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映画『1917』の感想(ネタバレあり)

https://1917-movie.jp/

すごかった。とにかくすごかった。しかし、何にグイグイ引っ張られたかというと、それが言葉にしにくい。

「緊張感」とか「臨場感」とか、言葉にするとそんな感じなのだろうが、全編1カット(正確にはそう見えるような作り)という手法が、この時代にどういう「体験」になっているのか、興味があり初日に観に行った。

観終わった直後は、全く言葉が出てこず、ただ打ちのめされた感じだった。ストーリーに感動したというのも違う、映像の迫力に圧倒されたというのも違う、これはなんなんだと全く言語化できないものをたくさん喰らった感じだった。

それもあってか足早に帰り、家に帰ってから、ぼんやりとイメージを反芻させていた。とにかく言語化するのは早いと思って意識的に言語化を避け、ひたすら反芻させた。

そこでまず気づいたのは、ストーリーを完璧に思い出せたこと。これは僕だけではなく映画を観た人はほとんどそうだろう。

1カットということは映画の中に流れる時間と、実経過時間が基本同じなため(ただ、一箇所時間を飛ばす工夫がみられる)、シーン数というか「物語的展開の情報量」は少ないと言えば少ないが、それにしても映画の最初から最後までを自分の中で正確に思い出せる経験は、それだけでかなり驚きだ。映画を観ての感情体験がほぼそのまま自分のイメージの中で追体験できたのは不思議な気分だった。

その次に意識が行ったのは「ミルクを飲んだシーン」。白い液体は視覚的に印象的だったが、ナマ乳がほんと美味しそうに思えて、味覚が疼いたのを覚えている。

それこそ最初に渇いたパンを食べた時から、ずーっと追いかけて見ているからか、主人公の喉の乾きみたいなのは頭の片隅で育っていっていたのだと思う。しかも、直前には目を洗い流すために、水を贅沢に使っている、あのシーンの時に「あー、勿体無い!!」と思った人は多いのではないか。(あっ、その直後、相棒の水を飲んだのは、今思い出すまでは忘れていた)。

1カットだからこその主人公の身体状況みたいなものが、割と正確にイメージ(共有)できていたのだと思う。それはこの映画手法の大きな特徴ではないか。

思い返してみると、トラックの中で口に含んだお酒や、ところどころで吸われていたタバコなんかも含めて、物資が少ない中での「口の乾き」みたいなものは、映画を見ている環境とあいまってか、感覚の共感は強かったと思う。

もっと言えば死体にたかるハエや、食い物をあさるネズミや、死んでる牛なんかも、そんな感覚を強化していた気がするし、それこそ作り手が意図していることだったと思う。

それから、今思い出してあらためて印象的だったのは、前線に作られた「塹壕(人の高さくらいに掘られた幅1メートルくらいの堀みたいなもの)」。とにかく長い。それをずっと歩く姿を、そのまま1カットで見せるわけだから、当然その長さをリアリティを持って感じる。

これは普通のカットで割るような映画では感じられないものだ。もちろん、想像はできる。正しいイメージが伝わるように、あるいはそれ以上にイメージしてもらうために、撮影したり、編集したりはする。ただこの映画は、「塹壕」の端から端を体験している感じがあって、現地に行ったかのような気になる。

映画の中で主人公はひたすら歩くが、それを基本的には正面からか後ろから撮っていて、より長さが実感として意識に響く。主人公たちの「長い道のり」が投影されてもいるのだろう。大げさにいえば歴史の流れみたいなものすらもリンクしていたような気もする。

そして、歩く道中にすれ違う人達は、観ていて、目の片隅だけどちゃんと情報として入っていて、例えば一人一人、どうやって待機の時間を過ごしているのか、タバコを吸う人もいれば、家族への手紙を書いたり、談笑したり、その多様な感じとそこへのリアリティが、そのまま入ってきていた感覚があった。

それはもはや後付けと言われる感じでもあるが、でも明らかに無意識には届いていただろう。人は視覚に入ったものが、意識には登らずとも一度は認識システムをくぐっている。意識に上がるほど重要じゃないから気づかないだけで、影響は確実に受けている。

1カット長回しというスタイルは見ていて苦しい時もある。飽きるというよりは、息が詰まるという言葉の方が近い気がするが、いっそ時間経過して欲しいと思ったりもしたが、だからこそ伝わる戦場の空気や主人公の疲労感があったことは間違いない。

手法を限定することでの問題点もたくさんあったとは思うが、こだわり抜くことで短所も長所に転化されている部分が、人が分析できないレベルも含めて、まだまだたくさんあるのではないか。

ストーリーは、監督のサム・メンデスが実際に伝令役だった祖父から聞いた話を元に作られているという。どこまでノンフィクションなのかはわからないが、史実かどうかは問題ではない気がする。そう、もはや史実であるかはどうでもいい。1カットなのだから、それは一つのドキュメンタリー映像と言っても過言ではない気がする。例え、どれだけCG処理がされていたとしても。

後半、主人公の思いのようなものもジワジワと効いてきて、最後に家族の写真を見るところはやはり感動的だった。役者としても本当に素晴らしかったと思う。

ただ正直いえば、それ以上にあの写真をしまっておいたブリキだか鉄だかのケースの質感が強く残っているという感覚もある。それはストーリーが弱いということではなくて、自分の身体性というか、知覚センサーが終始強く働いた結果だと思う。

なんでもかんでも、「1カット手法の効果」という言い方をするのは、美術や技術チームにも失礼だろう。あのカメラワークどうなってるの?とか、どこまでセットで再現しているの?とかいちいち興味はつかないが、そこはそこでおいといていいんじゃないかとゲスな勘ぐりを放棄させるほどのものがあったと思う。

全てのキャストやスタッフの総合力と言うべきだが、1カットと言う手法を決断し、そこに全てを込めるという緊張感が現場にもあったことは間違いなく、そのテンションが動物的な知覚を鋭くした効果につながったのだろう。

時間をおけば、まだまだ思い出すことはあるだろう。もう一度目を閉じて、最初からストーリーを思い出していけば、その度に発見がある気がする。

物語というものが、ライブやインタラクティブというような時代の流れによって、どう拡張されていくのかに興味があり、この映画にはその一端があると思い観に行ったが、すごい「体験」だった。

どんな映画も、一つ一つが「体験」ではあるが、この映画では、より五感が呼び起こされた気がして、その経験がとても新鮮で貴重だった。

同じように、味覚や嗅覚、触覚が刺激される映画も当然たくさんあるが(そういえば『パラサイト』も嗅覚が刺激された)、この映画が示唆するところは大きいと思う。

正確にいえば、1カットがどうのこうのということ関係なしに素晴らしい映画だったのだが、レギューとして感想を残すのに、そのあたりを強調した書き方にはなったのは申し訳ない気持ちもあるが、全てが素晴らしかったと思う。

追伸
『ゼロ・グラビティ』(原題:Gravity)がまた観たくなった。あの映画も全てが素晴らしい傑作でありつつ、極めて身体的な映画だった。


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