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飛んで火に入る夏の虫

ようやく梅雨も明けて、すっかり夏。

ベランダの鉢に新しく日々草を植えた。そんなに咲かなくても…と思うほど毎日の様に違う花が次々咲く。一夏ずっとこの調子らしいので楽しみだ。


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その昔、夏の日本を訪れた外国人がセミが鳴いている木を指して「あの音の鳴る木を持ち帰りたい!」と言ったとか、言わなかったとか。

聞くところによると、外国の人は日本の夏の風物詩でもあるあのセミの鳴き声が、何の音が分からないらしい。ただの騒音ととる人も少なくないとか。

あれを我々の様に"ノイズ"ではなく"虫の鳴き声"と認識できるのは、幼い頃からの教育の賜物なのだ。我々がセミの事をしっかりセミと認識しているから、あの音が虫の鳴き声だと理解できている。確かに、何も知らなければただうるせえだけだよな。




「なんだよこの音…」と思っていた不快な音も、出所が掴めると納得できる事がある。

子供の頃、家族で蟹を食べに行った。案内された座敷は、時折どったん!ばったん!とけたたましい音がする部屋だった。

あまり定期的に音が鳴るので、気になって一体何の音なのか店員さんに尋ねたところ、店の入り口の上にあるカニの模型のハサミ部分が上下する音だと言われた。

まあ、その店員はしばいたのだが、音の正体が分かるとさほど不快ではなくなった。




セミは一週間懸命に泣いて力尽き、死んでその辺に転がる。子供の頃は、そのセミの死骸が怖かった。道に落ちているとかなり大回りで避けて通った。おじいちゃんがセミを平気で捕まえるのを見てびっくりした。

それから何十年も経つので、セミの死骸にも慣れた。いや、慣れたんじゃない。飽きたんだ。ああ、また死んでるわってなもんだ。もう見飽きた。

今思えば、おじいちゃんくらいになるともう飽きも通り過ぎていたんだろう。




この前、夜道を徘徊していると

「あの...すみません...」

と急に声をかけられた。

声の方に目をやると、若い女の子が立っていた。女の子は

「虫...倒せますか...?」

と聞いてきた。

(虫か、、サイズによるな、、)と思いながらも、女の子に聞かれたら「はい」と答えるより他ない。

事情を尋ねると、自分の家のドアにくっついている虫を退治してほしいとの事だった。

僕は彼女の表情で全てを察した。

恐らく彼女は北関東から東京の大学に進学し、そのまま都内の企業に就職。ここのところリモートワークばかりだったけど、最近は出社できるようになった。そんな日の仕事終わり、仲のいい先輩と密を避けて恋話なんかしながらご飯を食べて帰宅。よーし、あとはシャワー浴びて檸檬堂でも飲みながらYouTube観て寝ようと思っていた。しかし、玄関のドアに虫がひっついている。退治するのは怖いし、かと言ってドアを強引開けて家の中に侵入されたら最悪!どうしよう…あっ、向こうから不審ではない男が!頼んでみっか…といった具合だろう。

彼女はマンションのオートロックを開けて、僕に部屋番号を教えて送り込んだ。

指定された部屋のドアには何も付いていなかったが、そのドアの向かいの壁に親指大のゴキブリが張り付いていた。僕はゴキブリなんてもう飽きているので、履いていた靴を脱ぎ引っ叩いた。ゴキブリはマンションの外側の植え込みに落下した。

仕事が終わった事を告げると、女の子は安堵した表情になったが、それも束の間。息つく暇もなく彼女は僕をマンションの出口へと誘導し始めた。

よく考えれば、ゴキブリがいなくなった今、自分の家の前には見知らぬ男が立っているだけだ。冷静になると、ゴキブリよりそっちの方が怖い。

僕は案内されるがまま、そそくさとマンションを出た。「まったく…誰がゴキブリなんだか、分かりゃしないぜ…」と呟き空を見上げると、月が優しく見下ろしていた。

…は?

コーヒーが飲みたいです。