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「正しい」 より 「楽しい」

やさころです。
ちょっとお久しぶりの投稿。

世間は落ち着かない状況ですが、時間の余白ができた今、今学期の始まりに思うことをnoteに綴っていこうと思う。(ヘッダーは近所の公園の桜🌸最近カメラにはまってます)

いろいろとこの1年間の大学生活を振り返る中で、自分がアクションを起こす上での思考プロセスが少しずつ変化しているなあと感じている。

自分の物事に対するあらゆる判断軸に

「それは楽しい?」
「わくわくする?」

なんとなく直感で「あ、いいな」「おもしろそうだな」と思ったことに素直に飛び込んでいるようになっていた。そんな気持ちが自分の行動の原動力となる時はかなり多い。

「それをやって何になるの? 」
「何の意味があるの?」

こんなことをいつもずっと考え悩むことも少なくなかった。自分の中でその行動を起こす意味や正しさみたいなものをいつも欲していた。

そしてそれが自分の中で言語化できないと、苦しくなったり、もやもやを抱えたまま過ごすことはよくあった。

どうしてもその行動を起こす意味が欲しい。相手からの承認(正しさ)が欲しい。

窮屈で生きづらい生き方だ。

その意味付けをむりやり言語化したところで一向にすっきりすることはなかった。

今思えばそんなのは当たり前かもしれない。

そもそも「正しさ」なんて存在するのか

経験したことのないことを事前に意味付けしたり、正しいと言い切るだなんてできるわけない。

それは精神的にきつくなるだけではなく、時に自分の視野を狭めたり、相手を否定してしまう時もある。

自分の中の正しさを世の中の正しさだと勘違いする。無意識に他人に自分の正しさを押し付けてしまう。

そして何より、そこから自分の中で新しい学びや発見を得にくくなるのではないか。

「これはこのためにする。」
「こういうものを習得するためにやる。」
初めからがちがちに意味付けをして、そのために計画を立てて合理的に動けばそうなってしまうだろう。

行動の意味付けはあとからやればいい。

そこから自分は何を感じ、学ぶのか。
それは人それぞれ違って、それを事前に決めつけたり、相手に聞いてみることはナンセンスなのかもしれない。

常に最適解は何なのか、答えばかり探していては複雑で一筋縄ではいかない現代でなにか新しい発見をしたり、視野を広げたりすることは難しいだろう。

少し楽しさ(遊び要素)や少しの余白があるぐらいの方が新しいアイデアが浮かんだり、もっといろんな物事に対して柔軟に思考できると思う。
そしてそれは、複雑化する社会の中で生きるうえで大切なことだと思っている。

社会の正しいとされること・損得抜きにして社会に対してもっと関心を持ってみる。面白そうだな、やってみたいなと思ったことに真剣に向き合い、行動し、振り返る。そんな一年にしていこう( ¨̮ )︎︎

#MELCブログ #妄想紙 _01


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