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押し付けない○○を目指したい。

今、うちの娘は中学校へ通っていません。週に1回放課後に近況報告をしに行くことになっていますが、行けたり行けなかったり、行ったり行かなかったりしています。←この表現の違いわかりますか?

学校に通って卒業したのが「普通」だった親なら子どもに「学校に行って欲しい」と思うのは当然です。行けない理由がよくわからないのも当然です。私も今でもゆくゆくは学校に戻ってくれたらなぁと思っています。でも、よく考えると、「学校という場所が嫌だ」と感じている子に、学校に行く意義を唱えたってそう簡単に心変わりすることはないと思います。だって嫌なんだから。

私が心配しているのは「学校に行くのが当たり前の中で育った大人で構成された社会に入ったら、共通事項が少なくて、そこで苦労せずにやっていけるだろうか?」「中学の勉強をすっ飛ばして自力で勉強していくのは大変じゃないのか?」ということでした。行かないでいることで被る不利益があるのではないか? それが将来重荷になるのではないか? と心配したわけです。当然の心配ですよね。

でも考えを改めたんですよね~。学校に行かなくても勉強しなくても別に死ぬわけじゃなし、話せるし文字も読めるし計算もできるし、体が弱いわけでもないしなぁ(むしろ強い)…と。問題なのは彼女の今現在の世界が狭いことなのだから、大人になるまでに少しずついろんな世界に触れて、自分の視野を広げていければそれでいいんじゃないだろうか?と考え直しました。

不登校になったり引きこもる人は昼夜逆転するケースが多いのだそうですね。どこだかのサイトで読みました。そういう調べが公的にあるのかどうかはわかりませんが、昼夜逆転する人が多いからそのように言われるのだろうから、公的であるかどうかはまぁこの際いいです。我が娘も御多分に洩れず昼夜逆転しています。

娘は「好きに寝て好きに起きたい。『起きて』とか『寝る時間』とか言わないでほしい」と私に伝えてきました。文句を言わないで欲しいと。私も「よっしゃわかった」と心に決めて、好きにやらせてみることにしました。私は日中働いているので、2人家庭で真逆の時間帯で生活するのはなかなかに大変です。最大に真逆の時は私が起きたころ向こうは寝るわけですから。

娘は眠くて起きていられなくなったら寝て、目が覚めたらガバッと起きるという生活を続けています。誰だって、そういう寝起きしたことあるんですよ。赤ちゃんの頃ですけどね。

寝起きする時間帯は徐々にズレていき、みごと1周しました。現在は2周目に突入中です。さて、あと何周かすれば朝型に固定される日がくるでしょうか。このままでは永遠に来ないでしょうか(笑)

正直なところ、これが娘にとって本当にいいことか悪いことかはわからないです。完全なるありのままの自然が良いとは言い切れません。言い方は変ですが、力の使い方が他の動物と少しずれているところが人間なのではないでしょうか。

そばで見ていて思うのは、1日のうちで体を動かす時間が少ないとか緊張する時間が少なければ起きていられる時間が長くなるなぁということ。要はエネルギーの使い道です。一時期ずっと家にいて外に出ない時があったので、映画を観るので釣って外に出すと、相当疲れたようで一層「外に出たくない」となりましたが、体力がもたなかったことを自覚した様子もあって、今は何日も引きこもることはなくなりました。

どうなるかわからないことを見守るということは大変なことですね。

相手の悪いところを見て自分の心配を押し付けることって、「良かれと思ってやる」ことの根っこだったりします。これをずっとやり続けていると、相手はどんどん萎縮していきます。萎縮した子ども。字を見ただけで辛さしか感じません。のびのびしているように見えて実は萎縮している子ども、いませんか? 私は「子どもが萎縮するわけがない」と勝手に思い込んでいたかもしれません。(そういう場合大概大人である自分も萎縮状態にあったりしますが)

例えばうちの場合なら、母娘二人なのだから、外で私の悪口でも言って憂さ晴らしできればバランスも取りやすいでしょう。今の状態だと負んぶに抱っこだから堂々と親の悪口を言えないと思います。もう少し大きくなって言えるようになったら、今度は笑い話であることあること言えばよいのです。そしてそのうち言わなくても済むようになるかもしれません。その頃には母より大事ななにかに出会っていることでしょう。10年後かもしれないし、20年後かもしれない。まだ先は長いです。

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先日、文科省の大臣が身の丈に合った挑戦の仕方をしたらいいのだと言い、問題になりました。教育に携わる大臣が格差を固定し助長するような言い方、本当によろしくないと思います。でも私は同時に「その通り」とも思うのです。人生の挑戦の仕方は人それぞれでいいのです。試験をたくさん受けても、一度に何校も受験しても、その時に行けるのは1校だけです。一人一人やり方は違っていいはずで、その差を縮めることが正しいことと言い切れないはずなのです。そういう努力をすることよりも、ある枠からはみ出さざるを得ないたくさんの子どもをおだてたりすかしたりして枠に押し込もうとするやり方が合わなくなってきていることを、ちゃんと感じ取れている人が表に出てくることの方が求められていると思います(だから国が今さら受験産業を推すのはただただ間抜けの仕事に見える)。

大人はみんなそれぞれ自分が歩んできた道は間違ってないと思っています。もしくは後悔はしないと思っています。一人一人違うのだから、間違ってるとか正解とかないはずなのです。でも「間違ってない」と思うのです。なんででしょうね。正しさを求めもがきながら生きてきたからなのかもしれませんね。昔の市井の人もそう思ってたのかな…?

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娘は「学校という場所がやだ」と言います。小学校時代を前後半の二つにわけたら後半が最悪だったと言います。実際クラスの一部男子と「からかい以上いじめ未満」のような関係が続いていて、やめるようにいくら訴えてもやめてもらえず、本人は苦しんでいました。私も「きっかけはいつもささいなことだし、いじめというほどまでじゃないしなあ」と思って見ていました。おそらくしょっちゅう娘から報告や改善を訴えられていた先生も、からかう子どもたちも、まわりの無関係な子も、そう思っていたのだと思います。「強気な子にちょっかいを出す男子の図」です。正直、どこにでも転がっている話です。

でも、訴えると、全然深刻な状態ではないゆえに、「めんどくさいやつだ」「あなたも悪いところがある」「相手を変えるには自分が変わらなきゃ」「それくらい我慢しろ」「彼はあなたに気があるんじゃないの?」「気にしすぎ」「気にするな」「スルースキルがないと大人になってやっていけない」という意味のことを言われたと。

なんか、これ、大人同士でやると厄介なやつですよね…。おおごとではないのに被害者意識を全面に出すのもナンだし、自意識過剰な面もあるし…。でも嫌なことを我慢してなかったことになるのは我慢した本人ではなくて何もしてない周りだけなのです。誰得?な話でもあるのです。

そっか…小学生だからと思って軽く考えていました。これ完全にアレの縮図ですよね…。ああ。ちょっと自分で書いてて絶句です。

そういう論調で押し込められそうになると、娘は体調にきて学校を休みました。だいぶちょこちょこ休みました。大人は自分で環境をガラリと変えることができるけれども、子どもは自分の力ではできないから余計にしんどいのですよね。それは子ども時代を過ごしたことのある人なら大抵そのしんどさは感じたことと思います。

先生は「何かあったらなんでも言って」とすぐ言うけど、なんか言うと自分が否定されて終わりで、言うだけ無駄だった。男子を真剣に叱れないから結果的に男子の粗暴さは野放しでちっとも改善されない。クラス全体に注意するばかりで個人を叱らない。あの人結局なにも先生としての仕事してない。

と6年生の卒業時に言ってました(今でも言います)。子どもはよく見ています。大人の無意識の怠慢に対して鋭いところをついてくるのです。学校では先生、家では私がそうだったのだと思うのです。

先生が悪いと糾弾したいわけじゃないですよ、実際バラバラなクラスをまとめるのが難しくなっているじゃないですか、あちこちから好き勝手言われるし、やることたくさんあるし、とても一人一人に深く関わるなんてできない状況だし、一人だけ深くするとどこからかクレームが飛んでくるし…となれば表面的にどうにかまとめるしかないわけで。

中学でも「それくらい我慢しないとね」と言われます。娘にはそれがちっとも「合わない」のです。本人は我慢することがイヤなのではないのです。自分の苦を脇に置くことはできるのです。でも、他人に我慢を強いられる、、、いやちょっと違うかな、他人から怠慢的我慢を強いられるのがイヤなんでしょうね。「気にしなきゃいいじゃない」が合わないのですね。

これはある意味面倒な性格でもあるし、でも同時に誰かと関わりながら一つ一つ解決していく力も持っているわけで、私はその力がうまく使われて欲しいのです。

学校も歳が上がれば少しずつ騒がしさの質が変わってきます。「辛かった小学校生活」という一点で終わってしまうのではなく、成長とともに中学高校…と経験を積んで点から線へと延ばしていってくれたらいいなぁと思うんです。そうすれば長い目で見るという目が育ちますしね。まあ強要はしませんが。

今の世の中「最短距離」「最短時間」「経験短縮」が好まれるからとてもとても遠回りに見えてしまうのだけれども、彼女の持つスピードで社会と関われるといいなと思います。(みんなもね!)

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うちの娘のような不登校の子は「学校っぽいところ」でない場所や体験が必要なのではないかと考えているこの頃です。福祉行政がやっている「居場所」も「学校っぽい」のです。学童などと一緒で延長的な空間なのです。民間がやってると違うとかじゃないんです。

学校くさくない体験をするには大人が用意したものの中に入るのではなく、生の生活者の中に入るしかない。具体的に言うと仕事を手伝う他ないと思うのですよね…。親の仕事を手伝えるのが一番手っ取り早いですよね。農家の子とか、個人商店の子とか、子沢山の家の子は仕事を手伝うのが当たり前に生活に組み込まれていました。今は得がたい経験なのかもしれません。システム化されてない中での経験。

親が赤ちゃんを連れて職場で仕事ができるか、といえば、正直ノーでしょう。子どもを連れても同じ、ノーでしょう。世話する必要があるし集中が途切れて効率が落ちるし、そもそも邪魔だし、場にそぐわないし、それに協力しないといけないのは業務外だし。真面目に仕事をしている人がそう考えるの、すごいよくわかります。そして、子どもがちっちゃいうちはまだいいんです、いるだけでかわいいし理解が得られやすいから。普段は学校に隔離されてる年代の扱いが難しい。のだけれども、幸い「子育ては社会でするものだ」という風潮なのだから、実際にやっていかないと! 「社会」の中に「会社時間」は含まれません、とは言えないでしょ。昔は子どもにかばん持ちさせたりしたじゃないですか。そういう子が今いてもよくない? 「よっしゃわかった、面倒みちゃる!」という大人が必要なんです。親が自営業ならまだしも、雇われている人が勝手にやるわけにもいかないから、大人同士で交渉していかないといけないわけです。

子どもの貧困と言われてますけど、経験の貧困なんじゃないかと思います。あちこちでそれを理解できる人が増えて、個人レベルで相談していけて、徐々に社会の門戸が開かれていくといいなと思います。

数多くの中からここに出会ってくれてありがとう!