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第七話 布施"嘆き"の壁

 外に出ると雨はすっかり止み、綺麗な月が人々の罪を照らすかのようにはっきりと見えた。
 「きれいな月やね。余計に酔ってしまいそうやわ」
優華はセミロングの髪を風に靡かせながらそう言った。
「月はいくら綺麗でも、この機械油の臭いで台無しやがな。鼻の穴に556ぶち込まれた気分や」
 丸井はグニャっと曲がったハイライトの煙で綺麗な満月を覆い隠すように夜空に吐き出した。
「ほんま口悪いな丸ちゃん。556鼻に入れられたことあんの?」
 ムッとした顔で優華は丸井に問いかけた。
「あらへん、すまん嘘ついたわ。舌ちょんぎるから俺のタン塩で最後の晩餐させてくれや。まぁそんなんどうでもええねんけどな」
 丸井は童貞特有の早口で続けた。
「次行くとこのアテはあるんかい?ワシはこの辺が"隔離された哀しき町"という事以外知らんで?」
 丸井はウキウキする気持ちをセルフファシズムで抑え込み、しかめっ面を作った。
「あるよ。とりあえずあのタクシー拾うから。」
 そう言うと優華は目の前を通りすがったタクシーに手を振り、停車させた。
 丸井は期待と不安の比率が100:0になった事を確認してタクシーに乗り込んだ。

 タクシーは路地裏を巧妙に進み、近鉄布施駅に到着した。
 タクシー代をきっちり割り勘で支払い、2人は下車した。
 煌びやかな飲み屋が多く、繁華街を思わせる雰囲気が漂っていた。しかし、どよんとした重たい空気が街全体を覆い尽くすように広がっているのを直感で感じ取った。

 布施駅。東大阪随一の繁華街と度重なる"東大阪内戦"を引き起こしたきっかけとなる"嘆きの壁"の始発点という二面の顔を持った哀しき街。
 壁に描かれた大きなラグビーボールの下には「この楕円球は決して"こちら"に転がる事はない」という文字が刻まれている。
 これは"布施嘆きの壁"の象徴として認識されている、言わばこの街のシンボルでもある。
丸井はこの街の異様な雰囲気を察知しながらも、テクテクと歩く優華の足跡を辿るようにして歩き出した。
 彼女は駅付近の煌びやかなビルの横にある小さな雑居ビルに入った。
 ビルのエレベーターに乗り、三階のボタンを押した。
 丸井はエレベーターの壁に殴り書きされた落書きに目を奪われた。
「なぁ、優華よ。布施ってバンクシー来たんか?」
 エレベーターの壁に近鉄バファローズの帽子を被った男性が火炎瓶を持つ様子が描かれていた。
破壊的で痛烈な社会風刺を独自のステンシル技法で描き出したその絵は、正しくバンクシーの作品そのものだった。
 東大阪市が暗い闇の時代を生きたという"痕跡"をしっかりと描き出していた。
 優華曰く、東大阪内戦が落ち着いた時、ふと現れたのはこのバンクシーの絵。
 大阪府と東大阪市はこの絵が"聖地"となり、悲しみの業火が再燃する事を懸念し、SNSやマスコミなどの情報を封じ込めた。
 一部の内戦信者達によって口伝されているものの「近鉄バファローズの北川博敏が球界再編問題に反対する為に描いた」「新喜劇の未知やすえ姉さんが劇場の合間にスプレー缶でささっと描いた」などという誤った情報が交錯。
 真実を知る人物はほんのひと握りだという
 そう言い終えた優華は3階で止まったエレベーターから出た。
 彼女の残り香を追うように丸井も歩き出した。

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