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「許すこと」と「弛むこと」

完全なるひとりごとです。今日は「これからなんでも疑問文にしておこう」と思いました。人間は問いを立てると「勝手に答えを見つけようとする」からだそうです。何かの本で読みました。面白いですね。自家発電みたいなものですね。

※2019/10/03追記
・「許す」かなぁ「赦す」かなぁと悩むも「許す」にしておくことにする宣言。
・ネットみてたら、大辞林に 「緩(ゆる)し」 「緩ふ」と同源 と書かれているそうだ。なんだやっぱ同じなんね〜。

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人間は、引き緊まることと弛むことが交互に繰り返されている。

1)弛むのが不得意。よって常に引き緊まったまま(固まったまま)の人
2)ちょっとした隙にうまく弛められる人

あえて二通りにわけてみる。
(一人の中でもこの二通りの時があるが)

弛むことが大事だと言うけれども、なぜ弛むことが大事なのか。
それは引き緊まることが大事だから。引き緊まるから行動が起こるし力が出る。引き緊まるということは、弛んだ状態からスタートする。だから弛みが大切なのは引き緊まるためである。という順序。

ゆえに、弛めるのはいいことだとやりすぎると力が入らなくなる。または引き緊まり過ぎるとそこに力が入らなくなり、たるんでくる。弛んだ状態とたるんだ状態は違う、という前提。

なぜ「許す」というキーワードなのかというと

1)自分のこのめんどくささと破れない壁の高さはどこからくるのか?
2)他人に合わせたくないという気持ちはどこからくるのか?
3)規則を破りたくなる気持ちはどこからくるのか?
4)規則に従いたくない気持ちのまま従って生まれた不満はどこへいくのか?
5)規則や約束を破った後に開き直るのはどうしてなのか?

ということをつらつら考えていたら、

「どこかで許せない自分を作り出して最終的に自分で許しているから」

なんて閃いた。

いつもこんな状態ではないけれども、体の調子がよくない時ってたいがい「何もしたくない」からの「自分的約束全部反故(=やろうと思ったことをやらない・やれない)」からの「こんな自分でいいんだ」という開き直りというか、セルフ許し。そして「自己嫌悪」の道に入っていく。(客観的にみると、我ながら案外エネルギーを使う道を選んでおるのぅ)

許せない自分を作って自分で許すって、要するに緊張する状況を作り出した後に自分でひっくり返して弛んでるわけです。Oh!自作自演乙!

そう考えていくと、弛むのが下手なのかなぁ?と思う。行動の隙間隙間で弛むのが下手なのか?

野口晴哉先生の本の中で「捩れの人は宗教(特に新興宗教)にハマる」のような記述がある(「」内は私の要約)。新興宗教って社会に対して勝ち負け要素が強いという感覚は少なくない人が感じていると思う。何事も勝ち負けで捉える捩れタイプが多いというのは納得いく。弛むのが下手(もしくは勝負しないと弛まない)ゆえに、許される場=弛ませてくれる場を求めて集まるのかもしれない。

宗教は巨大な許しが基本だと私は勝手に解釈している。そこに属して許される、とか、生きていることが許される感覚、って弛むことに繋がるんだろうな、と思う。許されるというのはある意味「認められる」ことだと思うけど、認められるだけならばむしろホッとした後にキリッと引き緊まる。ので若干違う。

万引きしてこいと言われて、社会的に悪いこととわかっていてやっていても、命令した人に認められたいからやる、は、言った側は「認める」、やった側は「認められる」。

命令した人に認められたいけれどもやっぱり悪いことはやらない決断をした、は、言った側がその決断そのもの・選択自体を認めるなら「許す」、決断をした側は「許される」ではないかのぅ。

この例えでいいのかわからない。

求められたことと違うことをしてもその行為自体を認めてもらうことを「許される」と感じていることが多いと思う。しかし現代社会でいうと「お咎めがない」ことを「許された」と感じるのではないか。宗教の許すとは若干違うとは思うが。人間が集まった時の「許す」「許される」はイコール「ルール違反に対してお咎めなし」の方が強い気はする。「罰する」があっての「許し」。個人の人間関係においては「いいよ」って相手を受け入れてあげることが「許す」でもあるか。

許されるとホッとするのだ。それまでの緊張が一気に弛むのだ。ということは、許されて弛んだ後に引き緊まるかどうかは別の話、ということになるのではないだろか?

しかしなぜ許されぬことを自分で作り出して自分で許してしまうのかのぅ。

自分で自分を許したことがないからなのか。

他人からの許しが足りないのか。

足りないゆえの自力の解決方法なのか。

いや、もともとそういう方向性を内在させている体の構造ゆえなのか。

さて、許しを先にもってきたらどうなんだろうか。

行動と行動の間は隙間があり、許す行為が行動の前でも後でも、それは行動と行動の間にやっていることには違いない。

自分で自分を許す行為を意図的にやるのはややこしさが伴う。もっとシンプルに体に働きかける。行動の前に少しだけ弛んではどうだろ?

ん?夜寝る前よりも朝起きてから活元運動をするのが好きなのはここからきているのかもしれないな。

勝負事に入る前は直前に弛んでおく必要がある。だからさっと勝負できる。いつでも戦闘態勢に入れるにはいつでも緊張していてはダメで、いつもはだらっとしていて必要な時にぱっと力を出せる、というのが捩れっこなのではないのか、違うのか、どうなのか。

で、結局、自分を許すとはどんな行為なのだろうか。無意識のうちにやってしまうことはあるが、意図的にやれることはあるのか? そもそも意図的にやることは本当に許したことになるのか? 疑問だらけだ。

相手を許すことはどうだ。例えば子どもだ。そうだ、子どもには許しが足りない。罰することとセットのチキンな大人の許しではなく、そんなのがみみっちく感じるもっともっと広いところにある広ーい許しだ。そんな許しをチキンな大人はできるのか? うーむ、人口が密集していて狭っくるしいのも関係してるんじゃないだろか? 赤ちゃんや動物をなぜ許せてしまえるのか。広さ狭さ関係ないぞ。なぜなのだ? 期待か?期待が関係しているのか? また疑問が追加された。

そういえば、私の母が他人の話すことの意味が理解できなくなった時、私は話が通じない母を初めは許せなかったけれども徐々に許せるようになったのだ。それは諦めからの受け入れか。でもね、話が通じないがゆえにする努力や引き出される力ってのがある。逆に話が通じるはずの人に通じなかった時にイラつくのである。許せなくなるのである。んー、要するにあれか、管が詰まっている感じがするのだな。元から詰まっている(通らない)ものは「通そうとする」から気にならないのではないか?

言い訳は逆効果、お咎めなしの開き直りは頭悪い感じが否めない。

多様性が叫ばれる昨今、それはつまりこれからは許し合いの時代なのじゃないか。「自分でも相手でもない第三者」に許される、のではなく、違う者同士が違いに許し合う。後者の方が割と高度な人間関係だと思うが、どうなのか。

そういえば国父・国母になりたいご夫婦がいるらしいと小耳に挟んだが(自らの希望なのか他人に持ち上げられているのかは不明だが)、これからは第三者の祈りゆえに民が許され認められる時代は「遅れってるぅ〜」になると思うが…そういう昔からあるやつは簡単にはなくならないかのではないか。「これまでなら処分相当」なことに対して「お咎めなし」レベルの許しが横行しているよね。許し方改革でもしてるのか? なにせ新興宗教と親和性高いからな、この国の現内閣は。いや、この話は避けて通れないわぁ。だって社会的影響の大きな人たちがやってることですから。その辺のおじさんおばさんが個人レベルでやっていることではなく。注目しないわけにはいかない。まぁとにかく、何かの準備となるようなことを着々としていると思われる。

宗教の許しは一方通行で、多様性と許し合いは相互方向。

認め合いじゃなくて許し合い。わからない者同士なのだから、存在を許し合うしかない、という方向性に行かざるを得ないのではないか?

ひとりごとは以上。

数多くの中からここに出会ってくれてありがとう!