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仕事における「構想」と「実行」の統一 #人新世の「資本論」

斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』 からの引用。

**引用開始

アメリカのマルクス主義者ハリー・ブレイヴァマンの言葉を借りれば、社会全体が資本に包摂された結果、「構想」と「実行」の統一が解体されてしまったのである。

どういうことか、簡単に説明しておこう。本来、人間の労働においては、「構想」と「実行」が統一されている。例えば、職人は頭のなかで椅子を作ろうと構想し、それをノミやカンナを使って実現する。ここには、労働過程における一連の統一的な流れが存在する。

ところが資本にとって、これは不都合な事態である。生産が職人の技術や洞察力に依存するなら、彼らの作業ペースや労働時間に合わせざるを得ず、生産力を上げることもできない。無理をさせれば、プライドの高い職人たちは気分を害して、辞めてしまうかもしれない。

そこで、資本は、職人たちの作業を注意深く観察する。そして、各工程をどんどん細分化していき、各作業時間を計測し、より効率的な仕方で作業場の分業を再構成していく。そうなると職人たちはお手上げだ。

いまや、誰でもできる単純作業の集合体が、職人よりも速く、同じクオリティか、それ以上のものを作ってしまうからである。その結果、職人は没落する。

一方、「構想」能力は、資本によって独占される。職人の代わりに雇われた労働者たちは、ただ資本の命令を「実行」するだけである。「構想」と「実行」が分離されたのだ。作業の効率化によって、社会としての生産力は著しく上昇する。だが、個々人の生産能力は低下していく。もはや現代の労働者は、かつての職人のように、ひとりで完成品を作ることはできない。テレビやパソコンを組み立てているのは、テレビやパソコンがどうやって作動しているのかを知らない人々である。

**引用終わり

現代において、われわれの仕事のほとんどが、「構想」なき資本からの命令の「実行」である。

オフィスの中でエクセルの数字をいじるだけの作業は、その背後にある現実と大きく切り離されており、プロダクトの受益者の顔も見えず、金銭的リターン以外のやりがいを得ることは難しい。

本来は、自ら、受益者のベネフィットを想像し、試行錯誤しそれを実現するプロダクトを創造する。

この引用にも書かれている通り、受益者からみたら、分業で作られたプロダクトの方が、構想と実行が統一された職人が作るものよりもクオリティの高いものができることがある。

これは、自動車や家電などを想像すれば容易にわかることだ。

ただ、この議論は、受益者の方の視点に偏っている。

われわれは、職人側、提供者の方にも目を向ける必要がある。それはさらに受益者のベネフィットにもつながってくる。

私は、構想と実行が統一された職人のほうが、顧客満足につながる分野もあると思う。それは提供者が仕事を楽しめることが、受益者のベネフィットに大きく相関するサービスの領域である。

この領域がどこなのかの見極めは難しい。

人間は、生きている中で、受益者の側面も提供者の側面も両方持っているが、もしフルタイムで毎日8時間も働いているなら提供者の側面のほうが重要になるのは明らかだ。

でも、そこに目がいかない。

疎外された労働者としてお金を稼いで、つまらない仕事の穴埋めをするよりも、構想と実行が統一された職人として人生の大部分を占める仕事をするほうが楽しいのは間違いない。





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