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ヤーン・カプリンスキー「(私は毎日詩を書く、)」翻訳+解説

(私は毎日詩を書く、)
I write a poem everyday

私は毎日詩を書く、
とはいえ私はこれらのテクストが果たして
詩と呼ぶべきなのかどうかは分からないが。
それは難しいことではなくて、特にタルトゥでは
現在春で、あらゆるものがその形を変えている。
公園や芝生、枝や蕾、そして町の上空にかかる
雲や、空や星々でさえもそう。
もしも私にもっと目が、耳が、そして渦巻のように
私たちを飲みこむこの美しさのための時間があったなら、
あらゆるものを希望という詩的なヴェールで覆うなか、
ただ一つだけ不自然にそこからはみ出るものがある。
それはバス停に座っているまぬけな男で、
奴は不具になった汚らしい足からブーツを脱ぎ捨てて、
傍らに杖とニット帽を置きっぱなしにしている。それは
かつて君が奴を見たときに頭に被っていた帽子と同じだ、
あの日朝の三時に奴が同じバス停に立ち
その前をタクシーが通り過ぎて、運転手が
「あのバカまた飲んだくれたな」と言った時に
被っていたニットの帽子と。

(from: Evening brings everything back

◆解説
前々回前回に引き続き、またしてもカプリンスキーの詩だ。今回訳出したのは彼の『夕方には全てが戻って来る』(1984/2004)という詩集からで、英訳はカプリンスキー氏本人と、フィオーナ・サンプソン女史による。

タルトゥとは、カプリンスキーが生まれた場所で、南エストニアの中心都市。そのタルトゥにある公園を詩人が散歩している風景だろう。それは果たして詩と呼ぶべきなのかどうかを彼は自問しているが、おそらく詩人は詩を書くことを難しいという風には捉えておらず、それは例えば春先に変化するあらゆるものを観察することで自ずと生まれてくる、というように考えているのではないだろうか。そうして詩人は見たり聞いたりするための目や耳というものがあれば、そして何より時間があれば、公園や芝生、枝や蕾……といった美しい自然物をもっと多く描写することができただろうと推測する。

しかし春の温かい日差しの中、あらゆるものが希望というヴェールに包まれるなか、彼はそこからはみ出すものが目に付く。バス停に座っている、一人の汚らしい、おそらく中年くらいの男だ。詩人はその男を知っている。彼は朝の三時に同じバス停で、来るはずもないバスを待っていたのだろうか。近くを通り過ぎたタクシーの運転手も彼のことを知っている。ということは、前にも同じことをその男は繰り返していたのだ。そしてその原因も、運転手の口から告げられる(おそらく独り言だろうが)。それを見聞きしていた詩人は、その男が被っていた特徴的なニット帽で記憶していたのだ。

私たちの日常でも、わざわざ声をかけあったりはしないものの、毎日出会ったりして記憶に残っている人がいたりする。そしてそれは多かれ少なかれ、その人物の特徴によって覚えられている。例えば身に着けているものだったり、あるいは行動であったりと様々だが、ともかく普段生きていて、全く関わりのない人間を覚えることはあまりない経験だろう。地元のスーパーに買い物に行って、毎回違う人がいるように感じるのは、私たちの脳が「無理に覚えないよう」情報をシャットアウトしているからである。しかしその反面、同じ場所で同じ人を見つけたときの、あの「いた!」というわずかな高揚感。そのあまりにも些細な光景を、詩人は描き出しているのではないだろうか。

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