U被告を死刑にしてはならない

相模原障害者殺傷事件 検察が死刑求刑 植松聖被告
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200217/k10012288741000.html

昨日私は、出先で知りました。
予想通りとはいえ、がく然としました。
U被告は、死刑になってはいけないと、私は考えます。

「あなたを絶対に許さない」美帆さんの母親 陳述全文
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200217/k10012288871000.html

これも読みました。しかし、私は「亡き娘を愛する母親」とは正直、素直にそうだとは思えませんでした。

「家庭の事情で中学2年生の時から児童寮で生活していました。毎月会いに行くのが楽しみでした。仕事も娘のためと思うと頑張れました。多いときには4つの仕事をかけもちでしていました」。

書かれてはいませんが、おそらくは美帆さんのお母さんはシングルマザーだったのでしょう。父親の記述がないことからも、そう推測されます(間違っているかもしれません)。「多いときには4つの仕事をかけもちでしていました」とおっしゃる生活では、美帆さんを児童寮に入れてしまわれるのは、苦渋の決断だったに違いありません。

しかし、だったらなぜ、美帆さんには1人暮らしやグループホームといった選択肢を思いつけなかったのでしょう。なぜ、自立生活している障害者たちにつなげられなかったのでしょうか。

私は、美帆さんの母親だけを責めているのではありません。そのような情報は、「ふつうに」暮らす親御さんには届かないのです。そして、福祉制度が使える年齢になっても、知的障害のある人たちが、親元でも入所施設でもなく地域で生活していくための制度も人手もノウハウも皆無に近いのです。だから、美帆さんの母親の選択が責められるのであれば、そして私は責められてよいと思っているのですが、同時に私たち自身も、美帆さんが地域で生き生きと生活できなかったことに関して責められるべきだし、負い目を感じるべきだと思うのです。

「美帆がいなくなったショックで私たち家族は、それまで当たり前にしていたことが何一つできなくなりました。私たち家族、美帆を愛してくれた周りの人たちは皆、あなたに殺されたのです。未来を全て奪われたのです。美帆を返して下さい」。

美帆さんの母親のこうした気持ちは、痛いほどわかります。それに伴う、U被告への怒り、憤り、憎しみ、そして恨みも、よくわかります。

ただ、次のような発言は、いかがなものでしょうか。

「あなたの言葉をかりれば、あなたが不幸を作る人で、生産性のない生きている価値のない人間です。あなたこそが税金を無駄に使っています。あなたはいらない人間なのだから。あなたがいなくなれば、あなたに使っている税金を本当に困っている人にまわせます」。

皮肉であったとしても、どんなに憎くても、それだけは絶対に言ってはならなかったことです。これを言えば、あなたもU被告と同罪です。もしくは、これがU被告の思うツボです。U被告もまた、「いらない人間」などと言われてはダメなのです。

被害者(家族)が、態度として加害者より倫理的に下回ってはダメなのです。エドワード・サイードは、「故郷」であるパレスチナがイスラエルの空爆によって破壊されているさなかにあっても、投石という手段での抵抗を試みました。

「他人が勝手に奪っていい命など1つもないということを伝えます」。

だったら、U被告も生きる権利があるし、生きさせなきゃいけないのです。生きているだけで悔しいという気持ちもわからなくはないですが、生きさせて、自分のやったことを悔い改めさせるべきなのです。

それでは、「社会的な合意」があれば、U被告を死刑にしてもよいのでしょうか? これも違います。なぜなら、U被告自身が、「意思疎通できない者の安楽死は社会的合意が得られる」と考えていて、彼はそれを実行したからです。そして、ネットでは、彼に対し「やり方は悪いが、同意はできる」といった書き込みが多数ありました。尊厳死の法制化に関する議論もあります。障害者のような「いらない人間」を殺すことは、「社会的な合意」があると言える、その一歩手前だと私は思うのです。U被告の死刑を認めることは、翻ってU被告の言動を認めてしまうことになるのです。

こんな意見もあります。

「この期に及んで死刑反対とか言うてる奴頭沸いてるやろ。
コイツはもはや人間ではない。
一刻も早く死刑執行してもらいたい」。

https://twitter.com/konikoni0612/status/1229336793478123522

U被告も、「コイツはもはや人間ではない」と思って知的障害者を殺しました。それと同じです。人間が他の人間にたいして「コイツはもはや人間ではない(から殺してもよい)」と思ってはいけないのです。言い換えれば、生存権は不可触であって、誰かの都合や線引きによって奪われることがあっては絶対にならないのです。「U被告なら殺してよい」という考えと、「障害者なら殺してよい」という考えとは、つながっていると言えるのです。

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