中国における新しい普遍性の探求|現代中国の思想を読む③
「言説の権利」をめぐる異議申し立て
中島隆博は『中国哲学史ーー諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中公新書、2022年)の中で現代中国の哲学界における「普遍性論争」について紹介している。簡単にいうと20世紀に入ってから、中国の総合的な国力の向上に伴って、西洋的な普遍概念を相対化し、そのオルタナティブとしての中国的な普遍性についての議論が活発化したということである。例えば「天下」や「王道」といった儒教的な概念の現代的な意義はどこにあるのか、(西洋)哲学における普遍性の概念の行き詰まりを打破できるような思想的な資源はそこにあるのではないかといったことが探求されている。
中島は儒教的な言説を再興し、新たな中国的な普遍を打ち出そうとするそのような傾向を「言説の権利」をめぐる世界的な異議申し立ての一環として捉えようとする。例えば、「アメリカン・ドリーム」に対置される「チャイナ・ドリーム(中国夢)」などがわかりやすい例だろう。
しかし、「言説の権利」を求めるという傾向は哲学の領域に限定されるものではなく、 中国の政治・文化・社会的な言説全体に見られるものであり、さらにウェブという新しいコミュニケーション環境のアーキテクチュアルな規定の下で加速度的に一般化している。ウェブというコミュニケーション空間は北田暁大が定義したように「コンテクストをめぐる闘争」の空間であるというこうを考慮に入れると、中国のウェブ・コミュニケーションのこの二十年の進化はまさに「コンテクストをめぐる闘争」、つまり誰が言説のコンテクストを設定するかという意識を先鋭化させる方向に向かってひたすら走ってきたと見ることができる(この点については前にとある発表で方方の『武漢日記』をめぐる論争という文脈で論じたことがあるが、どの媒体に投稿するか迷っているうちに別の仕事で忙しくなって忘れてしまい、そのままになってしまった)。
前にビリビリという中国のサブカルチャーの中心地で『武漢日記』をめぐる西欧の言説を批判する(弾幕数の最も多い)動画で、「アジェンダ設定 agenda setting」というマスコミ研究の専門概念をあたかも常識的なものとして使っているのを見たことがある。つまり、中国全体が西洋的な言説に対して、「あなたたちの言っていることは普遍的なものではなく、特殊なものであり、文脈依存的なものである。それゆえ一方的に他者に押し付けるのは良くない 」という意識が広く共有されるようになっている。これを見ると普遍性論争の問題意識がいかに広く共有されているかがわかるだろう。
話を哲学に戻そう。
『中国哲学史』はその性格上、あくまで儒教の資源を援用する普遍性の論争に限定して論じている。そこには、現状追認になってしまうのではないか、言い換えれば、中国夢という国家主義的なイデオロギーを追認して終わってしまうのではないかといった批判を向けられても仕方ないような議論が存在している。それは儒教という資源を利用するという文脈においてはその傾向にさらに拍車をかけているように思われる。
しかし、新しい普遍性に対する希求自体にはそれなりの正当性があるのも事実である。というのも、私たちの世界は実際に行き詰まっているからだ。私個人の感覚としては、「言説の権利」をめぐる異議申し立ては、ロシアのウクライナ侵攻を正当化する言説の背景にあるように思われてならないのである。その意味で、そのような行き詰まりを打破するような新しい普遍性の探求自体は正当である。問題はいかにそれを国家主義に回収される危険性を回避するかということになるのではないか。
哲学の分野に限定してみればーーそもそも普遍性とは哲学的な概念なのでこういう限定しなくてもいいがーー、ハイデガー研究者とウィトゲンシュタイン研究者でもある陳嘉映の普遍性に関する議論が大変啓発的なものであり、国家主義へと回収されないような広がりを孕んでいる。また、その新しい普遍性概念の意義を受け止め、さらに展開した日本思想史の研究者である孫歌の議論も重要であり、合わせて紹介したい。さらに、最後に意外なことに日本の哲学者東浩紀の提起した「訂正可能性の哲学」との接続可能性(孫歌の概念で言えば「相似性」)も見えてきた。
「理性」と「経験」は対立していない
まず、陳の言う新しい普遍性概念について見ていこう。以下の議論は陳の著書『説理』(上海文艺出版社,2020年。初版は华夏出版社から2011年に出ている)の第八章を参照している。
彼によれば、これまでの普遍性概念は主に「理性」の普遍性と「経験」の普遍性という対立の中で理解されてきた(理性と経験以外にも、近似的な表現はいくらでもある。例えば、理性と事実、観念と事実、分析と総合、必然と偶然、論理と経験など)。
理性の普遍性とは、簡単に言えば、全てのコンテクストにおいて真となる命題を指していると考えてもらっていい。それに対して後者の経験の普遍性はあくまで特定のコンテクストと範囲内でしか有効性を保てない。前者が存在するとする立場を普遍主義とし、後者のみ存在するとする立場を相対主義と考えることができる。
しかし、よく考えてみれば、普遍主義と相対主義は完全に対立しているわけではない。もし相対主義は単に真理の適用可能性の限界を主張しているのならば、普遍主義と原理的な違いはない。というのも、普遍主義もまた普遍性の適用範囲の限界を認めているからだ。
普遍主義はある真理が全人類に適用できるものだと考えるのに対して、相対主義はその真理は特定の国や民族における全ての人に適用できると考える。つまり、そこにあるのは程度の差でしかない。
この意味において、理性と経験という区分(およびこれに近似した区分)では不十分であることがわかる。それはそもそも本質的な対立を成していないからだ。陳に言わせれば、それは普遍性を思考するに際して障害ですらある。理性と経験は同じ側に立っているという事実をしっかりと認識しておかねばならない。
「相通」の普遍性
それに対して、彼は以下のような普遍性の区分(の可能性)を提示する。
1. 多くのつながりの中の合理的な、理解可能な普遍性(由于交织在多种联系中而具有的合理的、可理解的普遍性)
2. 孤立した、あまねく調べることでしか確かめることのできない普遍性(孤零零的、只能通过周遍查看才能确定的普遍性)
一見してとても理解しにくい区分であるが、彼は具体的な例を挙げて説明している。例えば、「全てのカラスは黒である」という命題について考えてみよう。ここではカラスの色しか言及しておらず、その色は鳥としてのカラスの他の特徴と必然的な連関を成していないという意味で孤立したものである。そして、この命題が真であること、つまりその普遍性を証明するためには、全てのカラスをあまねく調べないと確かめることができない。それをしないと常に「灰色のカラス」の存在可能性によって反駁される可能性に晒されることになる。この普遍性は二番目の普遍性に対応している。
それに対して、「すべてのカラスは卵生である」という命題はどうだろうか。この命題は「すべてのカラスの色は黒である」という命題と同じように、経験的には普遍的であることが認められる。しかし、二つの命題は決して二種類の並列できるような経験的な普遍性ではない。というのも、「すべてのカラスは卵生である」という命題は孤立したものではなく、「翼を持つ」、「両脚を持つ」といったと鳥としての特徴と緊密な関係を持っているからだ。「灰色のカラス」を想像することはできるが、「卵生ではないカラス」を想像することはできない、というより意味をなさない。
したがって、第二の普遍性は「共通点」によって特徴づけられるような普遍性であるのに対して、第一の普遍性は共通点ではなく、個々の特徴が緊密に絡み合った特定の差異の体系の中でしか現れないようなものである。
第二の普遍性は抽象化された特徴に注目し、それが身を置くコンテクスト、つまり体系や意味の連関をすべて捨象した形で主張されている。言い換えれば、それはコンテクストを必要としない。その代わり、すべてのカラスを調べ尽くすことができないのと同じように、その普遍性の証明は現実には難しく、ほぼ不可能と言っていい。
それに対して第一の普遍性は、それを主張することによってわたしたちを特定の、特殊のコンテクストの中に導き入れるように作用する。卵生であることは鳥というカテゴリーに依存し、鳥というカテゴリーは翼や嘴、両脚といった特徴のどれかではなく、それらの連関によって構成される。したがって、卵生という命題はそういった連関またはコンテクストへの通路として機能するのだ。
第二の普遍性は一つの到達点または目標であるのに対して、第一の普遍性は一種の前提または起点である。
陳は第二の普遍性、すなわち我々が普段イメージしているような共通点を探す普遍性を「相同」の普遍性と呼び、私が「通路」としての理解した第一の普遍性を「相通」の普遍性と呼ぶ。後者こそ新しい普遍性の理解へと向かうものだとされる。
翻訳と「平移する普遍性」
陳はこのような新しい普遍性の区別を展開するためにさらに翻訳を例に出す。
例えば、中国語の「书(書、本)」という言葉と英語の「book」という言葉は共通の意味を持つ考えられる。「reading a book」は「读书(読書する)」に対応し、「bookshelves」は「书架(書棚)」に対応するというわけだ。しかしながら、両者は完璧に対応しているわけではない。「书房(書斎)」は「bookroom」ではないし、「book a ticket」は「书张票(チケットを書する)」を意味しない。ここで重要なのは両者が重なる部分の意味は単独で存在しているわけではなく、それのみを指し示すことはできないということである(もちろん実際には日本語と中国語の両方で「書籍」という言葉でその部分を取り出すことができるわけだが、それができない言葉の方が多い。だからあくまで例として考えるべきだろう)。「book」という言葉は英語において他の意味とともに一つの連関をなし、それ自体も英語の他の言葉との関係の中に独特な位置を占めているし、「书(書)」という言葉も中国語において同様である。
この二つの言葉に何か共通のもの、普遍的なものがあるのは確かだが、その部分はあくまでそれぞれの言葉に属している。つまり、二つの言葉の「上」に何か超越的な普遍性があるわけではないということだ。翻訳において母語を理解し、対象言語を理解していれば問題ない。それらに加えて何らかの第三の「普遍的」でより「抽象的」な言語を理解する必要は一切ない。翻訳は二つの言語の間で行われるが、それでも「bookの意味は书(本)である」というふうに帰属先、もしくは特定の立脚点を持つ。中国と英語のどちらかが理解の基準にならざるをえないのだ。
陳は翻訳における普遍性を抽象ではなく、一種の「交通=コミュニケーション」として考える。それは上で述べた「相通」と同じ意味だが、相互に行き来するというニュアンスがより強調されている。実際、二人が会話している場面で、「話が合う」という状態は単に共通点=相同があるからではない。それだけだと二人は全く同じことを確認し合って会話が終わるはずであり、そもそも会話する必要もないはずだ。むしろ、二人は互いに異なった人間でありながら、「相通じる」何かを持ち、それを媒介にして相手の差異と特異性に(陳はこの言葉を使っていないが)「上手く触れる」ことができていると考えた方が遥かに説得的だろう。
コミュニケーションとしての普遍性
ここで陳は翻訳という例からコミュニケーション一般の倫理へと議論を進めていることがわかる。普遍性とは、私たちが共通に持っている何かではなく、むしろ私たちが互いにコミュニケーションを取ることを可能にする前提や媒介であり、それを利用することで相手の世界に入っていくことができる(相通)。それは両者の上に何か超越的な第三者を位置付けることを要求しない。両者間の「平移(平行移動)」があるのみだ。だから、上昇する超越的な普遍性に対して、これを「平行移動する普遍性」と呼ぶことができる。
超越的な第三者を設定すると、そのような移動や交通はむしろ阻害されてしまう。相手の差異体系=コンテクストの中に入ること、それに上手く触れることがもはや必要とされず、両者間の「相同」のものの特定とそれに向かうことが最終的な目的として要求されるため、むしろ相手の差異が抑圧され、否定されてしまうのだ。これは特定のコンテクストから抽象した「共通点」を探す超越的な普遍性はそもそも不可能である上、コミュニケーションを促進するどころかむしろ不可能にしてしまうことがあるということを意味する。
このような認識は更なる重要な政治的な帰結をもたらす。しばしば普遍性の不可能性の主張は直ちに相対主義の謗りを受けてしまうが、上で論じたように、そもそも理性と経験の対立に立脚した普遍主義と相対主義は真の対立をなしておらず、普遍主義自体に相対主義が内包されていた。そのため、普遍主義を否定することは特定の視点=コンテクストの肯定へと直ちに繋がっていくという事態は、平移する普遍性という視点では起こりにくいのではないかと思われる。端的に言うと、西洋的な政治制度の普遍性の否定は、直ちに中国やロシアのような政治体制の肯定へとつながることはないということである。この視点は中国やロシアといった国家の特殊な事情=コンテクストを、第三の超越的な普遍性をもって否定するようなことをせずに、それらと会話できるような可能性を開く。そして、私たちが一方的な押し付けではなく、会話の中で自らに対する尊重と肯定を感じながら変化を遂げていくことができるのと同じ(相通じる)ように、そこにこそ「文明の衝突」を止める可能性があるのではないか。
「模範主義」から考える
少し陳の議論から話を広げすぎたし、希望的な観測にすぎるきらいがあるので話を戻そう。陳は平移する普遍性の視点から「典范主义(模範主義)」という態度を提案する。それは絶対的な抽象基準=普遍者の適用を称揚する普遍主義に対して、「模範に学ぶ」というきわめて常識的(であるように見える)な態度を評価する。優れた品格は具体的な個人の中にこそ生きた形で備わっているのと同じように、優れた政治・社会制度は特定の歴史と社会の中に深く埋め込まれている。
つまり、誰か優れた人の品格を学ぶということは、その人の特異性を自ら理解可能な形に翻訳することであり、一種のコミュニケーションだということである。「私たちがある優秀な人に学ぶのは、基本的にその人になりたいからではない」のと同じように、それはあくまで自らのコンテクストと差異体系の中にその優れた品格を導き入れ、より優れた「自分」になることである。
さらに、この視点は態度の変更を要求する。「模範とされている相手は、模範となって人に学ばせるためにあるわけではない」と陳は言う。
陳がこのように言う時は、上で幾度も民主主義の問題に触れており、したがって単に個人の態度だけではなく、おそらく西洋的な正しさの押し付け(つまり会話の拒否)を念頭に置いているように思われる。しかし、それは私たちが論じてきたように、それは平移の普遍性の視点に立つ限り、中国の政治制度の肯定へと直ちにつながることはない。このように言うのはむしろ、いかに対立を最小限にして、より現実的な形で中国を良くしていくかという問題に取り組むためである。中国が学ぶ態度を取ると同時に、西欧は学ばせる態度をやめるべきだということだ。そこがコミュニケーションの始まる起点となる。
「同質性」から「相似性」へ
陳のこの問題意識を引き受け、歴史やアジアの問題へと議論を展開したのが孫歌である。彼女は竹内好や丸山真男の研究を通して「アジア」に関する思考を展開した研究者として、日本でもよく知られている。
彼女の思想について別のところで詳しく論じたことがあるので、興味ある方はそちらも併せて参照してください。
陳のこの平移する普遍性は彼女にアジアという特定の歴史を持つ地域の思想的な可能性の探究に少なからぬ刺激を与えたようである。その具体的な展開を全てここで追う余裕はないが、彼女の議論からいくつの論点を取り出して考えてみたい。
彼女は著書『歴史与人』(生活·读书·新知三联书店、2018年)において、陳のいう平移する普遍性を一通り説明した後に、独自に議論を展開していく。
彼女によれば、陳の批判する「相同」の普遍性とは「同質性」を追求する普遍性にほかならない。したがって、その隠れた目標は世界全体の同質化になる。それは機械の世界であり、私たちは機械ではなくそれぞれに異なり、会話する存在であり、そのような世界を望んでいるはずがない。
それに対して平移する普遍性は「相似性」の普遍性であり、相似性とは差異の追求である。一般的に思われているように相似と差異は対立しているわけでは決してない。なぜなら、この世界には完全に一致した状態は存在せず、無数の差異しかなく、それらがつながり合った時にこそ相似が生じるからだ。差異は相似の前提であるといってもいいだろう。例えば、第二次世界大戦後の日本とドイツは相似した立場に置かれているのに、なぜ戦争責任においてかくも異なる態度を取っているのか。もし同質性の立場に立つなら、日本はドイツと同じ立場に置かれていること(相同)から、そしてドイツのほうが望ましい国際関係を築いているという意味で、日本にドイツと同じようになることを要求するのは正当であり、それができない日本は問答無用で悪となる。
しかし、相似性の視点からは、確かに両者は似ているが、ドイツとユダヤ人の関係性は、国家間のものではないこと、ドイツとフランスの和解は五〇年代に成立したのに、東欧との和解は七〇年代に入ってからであるといった差異を考慮するように私たちに要求する。このように相似性は私たちを差異の方へと向かわせる。このような差異の存在を認識してはじめて私たちは適切な問題を立てることができる。
私なりに敷衍するならば、相似性とは「はしご」のようなものであり、それが私たちを差異の問題へと導くための手段であり、それ自体で何らかの目的や結論を構成するわけではないのである。
もちろん、他者の他者たるゆえんはまさにその論理を理解できないことにあるのではないか、なのにその論理を使えることを前提するのはおかしいのではないかという批判はありうる。しかし、私が上で論じたように、「使う」という言葉で言われているのはむしろ「相通」の部分をもって、相手の特異性に「上手く触れる」というような事態だと考えればそのような矛盾が生じない。
「ポリコレ」における理念と実践の乖離
ただ、ここでは彼女の使っている言葉が陳のそれと比べてかなり「強い」ものになっているのは事実である。例えば「意図を放棄する」、「他者の論理をもって他者を理解する」「すべての差異が他の差異に開かれる」、「差異の強化」といった言葉はかなり抽象的で、何か「こうすべきだ!」というような押し付けがましさを感じてしまう。言い換えれば、それは理性の普遍性を響かせる言葉だということだ。その意味で、平移する普遍性は多分に言語に関わるものでもある。
例えばリベラルな言説では「他者に開かれる」というような言葉がしばしば使われるが、その際想定されているのは他者に対して全的に開かれ、その存在を尊重するといった極端な倫理であることが多い。しかし、現実としてはそのように他者に開かれることは不可能であり、そのような倫理に強くコミットしている人でさえ実践できないようなものである。たとえできるだけ他者に開かれようとしても、それは常に失敗するか、中途半端なものに終わってしまうことが多い。そのため、リベラルな思想を批判する根拠として、しばしばそのような理念と実践の乖離と矛盾が指摘される。
これはより一般的には「ポリコレ」の問題として考えることができる。孫歌もそれに言及している。彼女はオーストラリアのいくつかの都市の博物館と美術館を訪れたが、いずれも原住民たちの芸術や生活文化を重視する姿勢を取っている。そこには同一のイデオロギー、すなわち原住民の生活方式の正当性を強調するというイデオロギーが存在している。抽象的なレベルにおいては、そのようなイデオロギーは正しいものである。しかし、具体的な現実においては原住民たちはその社会の政治生活に必ずしもうまく参加できているわけではなく、多くの場合白人に「見られる」もしくは「肯定される」対象にとどまっている。有色人種のこの種の乖離的な社会状態はアメリカにも同様に見られるものである。
現実にはその種の倫理または理念に強く賛同している者が、実際の生活においてしばしばそれに反する行動を取っているのは私たちでもよく目にするだろう。例えば、DVの根絶を訴える書物の著者が、家庭内では実は配偶者に対してDVを行なっていたり、最近の事例で言えば、性被害をテーマとする映画の監督が、性的な行為を強要した加害者として被害者から告発されたりしている。
彼らはその理念にコミットしているときはおそらく本当に正しいと思ってコミットしているのかもしれないが、その理念が一つの到達点、ゴールとして機能してしまっているために、より重要なこと、すなわちそれを媒介に具体的な現実やコンテクストにおいて差異を探求することを放棄してしまった。そこにこそ問題があるように思われる。到達点としての普遍性ではなく、媒介や通路として差異へと向かう普遍性こそ私たちを実際に倫理的なものに近づけるのではないか。
「中途半端」で在ること
その意味で、「他者に開かれる」ことは完全で極端な「開かれ」ではあり得ない。陳が翻訳や模範の事例を敷衍して言うならば、それは自らの「母語」、つまり自分の身を置くコンテクスト(それは「閉じた」ものにほかならない)をベースに、媒介としての普遍性を通して他者の差異(それが「模範」であることもあるだろう)に触れた後に、再び自己に戻って自己を変革したり、より豊かにすることにほかならない。
何か決め台詞っぽく言い換えるならば、「私たちは互いに閉じ合っているからこそ開かれるのだ」ということになるだろう。ここでは「閉じ合う」の「合う」がポイントになる。それは「お高くとまっている」普遍性を、相互のコミュニケーションの次元に引き摺り下ろすのだ。
この意味で、 平移する普遍性は、必然的に「中途半端」になってしまう私たちの倫理的な思考と実践は否定するのではなく、むしろ肯定し方向づけるものだといえる。
ここまで書いてきてはじめて気づいたのだが、これは哲学者の東浩紀の「訂正可能性の哲学」と響き合うものなのではないか。少なくとも、次に引用する一節と接続できるだろう。
ここでもう一万字を超えたので、これ以上の議論は別の機会に譲るが、平移する普遍性と「訂正可能性の哲学」は共に政治と社会の袋小路から抜け出し、新しい普遍性感覚とそれに基づいた政治や倫理的な態度をもたらす思想であるのは間違いない。私としてはこの二つの思想の「相似」を媒介にコミュニケーションを開始し、何か新しい差異を見つけ出すこと、構成することを今後の一つの方向性としたい。そのようなコミュニケーションの中で、中国の経験を踏まえながらも国家主義へと回収されないような普遍性の探求が可能になるだろう。
※本当は孫歌についてもっと論じたかった。例えば、彼女は地理学を援用し、普遍と差異の対立を論じたり、陳の普遍性に関する議論を踏まえてベンヤミンの「翻訳者の課題」を再解釈したりとかなり広がりのある議論をしている。機会があれば、「訂正可能性の哲学」との関係も含めて、もっと詳細に論じてみたい。