「境遇の被害者」という視点〜「意思」と「責任」の再考〜 #ゲンロン #シラス
ゲンロンが主催するシラスという意識高めの動画プラットフォームで、國分功一郎×東浩紀「哲学にとって愚かさとはなにか――原子力と中動態をめぐって」という動画を視聴した。
ゲンロンの動画は6時間くらいがデフォルトになっているので、めちゃくちゃ長いが、BGM的にゆるく観ているとけっこういける。
ここで、國分さんがとても興味深いことを言っていた。
刑務所の受刑者たちは、自分の罪を咎められても釈然としないようで、
反省が進まないらしい。
しかし、
自分を「境遇の被害者」という観点で見直すと、なぜ罪を犯してしまったかの反省が促される、という。
**
普通に考えると、
「意思」と「責任」はセットの概念のように思える。
しかし、
自ら「意思」で行った行為はすべてその人が「責任」を取る必要があるのか?
サッカーでゴールを決めたフォワードの選手はたしかにヒーローだが、その背後には他のポジションの選手がいるし、もっといえば、コーチやトレーナー、ファンや、サッカーを支える社会がある。
人間の意思というのもこのような最後のシュートみたいなもので、その背後には、様々な思考や、他者とのコミュニケーション、これまでの生い立ち、初期の遺伝子的な設定、その親、親の生い立ち…などその広がりはどんどん外に無限に広がっていく。
有名な話で、痴漢など性的な犯罪を犯す者の多くが幼少期に性的虐待を受けていたという話。
それは、それを行った人間、それを止めなかった人間、さらにその人間をそのようにさせてしまった人間、など無限に遡及していくことが可能だ。
昔、円谷プロの作品はそうした人間の側面を描いていた。
バルタン星人もジャミラもただ凶暴な怪獣ではなく、人間社会の被害者としてのストーリーがある。
ただ、悪者の悪さを咎めるだけでは社会はよくならない。
むしろそのような「意思」の背後の無限の広がりに目を向けない行為自体が社会を悪くしている。
これは何も犯罪のような行為にだけ言えることではない。
日々の仕事や勉強、人間関係などでの一つ一つの行為は、1つの定義しやすい行為であるが、それは、サッカーのシュートと同じなのだ。その背後には、沢山の経験が蓄積されている。
仕事でミスをした従業員がいるとして、それは上司の指示があまかったかもしれないし、そもそもの報酬体系や業務範囲などの設定が納得できないものであったかもしれない。もっといえば、その会社の事業がそもそも縮小傾向の市場にいることが問題かもしれない。
あらゆる行為について、
このような総合的な視点を持って考えていく必要がある。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?