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近現代文化の諸問題 第4回 都市空間の変貌~田山花袋『東京の三十年』~

 今回取り上げるのは、夏目漱石よりは4歳年下、島崎藤村の一歳年上の世代にあたる田山花袋という作家です。
 花袋といえば、文学史上、『蒲団』や『田舎教師』を書いた自然主義作家として知られています。
 花袋は明治4年(1872)、現在の群馬県館林市に生まれました。
 父親は警視庁邏卒という、今でいう警察官となり、田山一家も上京することになります。
 ところが父は明治十年、あの西南戦争に従軍して、熊本で戦死してしまいます。再び田山家は群馬に戻ることになるのです。
 10代の花袋は、漢詩の他、「桂園派」という古今調の和歌を学びました。20代の時には、共同詩集『抒情詩』に「我が影」と題した詩編を発表。藤村のように恋愛を歌った新体詩も試みています。
 そんな花袋の近代文学者としての出発点は、明治23年に、あの『金色夜叉』で知られる尾崎紅葉に弟子入りしたことでした。
 「近代文学」といっても、紅葉の作品は、「最後の江戸文学」とも称されるように、近世からの戯作の影響の強い作風でした。
 そうした中、明治29年に国木田独歩や島崎藤村と出会った花袋は、モーパッサンをはじめとするフランス文学の新しい潮流を取り入れます。
 それが小説としてのデビュー作となった『重右衛門の最後』です。こうして花袋は独歩や藤村らとともに自然主義の騎手として頭角を現しはじめるのです。
 その頃から、今でも日記帳で有名な博文館という出版社に勤めはじめ、校正の仕事に従事。明治三十七年に日露戦争が始まると、従軍記者としても活躍します。
 
 自然主義というと、もしかすると植物や環境にまつわる事象を思い浮かべる人もいるかも知れません。しかし、ここでいう“Naturalism”とは、19世紀以来、フランスを中心にヨーロッパでもてはやされていたリアリズムによる文学のことです。
 古来「物語」といえば一種の叙事詩、すなわち韻文で書かれることが一般的でした。
 例えばあの『平家物語』にしても、元々は琵琶法師に語れたせいか、ポエムのような一定のリズムをもっています。
 「小説」は飽くまで新聞や論文などの報告文と同様、純粋な「散文」によって書かれたストーリーということで、従来の物語文学とは区別されていたのです。
 今でもビジネス文書や学校で提出するレポートなどは、一種の「実用文」で、散文詩のような美文体で書かれることはまずないと思います。
 小説は、そうした新聞記事やレポートのような実用文で書かれたストーリー作品ということで、当時としては大変新しい文学だったのです。
  そのため文学者には詩人としての音楽性よりは、新聞記者のような客観的な観察力で文章を構成する力が求められました。
  産業革命の発展により、当時の市民社会では、「科学」に対して、嘗ての宗教に代わるほどの絶大な信頼が寄せられるようになりました。それがやがて、文学作品にも求められるようになったのです。
 代表的な自然主義文学の作品としては、『ボヴァリー夫人』を書いたフローベル、あるいは『女の一生』 や『脂肪の塊』で知られるモーパッサンなどのフランス人作家が挙げられます。
 ところがその自然主義文学が明治中葉に日本に導入されると、「事実をそのまま描くことがリアリズムにつながる」と誤解され、西洋から新しく渡来した文学として、若い作家志望者に新鮮に受け容れられるようになっていくのです。
 結局文学者にとって「事実」とは、作家としての自分の体験を描くことにつながっていきました。
そこから作者が自分の生活を克明に描くという“私小説”という日本特有の作品形態が生まれることになります。
 国木田独歩、島崎藤村といった作家たちが、自然主義の作品で知られていますが、自分の家に弟子入りした若い女性への思慕を描いた『蒲団』に始まる田山花袋の作品群は、まさに典型的な「私小説」の部類に入るものです。
 文学史で登場する近代文学の名作と呼ばれる作品の殆どが、作者が自分自身の実体験をモデルにした自伝的小説が多いことに気づかされます。
 現在でもしばしば、フィクションよりは、著者自身の〝壮絶人生〟を描いたノンフィクションがベストセラーになることはよくあります。
 明治の文学者は、現代ほど、フィクションとノンフィクションの相違について意識することはなかったと思われます。それでも当時の自然主義作家たちが、フランス文学経由で取り入れた「私小説」の伝統は、それだけでも日本の近代文学史が語れるほど、大きな影響力をもつことになりました。

 そんな自然主義作家の代表格とされる田山花袋ですが、関東大震災より6年前の大正6年、『東京の三十年』という随想録を上梓しています。
 これは花袋個人の回想録でありながら、30年住み続けた東京市街の変遷を辿る上でも、貴重な証言録にもなっています。
 例えば、その中の「東京の発展」という一章では、「主として、電車の交叉するところ、客の乗降の多いところ、そういう箇所が、今迄の繁華を奪うようになって、市街の状態が一変した」と書かれています。
 ここでは、具体的に銀座や神田、上野の各地名を挙げて、花袋が住み始めた明治14年頃の東京と、大正時代の市街地の様子との比較が試みられているのです。

 花袋が東京に来た当時、東京府庁は土橋の中にあり、「高い火見櫓、大きな乳(鋲)のついた門、なまこじっくいの塀」などが並んで、「まだ江戸の昔の空気が処々に渦を巻いていた」と振り返っています。
 現在、東京駅がある丸の内付近についても、「いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、寧ろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」という印象だったのです。
 ところがそれから30年、大正半ばになると、大きな変貌を見せ始めます。
「今は濠の四周を軽快な電車が走り、自動車が飛び、おりおりは飛行機までやって来た」というのです。これなどは現在の東京の景色と比べても、大きな差がないようにも感じられます。

 一方、下町、特に日本橋の奥の方にはまだ江戸の町の名残があり、「親父橋、思案橋附近、横山町あたり、そこらに行くと、土蔵が連って並んでいたり、大きな問屋があったりして、何となく三百年の江戸の繁華の跡を見るような気がする」とまで述べています。
 日本橋附近が「下町」というのは現代の感覚では違和感があるかもしれませんが、当時は今の中央区、千代田区東部は、嘗て「町人地」といわれた本来の下町低地だったのです。
 一方、「山の手」とよばれる武蔵野台地は、江戸時代「武家地」と呼ばれ、現在のまさに山手線の内側の中央部にある文京区、千代田区西部、新宿区東部、港区などがそれにあたります。
 明治以降は嘗て大名屋敷が並んだその場所に、国会議事堂や各国の大使館が置かれ、官吏、上級軍人、資本家、外国人らが住み始めますが、下町は相変わらず、商人や職人たちが住み続けていました(青春出版社『歴史で読み解く東京の地理』他)。

 さて、こうした江戸の名残を大きく一掃させたのが関東大震災でした。
 その翌年の大正13年4月に刊行された『東京震災記』では、震災から1年の東京の様子を、『東京の三十年』よりも、さらに事細かく、臨場感溢れる文章で、当時の目を覆いたくなるような凄惨な状況を再現しています。
 大地震の瞬間について花袋は、「ゴオという音が南の方から響いて来た」と書き綴っています。何やら不気味なものが到来する前兆のような一瞬が伝わってきます。

「それは何とも言われない光景であった。あたりはしんとした。世界の終りでもなければ容易に見られまいと思われるような寂寞が、沈黙が一時あたりを領した」。

 この一節を読んで、東日本大震災直後の何とも言えないような不気味な静寂を思い起こす人もいるかもしれません。
 ひとりの自然主義作家として、これまで写実的な描写を得意としてきた花袋ですが、この数行のみ何か形而下の世界観を超えた、この世の終りもいうべき戦慄的な瞬間を、当事者ならではの視点で捉えているのです。

 二度目の大きな揺れでは、ガラガラと凄まじい音が聞こえ、隣の二階が潰れたかと思いきや、「瓦のすさましく落ち、壁の全く振い落される響き」であることを確かめます。
 それでもしばらくすると落ち着き、信じられないかもしれませんが、茶を飲んだり、家の中を片付けようとする余裕まであったそうです。
 ところが「これくらいですめば、そう大して大地震というほどのこともない…」と安堵している間に、とんでもない事態が起こっていることに気づきます。

「東京の市街の方では、あの大きな火災が起り、あの凄しい火の旋風が捲き上り、何処へ行っても全く火で、どうしても遁れることが出来ずに、敢なく焼け死んだものが数万の上にのぼるというような悲惨事が起こっていたのであった」。

 まさに関東大震災の死者の55%にあたる、約3万8000人もの犠牲者を出した火災旋風の様子です。

 さらに3時過ぎになると、「白くもくもくと巴渦(うず)を巻いた地震雲が、郊外の木立の中に住んでいる私達の眼にもはっきり映って来た」と、当日の地震雲の様子をありありと描出しています。
 今となっては信じられないかも知れませんが、その頃東京では、日暮里より西が「郊外」と呼ばれたいたようです。当時新宿に住んでいた花袋にとって、不気味な地震雲でさえ、まだ他人事だった印象が率直に綴られています。

 しかし、信濃町から四谷方面まで歩いてみると、「無政府、無警察と言ったような状態が一種不思議な気分」が花袋を襲います。そこは道の両側から線路、公園の騎の中に至るまで、「避難民という避難民が殆ど一杯に満たされていた」というのです。

 さらに大きな邸宅や富豪の住宅が沢山あった九段下周辺では、「何も彼も皆な同じように焼け尽くして、灰燼ばかりがあたりに満ちた」と描写しています。
 これも震災以前の東京の景色を知悉していた作家ならではの視点といえるでしょう。

 特に大きな犠牲者を出したのは、今の墨田区の両国付近にあった旧陸軍被服厰跡地でした。
 当時その場所には「避難所」として多くの被災者が集まっていたのですが、その後の一大火焔旋風によって、推定でも約4万人もの焼死者を出してしまったといわれております。
 江戸東京博物館の少し北に位置するこの場所には、現在は東京都慰霊堂として、10万5000人にも及ぶ東京大空襲の犠牲者とともに身元がわからない人々の遺骨が納められ、敷地内では、震災と戦災の資料が展示された復興記念館が併設されています。

 『東京の三十年』執筆当時、日本橋付近にはまだいくらかは残っていた江戸の景色も、花袋はこの大災害を経て、すっかり喪失されていることに気づきます。
 そうした中、花袋は弟との対話の中で以下のように漏らします。

「今までは、東京と言っても、江戸趣味や江戸気分がまだ雑然としてその間に残っていて、完全に「東京」というものになることが出来なかったが、今度は、今度こそは、初めて新しい、純乎とした「東京」を打建てることが出来るかも知れないね…」。

 そして、以下のような言葉で結ばれるのです。

「この大破壊の結果として、今度こそは本当にこのあたりが立派なものになって行くであろう。一方は日本橋に、一方は京橋に、更に他の一方は銀座へと接続して行くようになるだろう。その時こそ、始めて、外国の都会に比べても決して恥かしくないような都会の中心が出来るだろう。それこそ全く純粋な東京―江戸趣味などの少しも雑っていない純粋な東京が蜃気楼のようになって此処にあらわれて来るだろう」。

 これが後世の歴史家によって書かれたものではなく、震災からわずか1年ばかりを経た、同時代の作家によって描かれていることに、田山花袋の文明史家として一面までもが垣間見られる気が致します。

 一方花袋は、次のような詩も歌い上げています。

「焼け残った撤水井から、滝津瀬のように落ちる清水、お前は、時の間に潰れて、やけた、都会の「廃墟」の中から、尽きずに流れ出して来る/新しい生命ではないか」。

  嘗ては新体詩人でもあった彼は、若き日の詩心を失ってなかったわけですね。
 幸い直接自分の周辺で、犠牲者を出すことのなかった花袋は、いくら同時代で東京の被災を目の当たりしているとはいえ、「傍観者」の視点から免れているとは言いがたい面もあります。
 しかしながら、明治維新以降、初めて首都となった東京の地で、焼け跡という未曾有の大災害に直面した文学者として、わずかながらも希望を見出そうとしている姿勢が認められそうです。元々作家以前に抒情詩人であった花袋の詩情が、思いがけず湧出した場面にも見受けられます。

 『東京震災記』はこうした花袋の文明史家ともいえる大局的な鳥瞰と、詩人としての感受性が交錯しながら、展開していきます。
 これまで自然主義作家としてリアリズム描写を手がけた手法で、江戸から東京への時代を客観的に観察してきた彼の手腕が、最大限に発揮された貴重な証言録になっているです。
 当時マスメディアといえば専ら新聞が中心で、テレビはおろか、ラジオ放送も震災から2年後の大正14年に開始されたばかりでした。そうしたことを踏まえれば、こうした文学者のルポルタージュが、人々にとっていかに重要な位置を占めていたのか、改めて感得できるのではないでしょうか。

※以下、引用

  田山花袋『東京の三十年』から「東京の発展」(岩波文庫、261頁~)

>この頃の東京の発展は目覚しいものであった。変遷の空気の中に浸っていては、それが目に立ってそれとわからぬけれど、田舎からでも来て、ひょっとその真中に置いて行かれれば、何処がどうかさっぱりわからなくなった相違なかった。市区改正は既に完成され、大通りの路(みち)はひろく拡げられ、電車は到るところに、そのうねるような電線の音を漲(みなぎ)らせた。(中略)
 電車が出来たために、市の繁華の場所も、次第に変わって行った。郊外に住む人も、買物をするには、その近所で買わずに、電車で、市街の中心へと出て行った。従って三越、白木屋、松屋などという呉服店も大きな構えとなった。
 主として、電車の交叉するところ、客の乗降の多いところ、そういう箇所が今までの繁華を奪うようになって、市街の状態が一変した。(中略)
 交通の便につれて、住民の種類の変って行くのは、むしろ本能的、無意識的と言っても好い位で、注意して見ると、其処に一番烈しい変遷の渦を巻いているのを見ることができた。
 大通も殆どすべて江戸時代の面影を失ってしまった。破壊と建設との縮図は、一時東京の市街に不思議な、不統一な光景を示したが、今ではそれも一段落ついたように、不統一のままに落付いてしまった。(中略)
 私が東京に来た頃には、東京府庁は土橋の中にあった。その時分には、さすがに、まだ江戸の昔の空気が処々に渦を巻いていて、高い火見櫓(ひのみやぐら)、大きな乳(鋲)のついた門、なまこじっくい塀などが並んだ。(中略)
 今は濠(丸の内)の四周を軽快な電車が走り、自動車が飛び、おりおりは飛行機までやって来た。今ではさびしさとか陰気とかいう分子は影も形も見せなくなってしまった。
 でも、下町、ことに日本橋の奥の方に行くと、今でも江戸の町の空気の残っているところがないでもない。(中略)それから下谷の竹町、御徒町の裏通りにも、こんなところがあるか思われるような、二、三十年以上も時勢に後れた街の光景を見ることがあった。そこには江戸時代と言うよりも、むしろ明治十五、六年代の街の縮図を私には思わせる。
 概して、東京の外廓(外堀)は、新しく開けたものだ。新開町だ。勤め人や学生の住むところだ。そこには昔の古い空気は残っていない。江戸の空気は、文明に圧されて、市の真中に、むしろ底の方に、微かに残っているのを見るばかりである。
 こうして時は移って行く。あらゆる人物も、あらゆる事業も、あらゆる悲劇も、すべてその中へと一つ一つ永久に消えて行ってしまうのである。そして新しい時代と新しい人間とが、同じ地上を自分一人の生活のような顔をして歩いて行くのである。五十年後は?百年後は?<

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