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生きる力と生き抜くチカラ、非認知能力が求められる時代に大人はどうするの?

今回はいつもスキしてくださる冒険者さんという方の記事を読んで、インスパイアされたことをネタにして書いてみたいと思います。

ネタにしたけどタネの話もあるのでお楽しみにして、最後まで読んでくだされば嬉しいです。(^^ゞ

まず、タイトルに付けた「生きるチカラと生き抜くチカラ」の違いについて個人的な見解を言うならば、備えているチカラとそれを更に鍛え磨くチカラの違い。

分かりにくいかもしれないけど、生きるチカラは自然のモノで生き抜くチカラは自分で頑張って身につけなきゃならないチカラということで、どちらも非認知能力ということですね。

非認知能力というのは「数値化できない能力のこと」と理解してください。

要するに非認知能力である生きるチカラよりもっとアクティブな非認知能力のチカラが、生き抜くチカラなんだと受け止めていただきたいわけですよ。

あくまでも個人的な見解ですよ、異論があってもとりあえずそういうことで話を進めますね。(^^ゞ


実は文部科学省(当時は文部省)の中央教育審議会が出した「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する答申のなかにあるのが下記の理念なんだけど、引用してみますね。

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など自己教育力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称することとし、知、徳、体、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

この理念を受けて、その後の学習指導要領が改訂されるごとに、総合的な学習の時間が創設されたり、ゆとりの中での特色ある教育によって生きる力を育む方針が示されたり、より一層生きる力を育む方針になったわけですね。

2011年(平成23年)以降に実施された学習指導要領になると、ゆとり教育でも無く詰め込み教育でも無く、生きる力をより一層育むという方針になったんですよ。

教育界の中ではこの生きる力を育む教育方針の例として、生きる力とは他人のために何かをすること、与えられるのではなく与えることの意味を知ることにある、とされていることを指摘して批判する学者もいるのよね。

この指摘によると、生きる力を育んだ結果、やりがい搾取に繋がりかねないということらしいけど、正当な報酬の代わりにやりがいを押しつけるブラック企業を蔓延させかねないという危惧からでているみたいです。

まぁ何をやっても、切り口や視点・視座をどこに置くかで、導き出せる見解というのは意図的に操作できるもんだと思うけどね。


さて、文部科学省の理念で言ってる生きる力も大事であることは間違いないし、子どもの教育を考えるとそうあって欲しいと思うけど、もっと重要なのが我々オトナの生きる力なんですよ。

それを単に生きるだけの力じゃ無く、生き抜ける力に昇華させる必要があると思うんですよ、これってすごく大事だと思うんですよね。

子どもがいくら生きる力を育んでも、大人が変わり映えしない価値観や教育方針のままだったら、大人になる過程で潰されちゃうと思うんですよ、かえってこじらせた歪な社会人を生み出すことになるかも知れんのよね。(´д`;)

だから先決問題は、オトナの生きる力・生き抜く力の養成にあるんじゃないかと考えているんですよ、個人的な見解だけど。

子どもの教育については「何を学ぶのか」よりも「どのように学ぶのか」をもっと具体的にするべきじゃ無いか、なんてことを現場の教育に携わっておられるこの方もおっしゃっていますね。

非認知能力が求められる時代!学校教育に頼らない親ができるたった1つの方法!というこの記事を読んだことで触発されたんですよね。

筆者の方は予備校講師として教育現場の最前線で働きながら、家庭でもご自分のお子さんを見守っておられるわけで、子どものいない私なんかの似非教育観なんかより的を射ている見解を述べておられます。

私がこの記事を読ませていただいて感じたのは、大人も同じで数値化できない能力が、より良い人生にとって子ども以上に必要なんじゃないか、ってことでした。

文部科学省の学習指導要領が改訂されていくに従い、子どもの教育方針もより時代に合ったように練れてくると思うんですが、社会の大半を占めている大人が旧態依然とした価値観・行動指針のままでは、話にならないよね。

なので大人である我々が変わらなきゃダメなんですよ、意識も変えて行動も変える必要があると思うわけですね。

それが自己啓発になって自分の視野を広げたり、柔軟な発想で物事をとらえたり、異なる意見や立場の人とも諍いを起こさず認め合い、同じ場を共有することもできると思うのですよ、和して同ぜずってヤツね。

それに数値化できない能力=非認知能力を高めるっていうのは、まさに人間力を磨き高めるということと同じ事なんですよ。

大人の全員がこの人間力を高めることを意識さえすれば、素晴らしい社会が構築できるんだけど・・・ムリでしょうね。(´д`)

せめて自分だけでも・・・そう考えて行動に移してみようと思う、のよ。(^-^)

なんでも数値化して比較することが、世の弊害となっていることも多いんですよね、偏差値偏向主義もそうだと思うし大学の序列を付けたりするのも変だよね。

東大を首席で卒業するってすごいけど、よう頑張って勉強したんだねっていうねぎらいで大したもんだと思うわけで、頭脳の程度に凄さを感じているわけじゃない。

頭脳の程度を比較し始めたら、活用しているかいないかの僅差しかないからほぼ、どんぐりの背比べ状態であまり変わらんと思う。

違うのは知能や思考といった脳の開発程度が、どの程度進んでいるのかということだと認識していますよ、勝手に。

大根のタネをどの土壌に蒔くのかの違いと思えば分かりやすいけど、同じ資質を持ったタネであっても砂礫の多い痩せた土壌に蒔けば、何本にも枝分かれしたゆがんで不格好な大根になるから売り物にはムリなのよね。

同じタネを肥沃でよく鋤き返された土壌の畑に蒔けば、立派な太くて長い大根が育つので、売り物としての価値もこの大根にはあるんですよ。

商品価値という基準を当てれば、後者のほうが高い価値を持っているけど元々は同じ資質のタネだったことを忘れてはいけません。

私たちもこの大根のタネとおんなじだと考えれば、タネに優劣があるのじゃなくて、育てる環境に優劣があるんだということが、良く理解できると思うのですよね。

人のタネとして育つ環境が、家庭であり学校であり会社などの職場や従事している仕事の職務だったりするわけで、大根のタネと人のタネの大きな違いは、人のタネは育つ環境を自発的に変えることが可能ということだ。

ただ環境に甘えて育つ人のタネになるより、環境そのものを自分で居心地良く変えたり、場合によっては場所まで移動できるのが人のタネのアドバンテージになると思うのですよ。

嘆いてばかりのタネには誰も水や肥料は施さないかも知れないけど、自発的に成長しようと頑張っているタネには、水も肥料も優先的に配分されるチャンスが来るというのが、ありがちなパターンですよね。(^_^)b

ただ、ボーッと生きるだけじゃダメなんですよ。
ちゃんと考えて、生き抜く力を持ったタネに成らなければダメなんですよ。
それが非認知能力が求められる時代に相応しい大人の行動指針ですよね。

そのためにはまず、健康な身体を手に入れることから始めましょう。(^_^)b


ってことで、今回は
生きる力と生き抜くチカラ、非認知能力が求められる時代に大人はどうするの?
というオトナの生き抜くチカラについての話でした。


では!

生きるより 生き抜くチカラ のほほんと。

この記事をわざわざ読んでいただいたご縁に感謝します! これからもクリエーター活動にがんばります!サポートを心の支えとクリエーター活動に活かしますので、よろしかったら応援よろしくお願いします。