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離れがたい東大寺(皐月物語 147)

 修学旅行で東大寺を訪れている稲荷小学校の6年生たちは大仏殿を出た。ここでお土産を買ったり鹿と戯れたりする観光班と、二月堂や法華堂など仏堂や仏像を見学する勉強班に分かれた。
 前島先生の率いる勉強班は二月堂裏参道を抜けて二月堂参籠所の前に出た。ここからは二月堂へ続く登廊のぼりろうだ。右手は芝の坂になっていて、その上に立つ二月堂を望みながら屋根付きの階段を上った。
「清水寺みたいだな」
 昨日の京都観光で清水寺を訪れた藤城皐月ふじしろさつきは二月堂を見て、思わず感じたことが声から出た。
「そうだね」
 隣を歩いている栗林真理くりばやしまりは皐月を見ずに、二月堂を見ながら呼応した。
 春日山の麓に建つ二月堂は清水寺の本堂と同じ懸造かけづくりという建造物で、斜面上に水平になるように建てられている。建物を支える根元が北から南にかけて傾斜が下がっているが、傾斜に合わせて柱が長くなっているところがグランドピアノの弦のようで美しい。
「清水寺では舞台の下から本堂を見上げたけど、二月堂は見上げながら近づくのがいいよね」
「大仏殿を出てここまで、ずっと美しいね。真理もそう思わん?」
「美しいのはバスを降りてからずっとだよ」
 皐月は真理の方が自分よりもずっと東大寺に感動しているんじゃないかと思った。境内を見ながら考察にうつつを抜かしている自分よりも、見るものを素直に受け止めている真理の方が感動が大きいのかもしれない。
 二月堂の斜面では鹿が一頭、良弁杉ろうべんすぎの木陰で草を食んでいた。芝生の緑と鹿の茶色、堂宇の焦げ茶色の柱と切り口の白、そして空の青の色合いが浮世絵のように鮮やかだ。謎を探求する必要のない、こうした何気ない光景は印象深く皐月の心に残った。
「ここは何度でも来たいね。季節が変わるたびに来られたらいいな」
 すぐ後ろにいた二橋絵梨花にはしえりかがつぶやいた。絵梨花のこの言葉は誰に言っているのだろう、と思った。まさか自分に言っているのでは、と皐月は自惚れてしまいそうになったが、一人で来たいに決まっていると思い直した。
 二月堂の舞台を歩く勉強班の児童たちは眼下に見下ろす景色を見て感嘆の声を上げていた。手前には開山堂があり、樹々の先には屋根の鴟尾しびが黄金色に輝く大仏殿が見える。その先にはかつての平城京だった奈良市街が一望でき、はるか遠くに生駒山が霞んで見える。
「ここの眺望は清水の舞台よりもずっといいな……。清水の奥の院といい勝負だ。江嶋もそう思わない?」
 皐月の隣には江嶋華鈴えじまかりん野上実果子のがみみかこがいた。その隣に吉口千由紀よしぐちちゆきもいたが、千由紀は皐月のことを気にしないで、自分の世界に入っていた。
「ほんと……いい眺め」
 華鈴の髪が南都を吹くそよ風になびいていた。大仏殿を出て、皐月は初めて華鈴と話ができた。修学旅行の間、クラスの違う華鈴とはなかなか接する機会がなかった。皐月は真理とだけでなく、華鈴ともこの高揚感を共に味わいたいと思っていた。
「ねえ、藤城。ここから見える街が平城京ってこと?」
 勉強嫌いな実果子の口から平城京という言葉が聞けたことが皐月には嬉しかった。実果子は6年生になって社会の授業を真面目に聞くようになったのかもしれない。5年生で隣の席に座っていた頃の実果子は授業なんかまともに聞いていなかった。
「そうだよ。俺たちは西から東を眺めているんだ。東大寺は平城京に東の端にあるから、西側は全て平城京だ」
「そうか……そう考えると凄いな」
「あっ!」
「どうした?」
 皐月は重大なことに気がついた。歴史的なことばかり勉強していたせいで、観光地としての二月堂の知識の習得強が疎かになっていた。
「西側を眺めているってことはさ……ここから夕陽を眺めると、生駒山に日が沈むところが見られるじゃん」
「ああ……そういえばそうだね。ここから見る夕焼け空って、きっと美しいんだろうな」
 皐月は華鈴の横顔を見て、夕日に照らされた華鈴のことを想像した。きっとここから見る景色よりも魅力的なんだろうな、と思った。
「私、まだ日が沈むところって見たことがない」
「俺もないな……」
 実果子の言う通り、皐月も日没を見たことがなかった。暗くなるまで外で遊んでいたことは何度もあるが、太陽のことなんて気にもしなかった。
「またここに夕陽を見に来なければならないな……」
「そうだね」
「うん」
 誰に言ったというつもりもなかったが、皐月の言葉に華鈴も実果子も応えてくれた。皐月は5年生の時から二人には恋愛に近い感情を抱いていた。どんな形であれ、いつか華鈴や実果子と東大寺へ来ようと思った。

 二月堂は大仏開眼供養と同じ年の752年に創建された。この年に修二会しゅにえという宗教行事が行われたと記録に残っている。修二会は「お水取り」の行事が有名で、奈良の早春の風物詩だ。二月堂の建造の主な目的は修二会をするためだと言われている。
「なあ、藤城。お前、昨日の夕食の時、二月堂の仏像って絶対秘仏だって言ってたよな。あれってどういう意味だ?」
 皐月が感慨に耽っているところに月花博紀げっかひろきが話しかけてきた。好きな女子たちといい感じのところを邪魔され、皐月は少しイラっとした。
「お前、そんな話よく覚えてるな……。秘仏っていうのは秘蔵の仏像っていう意味で、何十年ぶりだとか時々一般公開したりするんだけど、絶対秘仏っていうのはその寺の僧侶ですら姿を見られない、封印された仏像のことだ」
「じゃあ、その絶対秘仏がここにあるってことか?」
「まあ、そうなんじゃないかな……。本尊の仏像は開けてはならない厨子の中に入ってるらしいよ」
 皐月は絶対秘仏に疑問を持っていた。こんな事を思ってはいけないのかもしれないが、たかだか仏像なのに絶対に見てはいけないなどということは有り得ない。なぜなら中の仏像の無事が確認できないからだ。
 本尊を見てはいけないということは現物がそこにないからで、そのことを隠すために絶対秘仏という設定にしているのではないか。皐月は24時間参拝が可能なセキュリティーの甘い二月堂に絶対秘仏など置かれているはずがないと信じている。
「その絶対秘仏っていうのは何という神様?」
 村中茂之むらなかしげゆきは神と仏を混同している。だが、皐月はこういう茂之のような捉え方が日本の仏教の特色だと思っている。手を合わせる対象は縁なき衆生しゅじょうにしてみれば、神でも仏でもどちらでもよい。
「十一面観音菩薩っていうんだ。東大寺が今の東大寺になる前の小さなお寺だった頃は、聖武天皇の奥さんの光明皇后が十一面観音菩薩を信仰していたんだ。この仏は人々の苦しみを取り除いてくれると信じられている」
 皐月の周りに人が集まり始めた。博紀の傍に松井晴香まついはるか筒井美耶つついみやがやって来て、華鈴の傍に真理と絵梨花がいた。神谷秀真かみやしゅうまと前島先生は少し離れたところで皐月の話を聞いていたようだ。秀真がニヤニヤした顔で皐月のことを見ていた。

「じゃあ、ここで行われるお水取りって行事の意味は? 今朝、学校から配布された『修学旅行のしおり』を見たんだけど、何の説明も書いていなくてさ……。皐月はお水取りのこと、何か知ってるのか?」
 博紀が訪問先のことをあらかじめ調べていたことに皐月は驚いた。博紀は勉強もスポーツもできる優等生だが、成績に関係のないことを自分の意思で勉強するようなタイプだとは思っていなかったからだ。
「まあ、知ってるといえば知ってるけど、そんなに詳しくはないぞ」
 皐月はこの日までに憶えておいた修二会の知識を記憶の中から引っ張り出した。
 修二会とは本尊の十一面観音菩薩へ自らの過ちを懺悔して、国家の安定と繁栄、民の幸福を祈願する悔過けかの法要のことだ。それは罪過の積み重ねが災禍を生むという考え方が根底にあり、本尊の前で過去に犯してきた様々な過ちを発露懺悔することで幸福を呼び込もうとする儀式だ。修二会は国家鎮護のために国の威信を賭けて行われた大仏造立の理念を支えている。
「お水取りは自分の犯した罪を観音菩薩に告白して許しを請う儀式なんだ」
「なんだ、それ? キリスト教みたいじゃん」
 博紀の口からキリスト教なんて言葉を聞いたのは初めてだった。皐月はなんだか嬉しくなってきた。博紀とは秀真とは違った深い話ができるかもしれない。
「本当、そうだよな。で、どうしてそんなことをするのかっていうと、大仏と関係があるんだ」
「大仏?」
「大仏を作った理由は病気や自然災害から仏教の力で社会の不安を鎮めようとしたことだって授業で習ったよね。その時代には罪や穢れが災いを生むって考え方があったんだ。ならば罪や過ちを悔い改めたら、災いがなくなり、幸せを引き寄せて、平和な世の中になるだろう、と考えたんだ」
 皐月は誰にでもわかるように簡単な言葉で言い換えてみた。これで通じているかどうか不安だったし、自分の言ったことが合っているかどうかも自信がなかった。なにしろ修学旅行前に慌てて調べたことだからだ。
「なんかスピっぽいな」
 実果子が現代の新宗教、スピリチュアルを引き合いに出してきた。実果子が少しでもオカルト的なことに興味があるのなら、匂い袋の交換の話を知っていたのかもしれない。5年生の時、実果子はオカルトには全く興味を示してはいなかった。皐月は実果子に対する認識を改めなければならないと思った。
「因果応報というか、カルマの法則の応用だな」
「応用?」
 秀真が突っ込んできた。秀真とはカルマの法則について話をしたことがあるが、皐月は二月堂とのかかわりをここで始めて話す。
「仏教には業という考え方があって、良いことをすれば良いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるんだって。よく聞く話じゃない?」
「そうか……それってスピじゃなくて仏教なんだ。そりゃそうだよな……東大寺だから」
 実果子の反応は素直だが、皐月はまだ最後まで話をしていない。
「そう。でも因果応報なら罪を犯さなかったから幸せになるわけで、罪を犯さないようにするから先に幸せにしてくれっていうのは順序が逆で、虫のいい話だ。悪いことをした後で謝って、『謝ったから許せ、ご褒美をよこせ』だなんてずうずうしいだろ?」
 皐月は実果子を見つめながら話をしていた。実果子と華鈴は真剣な顔をして話を聞いていた。
「でも、二月堂の本尊の観音菩薩は慈悲深い仏なんだ。だから、こんなお願いでも聞いてもらえると信じたんだ」
 修二会は宗教的儀式だから、信じることが全ての始まりだ。皐月は修二会がそういう意図で行われていると考えている。

 いつの間にか勉強班の全員が集まっていた。皐月は自分が偉そうなことを言っているような気がして恥ずかしくなった。この場を離れようと思ったら、秀真が質問してきた。
修二会しゅにえって不思議な法要ほうようだよな。二月堂の舞台で火のついた大きな松明を振り回す行事があるけど、あれってどういう意味?」
 皐月は修二会のことを自分より詳しく知っているくせに、わざわざ自分に聞いてきた。しかも、小学生にはわからないような用語を平気で使っている。試されているような気がして、秀真のことが疎ましくなった。
「さあ? 松明の火の粉を浴びると、健康になるとか幸せになるとか言われているけど、どうしてそんなことをするのかっていう理由ははっきりとわかっていないみたいだね。ただ、火を神聖な物としているのは確かだと思う」
「他に修二会のお松明みたいなことをする法要ってないの?」
 この話の流れは修学旅行前に秀真から聞かされていたものだ。皐月は秀真から教えてもらったことをそのまま話した。
「ああ、ないみたいだね。仏教伝来の経路上にある朝鮮、中国、インドにもない。でも、それよりもっと西にあるペルシャには火を神聖視する、ゾロアスター教という宗教がある」
 皐月は秀真に誘導尋問されていることに気づいていた。秀真はみんなにマニアックな話を聞かせたがっている。秀真は説明下手なことを自覚しているので、皐月に代わりに説明させようと目論んでいる。
 皐月はみんなに修二会の説明をするのは構わないと思っていた。ただ、説明に時間を取られてしまうので、後のスケジュールのことが心配だ。法華堂ほっけどうの仏像を見る時間がなくなるかもしれない。
「ということは……修二会のお松明はゾロアスター教の影響があるってこと?」
「そういう説はある」
 話が難しくなってきて、ちらほらと離脱する者が出始めた。残っているのは皐月とずっと行動を共にしてきた真理と絵梨花と千由紀。5年生の時の同級生だった華鈴と実果子。皐月のことを好きな美耶と、美耶を好きな茂之。絵梨花に気がある博紀も残るので、博紀を好きな晴香も残った。そんな児童たちを前島先生が見ていた。
「ねえ、皐月。ゾロアスター教ってどういう宗教なの?」
 真理は好奇心で質問を投げかけてくるので、秀真のように他意がない。皐月は言葉を選びながら説明をしようと思い、御堂の方へ振り向いて奈良の都を背にした。

 ゾロアスター教は紀元前500年から1500年頃に始まった宗教で、光の神と闇の神がこの世界で争っているという世界観を有している。
 この世界が終わった後に最後の審判が行われ、光の神が勝つと預言されている。その後、人々は新しい理想世界へ転生すると説かれている。
 最後の審判では死者も生者も改めて選別される。光側に選ばれた人は悪の消滅した新世界で救世主に永遠の生命を与えられるので、光の神を信仰し、善い行いをしなければならない。
「ずいぶん端折ったな。ま、いっか……」
 秀真は皐月の説明が気に入らなかったようだ。皐月はあえて固有名詞を避けて話をした。ここで光明神のアフラ=マズダと、暗黒神のアーリマンという名を挙げても聞き流されてしまうだろうと思い、下手をするとそれ以降の話も頭に入ってこなくなると判断したからだ。
「で、それが修二会とどう関係してるんだ?」
 皐月は説明を続けた。
「ゾロアスター教では光の神の象徴として火を神聖なものとしているんだ。だから神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝していたんだ。それって二月堂のお水取りの火の儀式に似ているんじゃないか?」
 皐月は話しながら面白いことに気がついた。
 修二会がゾロアスター教の儀式であるとしたら、偶像はあってはならないことになる。修二会の舞台の二月堂で十一面観音菩薩を本尊として祀るのは偶像崇拝禁止の掟と矛盾している。だから絶対秘仏として仏像を非公開にするというていで、無いものを有るとしているのではないか。
「じゃあ、修二会をやろうとしたのは誰なんだ? 仏教徒じゃなくてゾロアスター教徒なのか?」
 秀真は自分が皐月に吹き込んだ話を、こうして白々しく聞いてきた。皐月はこの茶番が可笑しくて笑いそうになったが、ここは秀真の相手をせず、手短に答えなければならない。真理の質問に答えていたため、見学時間が押してきたからだ。
「修二会を始めたのは実忠じっちゅうという僧侶で、東大寺を開いた良辨ろうべんのもとで修行していた、当時まだ二十代の若者だ。実忠が山で修行中、異世界に迷い込んで、異世界住人が十一面観音に懺悔しているのを見て、同じことを自分の住む世界でもしたいと思ったのが修二会の始まりなんだ」
 皐月はアニメ風に話を言い換えた。この例えは秀真にもウケていた。皐月はこの話を、実忠がキリスト教徒の懺悔を見た記憶をラノベ風に話を盛ったものだと思っている。
「実忠はペルシャ人という説があるんだ。ジッ・チュウの名前を古代ペルシャ語で読むと『ジュド・チフル』となり、『異なる種族』という意味になる」
 皐月は良辨が心の中で実忠のことを外人って呼んでいたことが可笑しかった。法名を僧侶っぽくしたのは良辨の優しさか。実忠の本名は何だったのだろう?
「ゾロアスター教は聖徳太子の時代にはすでに日本に入っていたと言われている。良辨はまだ若い実忠に二月堂を任せたくらいだから、ゾロアスター教にも関心を抱いていたんだろうな。もういいだろ、このへんで。先生、法華堂の仏像を見る時間って、まだ残ってますか?」
 前島先生はハッとした顔をした。皐月の話に聞き入っていたようだ。
「そうですね……」
 前島先生は時計を見て思案していた。
「10分くらいなら大丈夫です。少し拝観時間が短くなってしまいましたが、大丈夫ですか?」
「はい」
「では、法華堂に行きたい方はすぐに移動してください。私たちは法華堂の前で待っています」
 皐月たち以外の勉強班の児童たちは思い思いに二月堂を見物していたり、先生から借りたカメラで撮影をしてた。前島先生は全員を集めて、南出仕口から地上へ下りた。

 二月堂の南側の石段を下りたところで前島先生は勉強班の児童に法華堂の拝観を希望する者の確認をした。法華堂へは藤城皐月、二橋絵梨花、栗林真理、月花博紀、村中茂之、江嶋華鈴、野上実果子、筒井美耶の8人が行くことになった。
「10時15分にはここを出発します。法華堂を拝観する人も、この周辺で思い思いに過ごす人もここへの集合は時間を厳守してください。写真を取りたい人はカメラを預けます。カメラを使う人はいますか?」
「私がみんなの写真を撮ってあげる」
 松井晴香が手を挙げた。晴香は博紀にくっついて法華堂に来るのかと思っていたので、皐月は晴香が残るとは思っていなかった。
「先生。さっき歩いて来た道に行ってもいいですか?」
「どこに行ってもいいですよ。時間までには戻って来てくださいね」
「わかりました。じゃあ、裏参道で写真を撮りたい人は一緒に行こう! 男子たちも来てよ」
 6年4組でカースト最上位に君臨している晴香は人に変な圧力をかけずに巻き込むことがうまい。晴香は全然タイプの違う吉口千由紀や水野真帆にも声をかけていた。晴香はルックスがいいだけでなく、性格も穏やかで人当たりがいい。ただ、皐月にだけは容赦がない。
「先生。僕はこの辺りの神社を見てきます」
 神谷秀真は単独で神社へ参拝すると宣言した。神社好きの秀真は東大寺の境内の神社を隈なく廻りたいはずだ。
皐月こーげつは僕と一緒に神社に行くと思ってたよ」
「迷ったんだ。でも、修学旅行で仏像にも興味が出てきたから、俺は三月堂に行く」
「まあ、いいけどさ。さっきのゾロアスター教と二月堂の解説、良かったよ」
 秀真は笑って手を挙げ、法華堂の南側正面の向かいにある東大寺の守護神、手向山八幡宮たむけやまはちまんぐうの鳥居に向かって駆け出した。
 皐月たちは法華堂(三月堂)の西側正面にいた。法華堂の概要は学校から配布された三河教育研究会の『修学旅行のしおり 奈良・京都編』に載っている。皐月はみんなの間で話題に上らない限り、自分から法華堂の説明をするのは控えようと思った。仏像の拝観時間が削られるのを避けなければならないからだ。

 法華堂は二つの御堂を一つに繋げたものだ。現在の法華堂は奥行8けんの建物だが、創建当初の法華堂は左側4間の正堂しょうどうと、右側2間の礼堂らいどうが並び立つ、双堂ならびどうという形式の仏堂だった。
 法華堂は東大寺に現存する数少ない仏堂で、奈良時代に建てられたものだ。法華堂は東大寺の前身寺院である金鐘寺こんしゅじに属した仏堂で、金鐘寺の本堂だったわけではない。正堂に安置されている本尊の不空羂索観音ふくうけさくかんのん像も創建時に作られたと考えられている。
 東大寺の伽藍の大半は1180年の南都焼き討ちにより焼失したが、法華堂の礼堂は燃え、正堂は焼け残った。これは正堂が諸仏を安置する建物であったことで、不空羂索観音や諸仏の御加護によって守られたのかもしれない。
 焼け落ちた礼堂は鎌倉時代に再建され、正堂と礼堂の間の2間を繋いで一つの建物にした。大胆な魔改造で蘇った法華堂だが、礼堂の屋根が入母屋造になっていて、左右で違う作りになっているところが微笑ましい。

 皐月たちは南側の入堂入口の前まで来た。ここでは拝観料として小学生は300円を支払わなければならない。
「真理、俺の分も拝観料払って」
「あんた、拝観料残してなかったの?」
「法隆寺の分は残してあるよ。でも、もうそれしか残ってない……」
「お金がないなら外で待ってなさいよ」
「なんだよ、ケチ」
 口では厳しいことを言っているが、真理は払ってくれると皐月は思っていた。真理に恩を売らせて、自分よりも立場を上にしてやろうと、わざと拗ねてみたのだ。実際、真理は満更でもない顔をしていた。
「藤城さん。私が拝観料を出してあげる」
 声をする方を見ると、絵梨花が楽しそうに笑っていた。
「あっ……ありがとう。でも、真理が出してくれるから」
「そうなの?」
 絵梨花が笑みを浮かべながら真理を見ると、真理の顔が引きつっていた。
「こいつのお金は私が出すから。絵梨花ちゃん、ごめんね。気を使わせちゃって」
「私の方こそ。余計なこと言っちゃったかな」
「ううん、そんなことないよ。それより中に入ろうよ。皐月、行くよ」
 真理が恥ずかしそうな顔をしながら法華堂の中に入ったので、皐月は後に続いた。絵梨花も一緒に中に入った。
 真理が拝観受付窓口で拝観料を払っている間、皐月は礼堂のなかを眺めていた。礼堂の2間というのは柱の間の空間が二つあるということだ。礼堂の真ん中には柱が並んで立っている。
「お待たせ。入るよ」
 真理に促され、皐月は受付の奥の入口から先へ進んだ。2間ある造り合いの空間は格子戸で仕切られていた。正堂へ向かって進むと、1間進んだだけで正堂に入った。

 4間ある正堂は5間に拡張されていて、畳の敷かれた縁台が作られていた。仄暗い堂内の中、八角形の須弥壇の中央に大きな不空羂索観音ふくうけんさくかんのん像が金と黒に輝きながら聳え立っていた。
 中年夫婦と白人女性が一人、堂内で仏像を見ていた。皐月たちの前に華鈴と実果子、美耶がすでに正堂の中に入っていた。
「どう?」
 皐月は不空羂索観音像を見ていた美耶に声をかけた。
「観音様なのに腕がたくさんあるのね。6本……あっ、8本だ! 私が知ってる観音像はもうちょっと人間っぽいよ。腕も2本だし」
「へぇ~、そうなんだ。観音像は普通、腕が8本もないんだね」
「私もそんなに詳しいわけじゃないんだけど……」
 美耶は謙遜するが、二人で豊川稲荷に行った時、皐月は美耶の仏教や神道の知識に驚かされた。十津川とつかわ修験者しゅげんじゃの家で育った美耶は、体系的ではないが、生活に根差した常識としての宗教的知識がある。
「でも、この観音様の顔は穏やかじゃないね。もしかして男性なのかな?」
「言われてみるとそんな風にも見えてくるな……。そもそも観音菩薩って仏なんだから、性別なんてないよね。天平時代って自然災害や疫病、内乱が相次いだ受難の時代だから、仏像の顔も険しくなっちゃうんだろうね」
 険しいは言い過ぎたかな、と皐月は自分の言ったことが気になってきた。これまで金剛力士像や四天王を見てきたので、仏像のイメージが怖いものだと印象付けられていたのかもしれない。
「ねえ……不空羂索観音ってどんな仏様なの?」
 皐月の隣に真理がいた。その横に絵梨花がいて、博紀と茂之もいた。
「観音菩薩は救いを求める人がいれば、どこにいても救済にかけつけてくれる菩薩なんだけど、不空羂索観音菩薩になると人に限らず、生きとし生けるもの全てをもれなく救ってくれるんだ」
「ふ~ん。この仏様も大仏の盧舎那仏るしゃなぶつみたいに最大出力の仏様なんだね。東大寺ってそういう仏様が好きなんだ」
「そりゃ国家鎮護っていう遠大な目的で作られた寺だからね。信仰も大仰になるよ」
 美耶が皐月越しに真理に話しかけた。
「栗林さんって仏教に興味があるんだね。茶吉尼天だきにてんの自由研究、読んだよ」
「ああ……あれは皐月が書いたの」
「えっ?」
「夏休みの宿題、皐月にやってもらっちゃった」
 悪びれる様子もなく笑っている真理を見て、美耶が唖然としていた。そして皐月をキッと睨んだ。
「なんだよ……」
「……別に」
 美耶の視線が痛かったのは一瞬だけで、すぐに悲しそうな顔に変わった。美耶は一人、皐月たちから離れて、畳の縁台に座った。
 美耶の隙間を埋めるように博紀と茂之が皐月の隣に来て、小さな声で話しかけてきた。
「なあ、皐月はこの仏像の良さがわかるのか?」
 博紀は難しいことを聞いてくる。こんなことを聞いてくるくらいなので、博紀は博紀なりに何かを感じているのだろう。
「良さかどうかはわからないけど、感じるものはある。それが何かっていうのは、うまく言えないな……。あと、背中の光がババーンって感じで漫画っぽくて面白い」
「なんだ、それ」
 博紀が苦笑しながら不空羂索観音像に目を移したので、今度は皐月が聞いてみた。
「博紀と茂之しげは不空羂索観音像を見て、何か感じた?」
 二人とも黙り込んでしまった。皐月はどちらかが言葉を発するまで不空羂索観音像だけでなく、まわりの諸仏を見ることにした。

 現在、法華堂では須弥壇の周囲に阿吽の金剛力士と四天王など天部の神々が安置されている。残念ながら脇侍わきじの日光・月光菩薩立像、他にも弁才天像などが東大寺ミュージアムに移されていて、ここでは見ることができない。だが、ここに残された仏像は全て国宝に指定されているので、見ごたえはある。
「俺も皐月と同じで、うまく言葉にできない……。でも、奈良時代から残っているってだけで凄いと思う」
「博紀の言う凄いってのは、感動だよな」
「まあ、そうだな」
茂之しげは?」
 皐月の言葉を聞き、茂之は不空羂索観音像に向かって掌を合わせた。
「俺もよくわかんないけど、1200年以上ここで人が手を合わせてきたんだよな。今、昔の人と同じことをしてみたんだけど、不思議な気持ちになった」
 茂之はクラス対抗の球技で中心的な存在だ。皐月は茂之と昼休みの遊び以外であまり関わることがなかったので、茂之にこんな一面があったことを知り、親しみを感じた。
「茂之が手を合わせたのは祈りなのか?」
「う~ん、どうだろう。よくわからない。別に祈ることなんてないし」
 皐月は人の仏像の感想を聞いているうちに、自分の感じたことの言語化の助けになるような気がしてきた。絵梨花にもどう感じたか聞いてみようと思ったが、博紀が絵梨花に話しかけていたので遠慮した。
 皐月は畳の縁台に座っている実果子の隣に座った。実果子にも感想を聞こうと思っていたが、少し離れた縁台から堂内を見てみると、つい仏像を見るのに夢中になってしまった。皐月が黙って仏像に見入っていると、実果子が話しかけてきた。
「藤城って仏像が好きなのか?」
 実果子の顔がいつもより和やかに見えた。こんな少女だったかな、と皐月は目を疑った。天平時代を思わせる法華堂堂内の空気が実果子を魅力的に見せていた。
「昔は仏像とか全然興味がなかったんだけど、修学旅行に行く前に勉強したり、京都と奈良に来ていろいろ見ているうちに好きになってきたみたい」
「私もそんな感じ。でも全然勉強していないから、どんな神様だとか、どんな御利益があるかとか、何もわからない」
 皐月は誰と話しているのかわからなくなってきた。今の実果子は皐月の知っている今までの実果子とは違っていた。黒髪に戻したり、匂い袋の交換をしたり、やることが可愛くなっていた。皐月は実果子のことを異性として見てしまい、胸の鼓動が早くなってきた。
「仏像の御利益なんて知ってる方がキモオタだって、仏像系のユーチューバーが言ってたぞ。じゃあ、キモオタの俺から一つ豆知識を披露するよ」
 実果子の隣にいる華鈴も皐月の方を見た。少し離れた所に座っていた美耶を呼び寄せて、実果子と反対側の隣に座ってもらった。美耶の隣に茂之も来た。
「さっき見た大仏の顔って、実はいろいろあって、何度も作り直されているんだ。だから今の顔と最初に作った時の顔は全然違うんだって」
 大仏殿の盧舎那仏像は完成から50年ほど経つと、自重に耐え切れなくなり臀部が変形して傾き始めた。そして地震の影響などで首が落ちてしまった。その首は付け直されたが、1181年の南都焼き打ちで大仏の頭と腕が落ち、修復不能になった。その後も東大寺大仏殿の戦いや落雷で焼失し、現在の大仏の顔は4代目だ。
「初代の大仏を作った人と、ここにある不空羂索観音像を作った人は同じ人で、国中公麻呂くになかのきみまろという仏師なんだ。だから、本来の大仏の顔はここに安置されている観音像の顔とよく似ていたかもしれない」
 不機嫌そうな不空羂索観音像の尊顔を仏頂面と斬り捨てるべきではない、と皐月は感じていた。これは衆生の救済よりも国家鎮護を祈って造られた仏像だ。そんな重大任務を背負った観音像に優しい表情は必要なかったのかもしれない。初代の大仏の顔はどんな表情だっただろう……。

 皐月たちが並んで座っているところに絵梨花と真理、博紀がやってきた。
「そろそろ時間だから出よう」
 博紀が学級委員らしく、みんなを仕切った。皐月たちは立ち上がって、博紀を先頭に法華堂を出た。西側正面には前島先生と児童たちが集まっていたが、秀真はまだいなかった。晴香が手を振っていた。
「みんなの写真を撮ってあげる。並んで」
 法華堂を拝観していた皐月たちを集め、晴香が法華堂と二月堂を背景に写真を撮った。皐月の両隣には実果子と真理がいた。
「美耶! 写真撮ってあげる。藤城もこっちに来て」
 皐月は思わず真理の顔を見た。
「行ってあげたら?」
 真理は嫉妬をしないのか、穏やかな顔で皐月を送り出した。ちらっと華鈴を見ると仏像みたいな顔をしていた。
「筒井と二人で写真に映るのって初めてだな」
「ごめんね~。なんか、晴香ちゃんが勝手に決めちゃって」
「いいよ。俺も筒井と二人の写真、欲しかったし。後で松井も入れて、3人の写真も撮ろうぜ」
「うんっ」
 晴香が皐月と美耶の撮影を終えたので、晴香を呼び寄せた。
「今度はお前も入れよ。中澤さん、撮って」
 中澤由香里なかざわゆかりは美耶と仲がいいので頼みやすかった。由香里が撮影をし終えたので、皐月は晴香に小声で聞いてみた。
「博紀と一緒に写真、撮ってやろうか?」
「いい」
「えっ、いいの?」
「……」
 晴香のつれない態度が皐月には意外だった。博紀のことが好きな晴香なら喜んで写真を撮ってもらうだろうと思っていたからだ。照れて断った感じでもない。晴香は博紀にどこか冷めているような気がした。
 皐月は由香里からカメラを借り、法華堂のメンバーの写真を撮ろうと思った。
「博紀、茂之しげ! お前らの写真も撮ってやるよ」
「おう……頼むわ」
 博紀も茂之も突然の提案に戸惑っていた。
「女子にも入ってもらおうかな……。おい、筒井! お前も来いよ。あと、二橋さんも来て」
 美耶と絵梨花を真ん中にして、茂之を美耶の隣に、博紀を絵梨花の隣に配置して、法華堂を背景に写真を撮った。
「博紀、俺と江嶋と野上の写真も撮ってくれないか。俺たち、5年の時に同じクラスだったんだ」
「いいよ。カメラ貸せ」
 博紀にカメラを渡し、皐月たちは二月堂を背景にした。
「江嶋さんと野上さん。もうちょっと皐月に寄ってくれないかな?」
 華鈴の顔を見ると照れている感じがした。実果子の表情はよくわからなかった。シャッター音が聞こえた。
「ちょっと待てよ。まだ用意ができていないって」
「なんだ、まだか。じゃあ、もう一枚撮るぞ」
 博紀が横向きだったカメラを縦向きに変え、ズームを下げるのが見えた。変な写真を撮られたかな、と皐月は思ったが、博紀なら悪意のあることはしないだろう。
「栗林さん、こっちに来て!」
 博紀が真理に話しかけるのを皐月は久しぶりに見た。6年4組の教室内ではほとんど見られない光景だ。
「お前らの写真も撮ってやるよ。幼馴染だろ」
「じゃあ真理と二人の写真を撮ったら、お前も一緒に写れよ。博紀だって低学年の頃は真理と一緒に遊んだだろ。お前も幼馴染じゃん」
 真理が今のマンションに引っ越す前は、皐月や博紀と同じ町内に住んでいた。博紀と真理は通学班が別だったが、皐月にくっついて真理も博紀と遊んだことがある。
 皐月と真理の写真を撮り終えると、博紀は絵梨花に撮影を頼んでカメラを渡した。
「真理、お前が真ん中になれよ。イケメン二人に挟まれて幸せだろ?」
「どこにイケメンがいるのよ」
 真理がキョロキョロと周りを見回した。
「あれっ? 栗林さんってこんなキャラだったっけ?」
「真理はいつもこんなだよ。教室では無愛想だけどな」
「皐月が愛想を振りまき過ぎてるだけでしょ」
 絵梨花が写真を撮り終えると、博紀にカメラを渡した。博紀は少しはにかんでいた。
「今度は私たちの写真を撮って」
 絵梨花が皐月の横にひっついてきた。皐月には博紀の顔が微かに嫉妬で歪んだように見えた。
「藤城さん、美女に囲まれて幸せでしょ?」
「美女? 美女はどこですかぁ~」
 皐月も真理の真似をして、大げさに周りを見回した。真理は苦笑をしていたが、絵梨花は声を挙げてケラケラと笑っていた。皐月は絵梨花の期待していた返しができたと思った。
 写真を撮り終えた博紀が前島先生にカメラを返しに行くと、二人で何か話しこんでいた。気になった皐月は先生たちの話が聞こえそうなところまで近づいてみた。前島先生は秀真が戻って来ないことを気にしているようだ。
「先生。神谷君がどうかしたんですか?」
「ちょっと遅れていますね。さっき二月堂へ上がって行くところは見たんですけど……」
「あっ、わかった。二月堂の裏手にある遠敷おにゅう神社を見に行ったんだと思います。小さなやしろだから、すぐに戻って来ますよ」
「そうですか」
 遠敷神社は福井県の遠敷川おにゅうがわの神を祀った神社だ。二月堂のお水取りでは閼伽水あかみずに福井県小浜市の遠敷川の神水が使われる。
「僕はその場所を知ってますから、ちょっと見てきましょうか?」
「いや……待ちましょう。行き違うことがあるといけないですから」
 皐月が二月堂の方に目をやると、秀真が走って来るのが見えた。
「あっ! 来た。あいつ、昨日もあんな感じで夢中になってたんだよな……」
「まあ良かったじゃん……。先生、みんなを集めておきますね」
 博紀が学級委員らしく、勉強班に招集をかけに行った。だが、すでに華鈴がみんなに声をかけていて、絵梨花も華鈴に協力しているようだ。前島先生の顔に安堵の色が浮かんでいた。秀真が前島先生のもとにやって来た。
「すみません。遅れましたか?」
「3分遅刻です」
「ごめんなさい!」
 秀真が頭を深く下げた。皐月が秀真のこんな姿を見たのは初めてだった。
「ちょっと時間の余裕がなくなりましたね。すぐにここを発ちます」
 博紀がすでに勉強班の招集と点呼を終え、今すぐにでも出発できる体制が整っていた。

「それでは今からバスに戻ります。少し早歩きで、最短コースを行きます。私について来てください」
 言うやいなや、前島先生は絵馬堂茶屋の横の石段を下り始めた。ここは二月堂表参道で、石段の両脇に石灯籠がある。裏参道ほどではないが表参道も風情がある。
 児童会長でもある江嶋華鈴がリーダーシップを発揮して勉強班を引き連れ、博紀が最後尾で列を見守る態勢になっていた。
「月花君、ごめん」
 秀真が博紀にも頭を下げた。
「ちゃんと来てくれたからいいよ。それより何か面白いものでもあったの?」
「僕は神社が好きだから、見られるものは全部見たいんだ。でも欲張り過ぎるところがあって、昨日も皐月こーげつたちに迷惑をかけちゃった」
 博紀と秀真が話をするのは普段の教室内ではなかなか見られない。変な組み合わせは修学旅行ならではだと、皐月は焦るべき時なのに楽しくなってきた。
「皐月、昨日は何かトラブルでもあったのか?」
「トラブルってほどではないけれど、時間が押して、行く予定だったところを少し諦めたくらいだよ」
「なんだ、それって嫌じゃん」
「それがそうでもないんだよな。また来ればいいやって思って、かえって将来の楽しみが増えたって感じがした」
「そうか……皐月と神谷の班は楽しそうで良かったな」
 話しながら歩いていると、すぐに列から引き離されてしまう。後ろから見ると列の先頭では華鈴が、半ばでは絵梨花がまとめているように見えた。
「博紀。お前、江嶋に何か頼んだの?」
「いや……俺がみんなを集めようとしたら、児童会長がすでにみんなを集めていて、二橋さんがメンバーのチェックを終えていた」
「なんだ、お前って何もしてねーじゃん」
「お前だって実行委員の仕事はほとんど江嶋さんにやってもらってたんだろ」
「まあな。江嶋は頼りになるから」
 本当は皐月が主導で修学旅行実行委員の仕事を進めていたが、こんなことを博紀に主張しても仕方がない。皐月は華鈴に花を持たせた。
「俺、ちょっと江嶋のところに行ってくるよ」
 皐月は前島先生のすぐ後ろにいる華鈴のところまで走って行った。

「なあ……俺は月花がクラスで一番女にモテると思っていたんだけど、藤城と一緒にいると、あいつが一番モテるような気がしてきた」
 茂之がため息をついた。博紀には反応のしづらいつぶやきだったが、博紀に代わって秀真が茂之に会話を返した。
「僕たちの班の女子3人も皐月こーげつに対して好意的だったよ。特に二橋さん。正直、僕は嫉妬している」
 三人が列から遅れたことをいいことに、秀真が絵梨花の名前を出した。
「へぇ~。二橋さんがね……。藤城は6年4組の男子全員を敵に回したようなものだな。おい、月花。お前、どーするよ?」
「別にどーもしねーし。村中こそどうなんだよ。筒井のこと、取られてるじゃねーか」
「取られてねーだろ。藤城は筒井のこと、全然相手にしていないみたいだし。俺にもまだワンチャン残ってるはずだ」
 美耶が皐月に片想いをしていて、皐月は美耶の相手をしていないというのは6年4組全体の共通認識だ。
「それより藤城ってさ、3組で野上と噂になってるみたいじゃねーか。あいつらがくっついたらいいのにな」
「そうそう。村中君の言う通り、人の幸せは妬むよりも、祝福する方がいい。皐月と野上さんがうまくいくことを祈ってやろう」
 男子たちも友達同士で恋愛話をしている。ただ、誰も皐月とは恋の話をしたがらない。6年4組の男子はみんな、少なからず皐月にコンプレックスを抱いている。皐月と仲の良い花岡聡はなおかさとしもそう思っているので、皐月とは恋の話ではなく性の話に持っていこうとしている。
「それに、せっかく東大寺に来たんだからさ、煩悩を捨てる努力をしなきゃダメなんじゃない?」
「煩悩か……。そういや俺、さっきまで仏像を見てたんだよな……。何やってんだろ……」
 茂之の煽りは的外れだったが、秀真の言葉は少し響いたようだ。博紀には秀真の言う煩悩には思い当たることがたくさんある。
「神谷って仏教に詳しいんだ」
「いや、僕は仏教にはあまり興味がなくて……。だからさっきも神社を見てまわってたわけで。仏教に詳しそうなのは筒井さんかな。皐月こーげつは修学旅行前に猛勉強しただけだから、付け焼刃だよ」
 博紀から見れば皐月は十分博識に見えた。秀真は皐月のことが気になるらしい。秀真の皐月に対する対抗心の抱き方が自分に似ていると思い、博紀は秀真を見て自己嫌悪に陥った。
 勉強班一行は食事処や土産屋のある一角を抜けた。店の向かいには公衆トイレがあった。
「あっ、ここさっき来た神社だ」
 秀真が指差したのは白山神社だ。朱塗りの柱の小さな祠で、周囲に鹿がたむろしていた。
「神谷ってこんなところも見てるんだ」
「まあね。でも、こういう小さい神社に面白いことがあったりするんだ」
 茂之には秀真の趣味が少しだけ分かるようになっていた。修学旅行で京都や奈良の寺社を巡っているうちに、信仰心はなくても何か特別な感情が芽生え始めていた。
 左手に奈良公園を望みながら樹々の間を歩いていると、鏡池に出た。クラス写真を撮った場所から再び中門と大仏殿を見ると、博紀も茂之も東大寺を去りがたい気持ちになっていた。
「なあ、月花。東大寺って良かったな」
「そうだな。俺たちの班って、初日の京都では大きくて有名な寺には行ってなかったんだ。やっぱこういうメジャーなお寺は来なくちゃダメだな」
 学習班は再び南大門の手前まで来た。真理たちと話していた皐月が博紀たちのところへ戻って来た。
「お前、女子たちと楽しそうに話してたな」
 博紀の言い方には少し棘があった。
「ああ、楽しかったよ。女子のみんなも楽しかったってさ」
「なんだ、お前。自慢か?」
「何言ってんだ、博紀。東大寺が楽しかったって話だろ?」
「ちゃんと略さずに言えよ。紛らわしい」
 皐月は博紀の嫉妬に気付き、わざと話の流れを捻じ曲げた。今日は晴香の様子がおかしかった。博紀と何かあったのか、ずっと気になっていた。
「なあ、お前って松井と何かあった?」
「何かって、何だよ」
「だってお前ら、大仏殿を出てからここまで全然話していないじゃん。喧嘩でもしたのかなって思うだろ」
 晴香は博紀と写真に写ることを避けていた。博紀のファンクラブの会長で、何でも博紀を第一に考えていた晴香とは思えない態度の変わりようだった。
「いや……本当に何もないんだって。皐月の言う通り、俺も松井さんの雰囲気がいつもと違うなって思ってた」
 皐月には博紀が嘘を言っているようには見えなかった。博紀の感じている違和感や不安感も伝わって来た。
「昨日はどうだった?」
「別に普通に今までと同じように話してたよ」
「そうか……。お前から話しかけてみたらいいんじゃないの?」
「俺はお前みたいに軽く女子と話ができないんだよ」
 博紀はファンクラブの女子からはよく話しかけられるが、自分から女子に話しかけるところを、用事を頼むこと以外で見たことがない。
「藤城は女と喋り過ぎなんだよ」
皐月こーげつは僕たちと話しているより、女子と話している時の方が楽しそうだもんな」
 茂之と秀真まで博紀の話にのっかって皐月の悪口を言い始めた。茂之はともかく、秀真にまで女子のことで不満をぶつけられるとは思わなかった。
「委員長って女好きなんだ。いやらしい」
 背後から声がかかり、驚いて振り向いた。すると、そこには水野真帆みずのまほが息を切らせて立っていた。
「あれっ? 水野さん、なんでそんなところにいるの?」
「ちょっとお花を摘んでたの。やっと追いついた」
 皐月たちはちょうど南大門の石段を上るところだった。この辺りは鹿が気ままに歩きまわっていた。
「女子のことは全員チェックしたつもりなんだけどな……。水野さんのこと、気付かなかった」
「どうせ可愛い子のことしか見てなかったでしょ?」
「そんなことないよ。もしそうだったら、俺は真っ先に一番可愛い水野さんを探すよ」
 チャラい男だと思われているのなら、その通りに演じてやれと、皐月は真帆をからかった。
「そういう軽薄なことを言ってると、あそこにいる怖い鬼に怒られちゃうよ」
 真帆の指差したところに江嶋華鈴が手を振って立っていた。笑顔の可愛い鬼だ。真帆も華鈴に手を振り返していた。
「今の話、会長には黙っていてあげるから」
 真帆は華鈴に向かって駆け出した。二人は南大門で待ち合わせをしていたのだろう。
「藤城~。お前、女たらしだな~。よくそんな恥ずかしいこと言えるな」
茂之しげは俺を見習った方がいいな。お前は純情すぎるんだよ」
皐月こーげつがひど過ぎるんだよ。栗林さんに言い付けちゃおうかな」
「真理は俺のこういう性格のこと知ってるからノーダメージ」
「じゃあ筒井さんに言おうかな。泣いちゃうぞ、あの子」
 博紀は残酷なことを言う。皐月は博紀にこんな面があることを初めて知った。
「筒井はやめておけよ」
「わかってるって。そんなこと言うわけねーだろ、バカ」
 皐月たち男子4人は南大門をくぐって、バスの停まっているところまで急いだ。集合時間の10時40分まで、あと3分しか残っていない。みんなで「やべー」と言いながら走った。
 駐車場の入口まで来ると、公衆トイレから稲荷小学校の児童たちが続々と出てきた。これで集合時間に遅れていないことを確信し、皐月たちはみんな緊張が解けた。
「あ~あ。東大寺が終わっちゃった」
 思わず出た皐月の言葉に博紀と茂之が頷いた。皐月は秀真以外の男の友達とお寺を見るのも悪くないと思った。


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