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もはや、高校は「自立学習」の場でよい


一斉休校というコトバで語られる学校として、多くの人は何の疑問もなく「小学校」「中学校」「高等学校」をイメージするだろう。

でも、なんかモヤモヤする。3つの学校種を同時に語ることのおかしさが拭えない。

6・3・3制といわれ、高等学校までがさも義務教育かのような扱いで、大学そして就職へと一本のレールを進んでいくことを、誰もが当然のように思っている。

しかし制度上、高等学校は義務教育ではなく、皆が行くべき場として規定されているわけではない。にもかかわらず「行くべき」だと考える大きな理由は、大学進学や就職のためであり、高等学校を出ていなければ「生きにくい」社会が目の前に横たわっているからである。

制度的なことは後述するが、高等学校はいわば「学びをつなぐ」形でできた中途半端?(言い過ぎか)な存在であり、それを既成事実化して「大学入試対策」の場として使ってきたに過ぎない・・・とボクは思う。

良い高校から良い大学へ、その前には良い中学校・・・いや小学校段階から大学入試に向けてのレースに参加し、良い大学を出ることが良い会社への就職、ひいては安定した人生につながると思っている大人のなんと多いことか。

その一方で、N高に代表される偏差値や制度にとらわれない新たな学びの場ができ、その方が居心地が良い(=理に適っている)と考え、選ぶ子どもや親が増えてきた。

それは、日本の教育制度が社会に合わなくなってきたことの表れであり、受け身の学びによる無駄が多すぎて「子どもの自立」を妨げていることは各種調査結果で顕著に指摘されている。

そこにきて、今回の新型コロナ感染拡大による休校措置で見えてきた「学びの保障をどうするか」問題。報道を聞くにつけ、「小学校・中学校」と「高等学校」を一緒に語り、休校を論じることに違和感を持っている。

ぶっちゃけ、「高校生は自学自習でよくね?」と思えるし、そうさせるのが本来(遅くとも)「高等学校で身につけるべきチカラ」だろう。

つまり、高校生は放っておいてよい存在なのだ(どうするべきかは自分で考えろ、年齢的にもそれができる環境があるのだから)。それをもとに、高等学校教育を立て直すべきだ。

その分、手を差し伸べるべきは小学生、そして中学生であり、低年齢ほど手厚い大人のサポートが必要である。学校という括りでいうなら、まず目を向けるべきはそこである。

少し話は飛ぶが、9月入学問題を議論する際、単に「時期」にフォーカスするだけでなく、こういった制度そのものにもメスを入れてほしいと思う。(このことについては、改めて書きたい)

学校制度(その個人的解釈)

戦前の学校制度を文部科学省のサイトで見ると、「高等学校」が初めて登場するのは1900年(明治33年)以降であり、「大学予科」との記載がある。高等学校としての明確な教育内容があってできたというより、大学(帝国大学)に入学するための準備教育機関(=予科)として機能すべく設けられたといえる。

学校系統図

さらに、1881年(明治14年)まで遡ると、大学(東京大学)の下に予科あるいは予備門が設けられ、小学校→中学校という系統と明確に分かれていることがわかる。

ということは、「小学校→中学校」という学びのつながりをつくる一方、大学の下に準備教育をする「予科」を設ける形で「大学→高等学校」という別の系統をつくったいうことになる。

その後、これらが制度上、1900年頃からつながりはじめ「小学校→中学校→高等学校→大学」という一連の流れができたと考えられる。
つまり、高等学校というのは小学校と中学校とのつながりというより、大学進学をめざす予備校として生まれ、大学とのつながりでできた学校だといえる。

・・・

また、別の視点でいっても、その中途半端さがうかがえる(あくまでも個人的見解)。

1947年(昭和22年)に交付された学校教育法に基づく新制高等学校が1948年度(昭和23年度)から発足したが、新制高校は旧制中学2年分と旧制高校3年のうちの1年分を組み合わせたものとなり、中等教育と高等教育の内容が合体したものだった。

新制高等学校の発足

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