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学校こそ「協生農法」的な取り組みが必要だ

土地を耕さず(無耕起)、肥料や農薬を使わずに自然界の天然供給物と必要に応じた灌水のみによる栽培(無施肥・無農薬)、種と苗以外は一切持ち込まないという条件の下、植物を栽培する「協生農法」。

植物の特性を活かし、多様な植物や野菜を混生・密生の中で育てるため、虫が多くいたり、さまざまな雑草が生えていたりするような、一見、植物にとって「厳しい」と言えるような環境だが、それこそが本来の生態系。自然の中で生存競争は必然であり、特定の植物にのみ恵まれた環境になることなど、普通はあり得ない。

共生(共に生きる)という字を当てていないことでも、これは示されている。自然の生態系における《捕食者ー被食者(食べるー食べられる)》の関係は、一方が食べられるので「共生」ではない。しかし、たとえ食べられた個体があったとしても、全体としては生物が生み出され、多様性が高まり、結果として環境が良くなっていくのが生態系の仕組み。食べられてしまった個体だって「協力」し、生態系に貢献している。つまり、個々の生物が協力して生きているから「協生」なのだ。

農薬を使うことで害虫が駆除できる、雑草が生えない・・・。確かに、栽培したい植物にとっては好条件であろう。一方で、農業において「邪魔者」とされる虫や雑草などを排除することは、生態系の中で持っている役割を強制的に奪うだけであり、その代わりの働きを農薬がするわけではない。そこに生育するすべての生物が本来持っている役割を十分に発揮させる、それが協生農法の意味であり役割だ。

それが荒れた土壌に息吹を与え、さらなる協生を生み出していく・・・。

でも、これって学校や人間社会にも当てはまるんじゃないかと思う。

世の中にはいろんな人がいて、それぞれが違った容姿や身体、能力、特性を持っている。それを、キレイだとかカッコいいとか、外見の比較に始まり、勉強ができる・できない、運動能力がある・ない、など多くの人は他人と比べて優劣をつけようとする。しかし、そんなレッテル貼りは、あたかも農薬を使うがごとく、その人の存在価値や発揮すべき役割を歪め、制限し、一人ひとりが持っているポテンシャルを使う機会を、表出する場面ごと奪ってしまう。

多くの学校で繰り広げられる、テストの点数や偏差値という数値比較だけで判断される児童生徒の学習状況。それによって、一人ひとりの努力や能力すべてを決めてかかるかのような横暴ぶりで、さまざまな場面でコマのように動かされ、先の進路さえ制限される。

成績の良い者(生育のよい作物)には、良い待遇や褒め言葉(肥料)が潤沢に与えられ、そうでない者は日当たりの悪いところに植えられるがごとく、邪魔者扱いされる。全国学力テストの際、学校の平均点が下がるからと「受けさせない」児童生徒を選び、別室に追いやった学校があったことも、それを端的に物語っている。

学校や組織、社会は、多様性を認め、それぞれが持ち味を発揮することで成長し、強くなっていく。一人ひとりが持つ「強み」を活かして助け合うからこそ、全体としてのパフォーマンスが高まっていくのだ。

にもかかわらず、世の中から差別や誹謗中傷、紛争がなくならない。むしろ、格差がどんどん生み出されている。本来、力を合わせて全体が良くなるようにしなければならないのに、わざわざ立場や権力を間違った方向に行使し、お金や時間を無駄に使って、傷つけ合い、排除しあっている。

多様性尊重、多文化共生、SDGs・・・そんな社会をめざすというのなら、教育(学校現場)こそ一番に、「みんな一緒」「協力しよう」といったフレーズで強制される画一的指導や同調圧力、成績だけの比較を改めるべきだろう。
見た目のキレイさや統一感、見せかけだけの共同、表面上の他者理解・・・。そんなハリボテに埋もれている現実を、知っていながらスルーするのは、その場逃れの責任回避に他ならない。

共に生きていくためには、協力し合うことが欠かせない。その意識を育み、違うからこそ高め合える学校づくりの一丁目一番地は、共生社会ではなく、協生農法のように協力し合える「協生社会」だと思う。

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