武器よさらば

※これは2015年8月19日に書いた記事です。

 武器は平和のためにある?たとえば、アメリカ社会。ならず者に路上でからまれたら、あるいは突然、家に押し入ってきたら、防衛のため武器を使う。さらに、論理は進んで、こちらが武器を持っていることを知っていれば、からんでも来ないし、押し入っても来ない。 極めつきは核兵器。相手がそれを使うならこちらも使う。二つの条件、①リアルに核兵器を保有し、②実験などをやって使用できることを示しておく。そうすれば平和が保たれる。

 一体、どうなっているの?防衛は当然。誰でもその権利を持つ、国にもそれはある。しかし、武器でなにもしない相手を攻撃するのは路上でからむのと同じ。当然の権利と暴力が一直線につながっている。私達は線上のどこかに立たねばならない。

 でもホントにそうなのかな。防衛か戦争かという線上にはどこにも武器という存在がある。これがなければ、この線そのものが消える。防衛をする必要がない。そして人を攻撃することもない。
 この線を武器の線と呼ぶ。このどこにいてもホントは危険。それから離れられないのが人間だといえば、かなり悲観的な社会観念になる。将来がないのなら、人の誕生もめでたくない。

 やはり万物の霊長は、この線から離れる努力をすべきでしょう。

 武器を持っている人の間で平和を議論しないほうがよい。平和の交渉は、例えば大学に任せたらどうかな。すべての研究は人類のため。研究者にはもともと国境はない。平和の本部を各国の大学におく。そしたら防衛省とか大臣はいらないな。
 ヘミングウェイの小説のタイトルは「武器よさらば」。戦争を経験した人は、だいたい“さらば派”です。 

 私達は既に武器の線上から離れる努力をしています。

 核兵器は絶滅兵器だから、まずこれから離れよう。そうはいっても、せっかく、莫大なお金と長い時間を使って、しかも広島・長崎のような犠牲を払って開発したのだから、手離したくない。そこで妥協案。1963年に部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結されました。要するに海上とか大気中はダメ。自分の国の地下や、実験し放射能がそこで収束する実験に限定。
 第2弾は核拡散防止条約。これもPTBTと同じ1963年に国連で採択され各国(62か国)の調印で1970年に発効。1995年に期限が来ましたが、その後、無期限に延長されています。

 人類も愚か者ではないという一応の証明でしょう。しかし、守らない国もあるし、この条約に加盟しない国もある。
 となると実効性に問題はあるのですが、ともかく“これを使ったらおしまい”、“防衛も攻撃”も結局のところ、環境が修復不能なまでに破壊され、人類は滅亡する、という認識を共有したのです。

 毒ガスなどについても、使用禁止条約があります。しかし武器を区別するのは難しい。こうした部分的な禁止規定は、無いよりはるかにまし、ですが理想からはまだ遠いのです。

 武器の一本線からどう離れるか?おそらく、それは段階的にしかできないでしょう。

 人類は戦争をしなくても生きていける。平和教育の徹底。現状では大きな貧富の差があるが、それは助け合うことで克服できる。
 協同組合の線は、武器の線から遠いところにあるのです。誰かが最初に武器を捨てる。それは勇気のあることですが、人間を信じることでもあります。日本の戦争放棄の憲法にはそういうことが書いてあるのではないでしょうか。“武器よさらば”こそ名誉ある、かつ世界から尊敬されるスローガンです。

お読みいただき誠にありがとうございます。