価値の本質論【2024年版】プルゴリ芦名さん幸福論の間違い
人間にとって価値とは何か?
各個人にとっての意識における価値とはなにか?
この価値の本質について、考えてみたい。
というか、既に私はそれを提出しているので、以前とは別の視点から解説したい。
なぜこれを書こうかと思ったかというと、プルゴリ芦名勇舗さんの幸福論が間違っていると思ったからだ。
芦名さんは見かけによらず本質的な発言をしているので、ずっと注目していたが、先日見た動画で、次のようなことを言っていた。
「人間の幸福は、3要素でほぼ決まる。自己表現ができているか?経済的な自由があるか?友達がいるか?」
これ、私にとっても凄い納得感のある。言い得て妙。
さすが蘆名さん、というまとめであった。
が、
ちょっとこれは浅い。これでは、根拠の乏しい宗教になってしまう。
どういうことか?
では、この蘆名幸福論に突っ込んでいきたい。
まず、人間は幸福を追求する義務はない、ということ。
幸福とは意識の1つの状態に過ぎず、それを人々が追い求める必要性はない。別のゲームに励む自由のほうが大切だ。
「幸福」とは、「苦しみ」「努力」「悲しみ」などの概念がありきの、偶然的な概念であることを理解したい。それについて以下に書いた。
では、幸福ではなく、もっと深い洞察はどうやったら得られるか?
そこで、「価値」の洞察が必要になる。
幸福、快楽、嬉しい、楽しい、などのあらゆるプラスのポジティブな概念の最上位概念が「価値」である。
どんな人間でも普遍的に、自分にとっての価値を求める。幸福を求めるかはわからないが、価値を求めない人はいない。なぜなら、価値はその人にとってのプラスであるから。あえてマイナスを取っているような行動も、その人からみればプラスなのである。
では、価値とは何か?
それは、一言で言えば、アメーバや微生物が持っているような善悪の基準が、時空間に広げられ、物語の中に位置づけられるようなものである。
それについては、既に4年半前にまとめているので是非、以下の記事を読んで価値の本質を見直してみてほしい。
ただ、この前提の下で考えれば、
この偶然性の中で、
多くの人間が幸福を人生のKPIとし、
さらにそのKPIは先の3要素でほとんど決まる、
ということであれば素晴らしい。
そういうプラクティカルな1つのフレームワークとしては素晴らしいまとめである。
が、
価値論まで自覚していないとただの宗教、物語の押しつけになってしまう。