神様は等しく俺にも命をくれたが それだけでそれ以外何もしてはくれない

メンタリストの方のDAIGOの発言がどうと言う前にまず自分を省みた。

自分にとって必要の無い命の価値、これは確かに大切なものと比べれば軽いが死のうが消えようがどうでも良いかと言われるとそうではない。
例えば虐げられた弱者が回り回って自分の人生を脅かすとかいつ自分が弱者に回る時が来るかとかそんな合理的な事ではなくて、そもそも知らない他人だろうがなるべく健やかに幸せに生きていてほしいという考えである。
自分や家族や友人は勿論、それ以外の他人ですら不幸で居るよりはなるべく幸せでいてほしい。
ただこれだけの事だ。
しかし現実はそうもいかない、誰かの幸せの下には誰かの不幸せがあり、誰かの不幸の上に誰かの幸福が成り立っている。
そこで思うのはこのシステムへの疑問だ。
世界の真理とは本当にゼロサムなの
だろうか?
これは他人と比べる限りはそうなのであろうと思う。
情報社会ではそれ以前よりも多くのものが相対化され幸も不幸も可視化されているがそれにもいい加減疲れてきた。
比べる限り俺はいつまでも幸せにはなれない。
自分も他人もあるがままに認めて、俺は俺だしお前はお前だ。
俺と違うお前らが好きだし嫌いだ俺と似てるお前らも好きだし嫌いだ。
なるべく皆んな笑って怒って泣いてそれで幸せでいてほしいよ。
というのが省みた考え方だった。


彼の発言を合理的に否定する事は難しい事ではないが、それは基本的には彼の考え方と変わらぬものであると思っている。
切り捨てられる弱者の存在意義を合理的に考える事は大切だが、それはどこまで行っても弱肉強食の理からは外れずに強者の理論である。
そしてそれが間違ってると言えるほどに俺は正しくもない。

ゼロサムの椅子に座れなくても俺はその辺で寝っ転がってる。

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