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【格闘技】思い出のファイター列伝『テキサスの暴れ馬』ヒース・ヒーリング

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193cm 113kg

通算戦績 28勝16敗(23KO/一本)1無効試合

アメリカテキサス州出身

出身地から安直につけたであろう異名もしっくりくる、超絶アグレッシブファイター。KO/1本率は驚異の82%。バックステージの映像を見る限り、本人はこの「暴れ馬」を気に入っていたようだ。歳をとってからは体が完全なるガチムチと化したが、若い頃はもっとシャープで男前だった。この風貌で前職はプログラマーらしい。

ヒーリングは、玉石混交のPRIDE黎明期に「全米サンボ選手権優勝」という凄いんだかなんだかよく分からない実績を引っ提げて参戦してきた。子供ながらに(アメリカにサンボやってる奴そんなにいないだろ・・)と思ってその実力を訝しんでいた。


しかし、一度試合を見て完全に心を掴まれた。


毎回髪形と色を変えるというデニス・ロッドマン的なパフォーマンスもさることながら、その超攻撃的なファイトスタイルは当時の他のヘビー級ファイターとは一線を画したものだった。

PRIDE初期のヘビー級の試合は正直クソつまらなかった。というのも、あの頃はレスリング系の選手が幅を利かせている時代で、そのレスラー達の戦法の多くが「上にのしかかって相手を無力化する」という戦法だったからだ。

その膠着状態をいとわない、"しょっぱい"ファイトスタイルは、ファンから「塩漬け」と揶揄されていた。

当時のPRIDEヘビー級には本場アメリカでは通用しなくなった年老いたかつてトップレスラー、つまり"年季の入った漬物石"がずらりと顔を揃えていた。

欧米には漬物があまりないから『漬物石』の意味が分からなかったんだろうか。彼らは批判もどこ吹く風、『漬物石』呼ばわりされても尚、試合でせっせと塩漬けを作り続けていた。

ヒーリングは試合が始まると大体レスラー達に押し倒され、例によってしばらく漬け込まれる。大半の選手はそこで疲労困憊なのだが、若い暴れ馬は違った。

耐えて耐えて、客席も静まり、ヤジが飛ぶようになったラウンドの後半でなんとか立ち上がる。そこで観客とヒーリングのボルテージはMAXに跳ね上がる。そしてブチギレながらスタミナの切れたおっさんレスラーを瞬く間にボコボコにするのだ。

圧倒的カタルシス。まるで映画を見ているような爽快感が彼の試合にはあった。アントニオ猪木が提唱した相手の力を8、9まで引き出し10の力で仕留めるいわゆる『風車の理論』を一番実践していたのはヒーリングかもしれない。




2001年のPRIDEヘビー級王座決定戦は、敗れはしたもののノゲイラの変幻自在の寝技をヒーリングがことごとく跳ね返し、見事に両者が"スイングした"名試合だった。

が、結果的にはその試合がヒーリングの最高到達点だった。ノゲイラの後はヒョードル、ミルコといわゆる「ヘビー級3強」に立て続けに負けた。トップオブトップには敵わない。その奥ゆかしさがまたいいじゃない。




1無効試合とあるが、これは中尾芳広戦の試合前、リング中央でのにらみ合いの時に中尾にキスをされ、「I'm not gay‼」と激高して試合前なのにその場でKOしてしまうという『逆有森旦那』とも言うべき事件の事だ。

当初はヒーリングの反則負けだったが、南部の保守的な男は猛抗議。「まあ、キスする方もどうかしてるだろ」ということで無効試合になった。

その後中尾選手は山本“KID”徳郁よろしく、中尾“KISS”芳広と改名してキャリアを続けた。




あまり覚えてる人はいないかもしれないが、現役バリバリトップファイターだった2003年に『ファンタジーファイトWRESTLE-1』というプロレス興行に出たことがある。

馳浩&小島聡 VS.ヒース・ヒーリング&テリーファンク 

というとんでもないマッチメイクだった。テキサスというだけで超絶大先輩と組まされて初めてのプロレスに出たわけだが、馳にジャイアントスイングかまされたり、ヘタクソなスピニングトーホールドをやったり、本職三人相手に概ね頑張っていたように記憶している。なんかさ、そんなところもいいじゃない。

今はほぼ引退しているらしい。一回彼女らしき人とインスタライブをしているのを見た。「初見です!ハリトーノフの事まだ怖いですか?」と日本語でコメントしたが読まれなかった。


コーヒーが飲みたいです。