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アメリカ、note、己を知る。

2021年8月

アメリカに着いてから、何かとたくさんの「人生初」に出会ってきている。旅行でも一度も来たことのないアメリカ本土にリュック1つとスーツケース2つで来た。着いてからまず感じたのは、とんでもない「車社会」だということだ。空港から街までのバスや電車は、ほぼない。みんなそれぞれに車を持っているのが大前提だ。日本から自分の身一つでやって来た自分にとって、公共の交通機関が全然ないということは、タクシーやUber以外の選択肢が与えられていないということになる。だが、自分のこれから通う大学の近くまで一人でタクシーを利用すると、軽く5000円は取られる。なんとか公共の交通機関だけで移動を試みた。だが、感想としては、これなら5000円払ったほうが良い、それくらい大変だった。電車の路線間の接続は当然良くないし、バスはなるべく多くの人を乗せるためにエリア内をちょこまかと走る。これは我慢ならない。日本の都市部の発達した交通網を当たり前だと思っていてはならないと感じた。こう感じたのは初日だけではなかった。スーパーに食料品を調達しに行くだけでも、車がないと話にならない。まず、スーパーにたどり着くためには大きい道路で多くの車が勢いよく行き交う中、信号のボタンを押して渡れるタイミングを待ってから道路を横断しないといけない。歩道という歩道はどこでも整備されている訳ではなくて、メインの道路の片隅には申し訳程度の道があるだけ。そこを歩いている人がもし仮にいたとしても、大きな犬を連れたおじさんくらいだ。基本的には、歩道を歩く人なんて季節を問わずほぼ居ないのだろう。スーパーマーケットはどこも超大規模で、人が歩いてくるような作りではない。駐車場の入り口から店の入口までの距離感がおかしい。当然、現地の人で歩いて買い物に来る人はゼロだ。だから、歩行者用のスペースたるものが店舗入口周辺にしか作られていない。車で本来移動するように設計されている駐車場内を一人で歩くのは、なんとも心細い。そして、車を運転している人みんなから、「なんであいつは歩いているんだ」という視線を受ける。車を持っていない人には人権がないのか?そう思った。ここまでは、どこに行くのにも車があるのが大前提、という話だった。

ここからは、スーパーの中の話をしていきたい。まずは店内の規模感がすごい。本当に倉庫に迷い込んでしまったのかと思った。見上げると首が痛くなってしまいそうなくらい、陳列棚は巨大だ。それに加えて、店内ですれ違う人のカートの中身も驚くほどてんこ盛りだ。一週間、いや一ヶ月分くらいまとめて買っているんじゃないかと思うくらいだった。カート自体も日本のカート2つ分は軽く収まりそうなサイズ感なのに、そこには溢れんばかりの食材、生活必需品が詰め込まれていた。カートの縁に、24本入くらいの炭酸飲料のパッケージが引っかかっていたのには衝撃を受けた。トイレットペーパーでもなんでも、何ヶ月間使えるんだろうかというくらいのサイズだ。

2022年4月

上の段落の最後の一行を書いてから、実に8ヶ月の時間が経っていた。この記事を書き始めたのは2021年の8月(アメリカに到着直後の隔離期間のホテルにて)。そして現在は2022年4月末(大学の寮の自室にて)だ。最近は、学校生活が残すところあと2週間で「最後の一ヶ月」の半分が終わってしまった状態だ。漠然とした言い方にはなるが、色々と思うこと・考え事が多い。なんだか、よくわからないけれど、頭の中に完全には言葉にならないような思い・感情が常に「バックグラウンド再生」されているかのようだ。ある種の終わり、あるいは節目が目に見える程にまで近づいてきた事で、「今この瞬間を生きている自分」と向き合うことを迫られている気分がする。この溢れてくる感情、そして心の反応は、良いものなのか悪いものなのかすらよくわからない。わからないからこそ、時間を取って、文字の形にして出してあげた方が良いのではないかと感じた。とうことで、久しぶりにnoteを開いて、「作成」のボタンを押してみた。やはり、自分にとって書くということは、一種の瞑想のようなものなのかも知れない。友達や家族と話す時ですら出てこないような言葉が、点滅しているパソコンの画面上のカーソルを見ている間にどこからともなく湧いてくる。こう考えると、普段の生活では溜まっていってしまう一方の感情・思考などが解き放たれているのかも知れない。

己を知る

先程から、「〜かも知れない」「わからない」という言葉が多いことに自分でも驚いている。不安な時、わからない時ほど、自分の中で思考を煮詰めるのではなくて、外に出してあげる事が大事だと思う。ここ2年くらいの間で、自分で行き先も決めずにただただ文章を書くことで、初めて自分では自覚出来ていなかった感情に辿り着けるという経験をたくさんしてきた。そして、人と話している時に、投げかけられた質問に対して答えようとして、そこで初めて、自分はこんな事を考えたり感じたりしていたのか、と気付くことも多い。「自分の事は自分が一番わかっていたい」という思いとは裏腹に、「自分の事を本当に理解する事の難しさ」が常に自分の前に立ちはだかる。ジャズギターを専攻している友達が、より良い演奏を目指す上で自分のことをよく知る事は必要不可欠だと言っていたのを思い出した。音楽の世界ではどうやらこれは有名な教えなようだが、最初はどういうことかよくわからなかった。だが、友人に説明してもらうと割とスッキリと理解できた。「こみ上げてくる思いを表現する手段としての音楽」を前提にすると、「その思いの出どころである自分自身」の発しているシグナルをしっかりと拾い上げてあげる能力が必要、とのことだった。上手く説明できている気がしないが、伝わっている事を願う。不安なので、少し違った言い回しをすると、「自分が今どんな風に感じていて、何を表現したいと思っているのか」を把握してあげる能力、となる。少し話が違う方向性に進んでしまったが、一言で言って、自分のことを理解することは難しい。「今時分がどうしたいのか」という質問で考えてみても、やはり難しい。友達と外食する時に、どんな食べ物が食べたい気分なのか、即座に自身を持って言える人はなかなかいないと思う。買い物中に、複数の選択肢がある時に、即決できる人もなかなかいないと思う。日常生活で考えてみても、私達は意外にも「自分の事」をわかってあげられていない。でも、その迷いも含めて楽しめれば素敵だと思う。

オマケ

この記事は実に3回にも分けて書くことになってしまった。「己を知る」の段落は、複数回に分けて、図書館、そして天気がいい日の外で書いた。今までは、勢いに任せて1つの記事は最後まで書いて、そのまま投稿する、という流れが普通だった。だが、noteはやはり時間にかなり余裕があるときでなければ取り組めない、ということに気づいた。なぜなら、8ヶ月ぶりにnoteを書く時間を自分のために取ったほうがいいと思って始めたはいいけれど、やはり時間がなかったからだ。のんびり気ままにパソコンに向かって文字を打つのは楽しい。しかし、大学の課題でこれだけ毎日パソコンでの作業をしていると、休憩のときくらいは液晶から開放されたい。となると、noteを書こう!とはあまりならない。だが、言い訳をせず、無駄な時間を削ぎ落として、noteの時間を作ろうと思えば作れるのは事実だ。ここまで来ると、自分の中での「優先順位」の問題のような気がしてきた。時間を生み出してまでnoteをやる気にならない事自体に罪悪感を感じる必要はない。だから、自分なりのペースでこのnoteという自分の趣味と付き合っていければいいと思う。最後に無責任な締めくくり方になってしまって申し訳ないのだが、この記事は、気づけば3000文字を超えてしまっていた。

ということで、最後まで読んでいただいてありがとうございました。また次回の記事でお会いできるのを楽しみにしています!(この最後の部分を打ち込むのが久しぶりすぎて、今までなんと書いていたか思い出すのに5秒ほど静止してしまいました笑また次noteを書くのはまたしばらく先になりそうですが、この「note」というプラットフォームにまた戻ってこれるのを楽しみにしています。)


僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。