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主体なき欲望と消費を記憶するために

刻一刻と状況が変化するこの新型コロナ禍の日々に、我々はどこかでまだかつての「日常」が戻ることを願っている。この混乱を「無かったこと」にして古い日常に帰ろうとする人々と新しい日常に順応する人やその中で新しい価値を模索する人々など、様々な思いが飛び交っている。

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大槻香奈「じぶんで買った和牛」

あの「和牛券」の話が出た時には多くの人が虚を突かれ、この国の政府があてにならないのではと疑念を抱き、自分の身を如何にして守るかと思いを馳せたはずだ。そして「和牛」は行政の弱さや主体性の無さを揶揄するミームとしてネット上を飛び交った。
しかしそのミームも恐ろしいスピードで消費され既に過去のものとなり、結局「和牛券」の行末について誰が知っているのかも不明だ。

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大槻香奈「わが家の椅子」

そしてちょうどその頃はマスクの転売やトイレットペーパーの買占めなど誰もが「自衛」を考え、それらは供給不足となり生活に混乱がやってきた。供給不足の中「『マスク』『トイレットペーパー』を手に入れること」が目的化し、ドラッグストアには毎朝行列ができるという本末転倒な光景に溢れていた。そこでは目的を見失ったまま、強迫的に周囲の混乱に流されて主体なく集う人々の姿があった。

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大槻香奈「ますくガールズトーク」

今回発表された大槻香奈作品の新作はチラシに描かれたシリーズがある。
この新型コロナ禍の中で飛び交いそして消費されていったミームが「チラシ」という本来消えゆく媒体に描かれる事で、時間の経過そして忘却と共にこれらの作品の意味は補完され強化されていく。
今この瞬間を切り取ったスナップショット的なこの作品たちは記憶の移ろいと共にその意味を変えながら我々の生活に寄り添う。

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大槻香奈「散2020」

そもそもこの日本社会において「少女」という存在自体が欲望され短期的に消費される対象である。
一例を挙げるならば日本における「アイドル」である。
アイドル史及びその文化形成については多々の先行研究があるためここでは多くを述べないが、その「偶像」が多様化しているとしても、定型化された理想像に自身をあてがい、外的な欲望に応えるための「アイドル」は主体をイメージに委譲した存在であり、そこにある種の抑圧が存在する事、そして「アイドル」自身のみならず、それを追いかける人々の視線の先には銘々が勝手にイメージした理想像が映る。
視線の先に存在するのは主体的な他者ではなく、主観的なイメージだ
言い換えれば、その眼に映るのは内面的な理想と憧憬であり、自己の投影に他ならない。少女を見る事はそこに投射された自己と向き合うことである。
そして少女である時期を越えた「アイドル」自身は次のステージへ向かい、その時代に即した新たなアイドルが生まれ消費され続けている。

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大槻香奈「保2020」

少女である期間は短い。その一瞬の姿をポートレートという形で美術作品として切り取られた「少女ポートレート」シリーズはカリカチュアされた小作品群とは異なる普遍的な時間軸を有する。
これらの作品がひと連なりとなって紡ぎ出すのは現在の日本社会における全体像であると同時に、プライベートな個々人の姿である。

消費され、忘却されるはずだった事象と我々の姿がここに映し出されている。


ここに記録したこともまた、時の流れや記憶と共にその意味を変えていくのでしょう。

これらの作品は白白庵という会場にて展示され皆様には実物をご覧頂くはずでした。少しでもその意味が届くようにと撮影データが揃っています。
どうかごゆっくり、ひとつひとつをじっくりとご高覧ください。

https://pakupakuan.shop/collections/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E9%A6%99%E5%A5%88%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%8F-%E3%81%93%E3%81%AE%E7%8A%B6%E6%B3%81%E4%B8%8B-%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C

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