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言葉が先か、それとも

言葉を綴ることは大したことではないハズだ。人間誰しも言葉を使う。僕らの人生は言葉とともにある、そう言って反論はないだろう。

すると、言葉を綴る、モノを書く、なんてこと造作もないはずだ。だって僕らの生活は言葉で溢れているし、朝起きて職場に行けば、コンビニに行けば、誰かと顔を合わせれば、そこには言葉が生じる。これは必然であり、自然だ。団扇で仰げば風が生じる。夏が過ぎれば少女も大人になる。お父さんは動揺する。

普段、言葉には目的がある。動機と言い換えてもいい。その言葉を使うに至った動機。食卓でお父さんが「醤油」と言えば、それはつまり「醤油を取ってくれ」であり、お父さんは醤油が欲しいのである。さんまの横に添えられた無垢な大根おろしに醤油を垂らさずにはいられないお父さんなのである(無論、垂らす着地点は冷奴でも差し支えない)。

そうだ、言葉にはふつう、まず動機がある。動機には叶えたい要望がある。その要望を叶えるために、僕らは喉が渇いたから水を飲むような自然な滑らかさで言葉を選択し、口に出す、文字にする。僕らにとって言葉は水だ。自然だ。なくてはならない。

ところが、"ゼロからモノを書く"ということになると、話は変わる。「何か書きたい」という欲望は、初恋の女の子のことをふと思い出すくらいの周期で訪れる。けれど、書けない、或いは書くのをやめてしまう事の方が多い。なぜだろう?と考えたが、僕には書く動機がないからだろう、これが今のところの結論だ。夏だし冷奴は食べたい。しかし言葉を紡がなくてはならない使命も理由もない。
不毛の大地に花を咲かせるのが奇跡であるように、何にもないところから、何か生み出すなんて土台無理な話なのだ。そんな具合に僕の心がへにゃると、決まって…

「何もないなんてことないわ。あなたのここ(胸の辺りを指す)に、きっとある。あなたが気づいてないだけでね」と、妄想の彼女が励ますのだから、始末に負えない。始末してくれ。

そんなわけで、今回は実験的な第一歩。

ひとは書くものがなくても、何か書けるのか?

喫茶ルノアールからお送りしました。


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