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石田慎が目指す「美」への最短距離は

「多様性」が文字通りにありとあらゆることを細分化することで世界の複雑性はいよいよ増すばかりです。「現代美術」と呼ばれるものが一種の知的ゲームのような側面を備えることでアートシーンにも多種多様の価値が溢れかえっています。そしてその一部はマネーゲームとも同質化しその価値は明晰化よりは混沌そのものへと向かっているようでもあります。
「美しさ」という概念が「『美』術」の歴史において中心に据えられていた時代も長くありましたが、今は必ずしもそうではない(ずっとそうではなかったのかもしれません)。美そのものの多様性、美以外の価値観が世界で居場所を求めて顕になっています。

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石田慎「Water Lily 抹茶碗」

そんな中ひたすらに、純粋な「美しさ」という雲を掴むような概念に向かって一直線に突き進もうとする作家がいます。
それが石田慎というガラス作家です。
彼の主たる技法は切子(カットグラス)ですが、ブロウによる成形からキルンワークによる加飾まであらゆるガラス技法を駆使して一人で作品を作り上げます。
(一般的に切子硝子は成形とカットが分業になっていますし、一人でこれだけのテクニックを使い分ける作家自体そもそも珍しいのです。)

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石田慎「華 ぐい呑(ダイヤブルー)」

ガラス素材の調合から特注し、色の組み合わせもカットのパターンもその加飾も、持てる技術を全て注ぎ込んで自身の持つイメージを具現化させていく。要素ひとつひとつは「工芸」的なものかもしれませんが、その創作姿勢と生み出される作品は「アート」「美術品」という大きなカテゴリーにでなければ収まるものではありません。

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石田慎「騎士 高杯(ミニ)」

石田慎はどちらかと言えば口下手なタイプの人物です。
底知れぬ情熱を抱き、展示会場で同じ空間にいるとずっと作品を磨き続け、愛おしそうに眺める姿が印象的です。口を開けばも熱く語るのですが「綺麗やろ」「作るの大変なんです」「気に入ってもらえれば嬉しいです」ということを繰り返し力強く口にします。
それで言葉足らずかと言えば全くそうではない。
なぜなら「綺麗」とか「凄い」という事でしか彼の作品について語るべき言葉は無いからです。目にした我々の心を打つのは、純粋な「美しさ」や迫力に圧倒される感覚そのものだからです。
どのような言葉よりも雄弁に、作品そのものが全てを物語ります。
それを前にして僕ができる事と言えば、綺麗に磨いておく事と「この角度から見ても綺麗ですよ」などと補助線を引く程度の事です。
ある部分は繊細に、ある部分は信じられないほど大胆にカットされたガラスは万華鏡のようにあらゆる角度から作品そのものの姿とこの世界を映し込みます。それを覗くよう促すくらいが関の山です。

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石田慎「黒蝶 抹茶碗」

今この世の中で、これほどまで愚直な「絶対的に美しいもの」を追い求める美術作家は珍しいタイプでしょう。
彼が目指すのは100人中100人が「美しい」と感じるものです。
5000年前でも、5000年後でも人類が見れば「美しい」と感じるものです。
(もちろんそれだけでなく、より内省的で個人的な作品も存在します。彼のありあまる創作意欲からすれば当然に生まれ出るものです。)
そんな「絶対的に美しいもの」「絶対的な美しさ」は夢物語かもしれません。そんなものは存在し得ないと言ってしまうことは簡単です。それでもそこに至ろうとする意志はこのような状況下では、このような世界においてはひとつの希望でもあります。そして僕はその意志に心打たれます。何よりもそうして生み出された作品に圧倒され言葉を失います。


「命懸けで作ってるんですよ」と彼は言います。
精神的な面はもちろんのことですが、千数百度のガラス炉と高速回転するブレード、そしてそこから発生する化学物質や粉塵を鑑みるに彼のこの言葉は身体的な意味を強く持ちます。
「命を削って魂を込める」という言い回しが現実的な感覚として彼にはあるのでしょう。
あらゆる余計なロジックを削ぎ落として「美しさ」を求める作品の在り方とその制作姿勢こそが彼の求める「絶対的な美」への最短距離なのでしょう。

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石田慎「Gold Tiara 抹茶碗」

技巧的な事も特筆すべき事が多くありますが、それは目的ではなく手段であると捉えてここでは多くを記しません。
各作品のディテールは白白庵オンラインショップでご覧ください。
隅々まで、じっくりと。

白白庵オンラインショップ 【石田慎】

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