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この世界に前川多仁の「愛羅武勇」を

新型コロナ禍が不穏さを増し続けていた二月に開催された前川多仁個展「Shngri-La」。(その作品の一部は白白庵オンラインショップにてご紹介中です)
報道から伝わる世界情勢は日々悪化する中、桃源郷を掲げて現実に立ち向かったのは因果なタイミングでした。
白白庵の前身neutron tokyoにて前回の前川殿下個展は3.11の最中、そして今回は新型コロナと言う疫病。巡り合わせとは不思議なものです。

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前川多仁『祷』

偶然のタイミングでやってきた災厄になぞらえてその作品の意味を勝手に強化するのはあまりにもヒロイックなアイディアかもしれません。
しかし論理的帰結としての「因果」、つまり原因と結果と言う関係性に落とし込もうとするがためにその非論理性が浮かび上がるように感じますが、ここで提示されていた作品の持つ意味は禅的な意味での因果であり、ユング的に解釈するならばシンクロニシティと言うべき何かがあったように思います。それはすなわち縁と呼ぶべきものなのでしょう。

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前川多仁『明珠在掌』

日本における「美術」と「工芸」の境界について、僕はそのような線引きはナンセンスである、と考えています。
言い換えるならば「美術」は作品の属性が中心にあり、「工芸」は我々が向ける視線の側にその中心があります。作品の属性を中心に「美術か工芸か」と議論するのは文法として成立しない、という認識です。
あらゆる物を「道具」として置き換えていく日本人の視線の上に「工芸」はあります。つまりその対象は必ずしも「美術」である必要はない。
茶の湯において顕著に見られる傾向ですが、なんでもない生活道具から舶来の高級品までを茶室という一空間に盛り込み、「しつらえ」と言う文脈の中で美的価値を紡ぎ出す。
そのように美を発見する眼差しこそが「工芸」なる価値を産んだのでしょう。そうした美意識が生活の隅々にまで行き届いて、ちょっとした道具に「粋」を取り入れたり、本来の目的とは異なる余白を作り、それを楽しむ心意気が育まれたように感じます。

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前川多仁『がま口(大)スタッズ付』

こうした「意味性の再構築」は美意識だけでなく、例えば日本の宗教観にも当てはまります。あらゆる神を「まれびと」として迎え入れる態度は、身の回りのあらゆる事象に何かしらの関係性を見出す態度による物であり、また中国語に当てられた元はサンスクリット語だった仏教経典が、日本的な解釈の元に新たな解釈をされ発展したことは分かりやすい例ではないでしょうか。

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前川多仁『Magic Board』

その最先端のエクストリームな殿下の手腕で、「Shangri-La」にて発表されたのは禅語のパネルシリーズと、漢字当字シリーズ。
文字の意味と言葉そのものが持つ意味が幾層にも重なって、見る人によって新たな意味が時代と共に紡がれる。
サンスクリット語の純粋な意味と、中国にて漢字が当てられた段階と、それが日本に輸入された後では意味のレイヤーは変化し続け今に至ります。
ヤンキーな当字もその延長にある、というのが今回の殿下によるアプローチです。

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前川多仁『愛羅武勇』

この新型コロナ禍において、殿下は新作のマスクをプレゼントするという企画を始めたそうです。(既に終了)
この「愛羅武勇」が世界に愛と平和と強さをもたらしますように。
そして皆さんもこの愛をどんどん拡げましょう。
再度述べますが個展で発表された作品の一部は現在白白庵オンラインショップにてご紹介しております。
各作品のリンクからそちらも覗いていただければ幸いです。


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前川多仁『色即是空』

「美術」と「工芸」の話は今後も今後もnoteで深く深く掘り下げます。この「工芸への眼差し」こそが前回記事に記したこの国の歴史文化に通奏低音のように響き続ける「器」的な感覚と強く結びつきます。
という事でまた次回。



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