1925年に初演された。未完の『ルル(Lulu)』は1929年から1935年の間に書かれ、未完のまま1937年に初演された(補筆された「完成版」は1979年に初演)。

「新しい客観」の名の起こりは1925年にマンハイムで開催された展覧会から来る。キュレーターは当初「ポスト表現主義」という題を考えていたらしい。「表現主義」という言葉はそれ以前からあったこと、1920年代はそれに対して批判的な、あるいは少し距離を置いて見るような人たちが少なからずいたことがわかる。

「新しい客観」は表現主義と、扱うテーマ、手法などをいくつか共有している—人間の暗い面に焦点を当てること、大胆なデフォルメなど。その一方で19世紀のロマン派的要素、戦前の極度の抽象化や観念的なところなどは鳴りを潜める。代わって、戦後の経済や政治やモラルの混乱、社会階級の対立に目が向けられる。ドイツでは早くから映画は産業化され、戦時中もプロパガンダ作品が創られ、戦後のワイマール共和国の下でもしっかりと生き残っていた。戦後は荒廃から人々の目を逸らさせるような作品が国策で創られた。そんな中で「新しい客観」はむしろカウンターカルチャーだったと思う。ワイマール共和国は言論の自由が保障されていたと思っている人が多いかもしれないが、検閲もあった。G. W. パブスト(Georg Wilhelm Pabst, 1885-1967)の1925年の作品『喜びなき街(Die freudlose Gasse)』はそういった「新しい客観」の作品のひとつとして知られている。

舞台は1921年、ハイパーインフレ下のウィーン。貧民街のあるひとつのアパートに住む二人の女性とそれぞれの家族の命運の明暗を軸に描かれる群像劇だ。貧しい人々と対照的にパーティを楽しみそこで株式市場の操作をたくらむ富裕層が描かれる。売春、二つの殺人、最後には貧しい人々が富裕層が遊ぶナイトクラブに投石を始める。この映画は公開後すぐに上映禁止になり、代わりに1時間ほどの別のヴァージョンが創られた。そこでは二人の女性のうち、「明」のほう、すなわちグレタ・ガルボ(Greta Garbo, 1905-90)が演じる「身を持ち崩さずに済んだ女性」の話が、売春も殺人も蜂起もなしに描かれる。インターネットに上がっているものはこちらの短いヴァージョンが多い。

なお、貼り付けた修復された完全版には新しい音楽が付いている。創られた当時に付けられたであろう伴奏とはかなりスタイルが違っている。古い映画の多くはパブリックドメインに入っていて、アップロードもダウンロードも自由だけれど、伴奏音楽は新しいものが付けられていることが多い。これはblu rayやDVDになっているものにも同じことが言える。またYouTubeなどでは、映画音楽に関心がある人やそれを仕事にしている人が自身の研究や宣伝のために自作の音楽を付けているものも多い。

ダダ/シュールレアリスムも、表現主義/新しい客観も、メインストリームの文化に対する一種の叛乱ではあった(文化史/芸術史は、結局カウンターカルチャーの歴史だ)。どちらもある種の客観性を主張していた—それが戦後だった。けれども、ドイツ表現主義/新しい客観は、ダダ/シュールレアリスムのような、論理性を壊すとかアートマーケットをかく乱するとか、そういうことより、より直接的に社会、政治に対して何かを言うことに関心があったと言えるだろう。

「ドイツ表現主義映画」の傑作として今でも参照される作品の多くが1920年代、つまり戦後に創られたものである。それぞれの作品は、19世紀ロマン派から新しい客観までのスペクトラムのどこかにだいたい位置付けることができるだろう。

邪悪な博士/悪魔との取引/愛と死/狂気/道徳

ドイツロマン派の文学者の代表者たちの作品—E. T. A. ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776-1822)の『砂男』(『コッペリア』の原作)、シャミッソー(Adelbert von Chamisso, 1781-1838)の『影を失くした男』、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832)の『ファウスト』—などには、後のドイツ表現主義映画のモチーフになる要素が詰まっている。F. W. ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau, 1888-1931)は『ファウスト』を映画化している。『プラハの学生(1913年に創られて以降、何度かリメイクされている)は基本的にエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe, 1809-49)の『ウィリアム・ウィルソン』をベースにしているが、男が恋を成就させるために影を悪魔に売る話だ。

『砂男』に登場するスパランツァーニという、オリンピアという自動人形を造った博士のような、邪悪で他人を意のままに操る科学者というモチーフは今のハリウッド映画やボンド映画に至るまで数えきれないほど使われている。ロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』はそのような博士が「信頼できない話者」によって語られるという、凝った造りになっている。ラングの『ドクトル・マブゼ』はマブゼ・サーガというように、続編が何作か本人によって創られているけれど、こちらは催眠術で人を操る博士が登場する(実際に催眠術を悪用するという事件があった)。『メトロポリス(Metropolis, 1927)』はスパランツァーニのようにアンドロイドを発明するマッド・サイエンティストが登場する(リドリー・スコットの『ブレードランナー(Blade Runner, 1982)』には『メトロポリス』へのオマージュがある)。

ドイツ表現主義映画の作品は、それぞれがロマン派から新しい客観のスペクトラムのどこかに位置する、と言った意味は、例えば『メトロポリス』では『喜びなき街』のように階級が描かれる(『ハンガーゲーム』や『エリジウム』に近い)。文字通り最下層(地下)では労働者たちが機械のように働いている。支配層は高いところでローマ市民のような生活をしている。こちらでも労働者の蜂起が起こる。けれど、作品中「頭(資本家)と手(労働者)は心で仲介されなければいけない」というモットーが繰り返し主張され、資本家の息子がそういった仲介者になり、資本家と労働者は握手するという、わりと中庸の道を行く結論が出されている(検閲されなかった)。それぞれの作品はまた、右から左までの政治的なスペクトラムのあちこちに位置しているということでもある。

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