舞踏とキャバレー:2 土方巽と大野慶人のショーダンサー時代

■2 土方巽と大野慶人のショーダンサー時代
 
武藤 早速今日の主題である「舞踏とキャバレー」の関係についてお伺いしていきたいと思います。
 皆さんのお手元に配られている「舞踏とキャバレー」という三枚綴りの資料(https://docs.com/dambala-tell-kaz/2499)があると思うんですけど、こちらを御覧になって頂きながらお話を伺って頂けるとよろしいかな、と思います。
 舞踏の説明はしなくても良さそうなお客さんばかりなんですけど、要点だけ確認しておきます。
 舞踏とキャバレーについてまとめて書かれているのが、「corps』という雑誌の2008年に出た第4号ですね。ここに、客席にいらっしゃる志賀信夫さんがコンパクトにまとめられたテキストが掲載されています。
 土方がキャバレーを経営していたのはだいたい1979年から82年の間、この辺が発端になっている。いわばバブルの前夜からバルブの最盛期くらいまで……土方が1986年に亡くなりますから……と見做されているんですけども、志賀さんの論考を拝見していると、そもそも土方とキャバレーだとかストリップ劇場だとか、いわゆる商業的な舞台との関係自体は1959年に「禁色」という形で舞踏の火蓋が切られるずっと前から元藤燁子さんと土方がいっしょにショーの舞台に出ていた。あるいは「ダンシング・ゴーギー」(*註)というダンスのグループがあって、そこに大野慶人さんも参加されていた。そういった素地がそもそもあるんだ。舞踏が始まるずっと前から商業的な舞台との関係はあったし、舞踏が始まりアスベスト館が出来てからも(* もともとは津田信敏の近代舞踊学校を土方があとから改称した)、土方巽や元藤燁子さんは舞台を廻していく資金源として踊り手を出演させていた、という流れがある訳ですね。
 更に80年代に入りますと、土方が今度は自分でいくつものキャバレーを経営していくようになるんですね。そのキャバレーで踊り子を雇うんですけど、逆にその踊り子が舞踏を始める。舞踏をやるための手段としてキャバレーに出ていたのが、キャバレーに出た人が今度は舞踏をやるという逆流現象も起きているんだ、ということを志賀さんはご指摘されています。複数のチャンネルがあるな、ということが伺える訳ですね。
 今日のお話の中心は1979年から82年、あるいはそれ以降ということになると思うんですが、まずは土方が精力的にキャバレーを廻っていた時期にどういったことが行われていたのか。そういったことから話を伺って行きたいなと思います。慶人さんから、どういう舞台をされていたのか簡単に触れて頂けますか。
 
*註 ダンシング・ゴーギー(男性7人、女性1人)
 土方巽が率いたショーダンス・チーム。メンバーは若松美黄(津田信敏の弟子)、大野慶人、野村純(歌)、佐々木博康(パントマイム)、川名かほる(ジャズダンス)など。大野慶人の参加は1962年。元藤燁子の著作『土方巽とともに』によると、元藤も中途からメンバーとして参加していたらしい。ショーでは慶人さんなどの若手が前座で、いつも最後は元藤さんと土方さんのデュオで締めでいたという。
 ゴーギーは動ける人間ばかりで構成されていたので、金粉は使わなかった。舞踏ダンサーたちが金粉ショーを始めたのは未熟なダンサーが増えてからで、「金粉を塗って4分経つと死ぬ」という触れ込みになっていた。
 ダンシング・ゴーギーの「ゴーギー」という言葉だが、慶人さんがメンバーになったときは既に名前が決まっており、意味や由来については知らないそうだ。
 
大野慶人(以下:慶人) 土方さんが黄金町に引っ越してきたときに呼ばれましてですね。それはアパート(* 赤門荘 横浜市中区赤門町1丁目) の2階でした。僕が通っていた学校は「関東学院」という黄金町から降りて歩いて行った丘の上にあった訳ですよ。そのすぐそばが赤門町(* 黄金町に隣接する地区で、黄金町駅から徒歩数分の距離)で、僕にとって庭みたいによく知っていた場所でした。
 土方さんと元藤さんがいっしょに生活しちゃうということには、驚きを感じました。元藤さんは津田信敏さんと結婚されてたこともある訳ですから。
 土方さんと元藤さんがいっしょになられて、黄金町で最初の生活を始めるときに「これから生業としてキャバレーでショーをやる。今度山手にある「クリフサイド(*註)』というところに出るから」と言う。そこは横浜では一流なんですよ。「そこに出るから衣裳を変える間、間をつないでくれないかな」と言われたんですね。僕は中学時代からドラムをやってましたから、「じゃあ間をつなぎましょう」と言ってドラムを叩きながら間をつないだ訳です。その間に衣裳を着替えて次の番組を踊るというところから始まりましてね。
 今度は「ダンシング・ゴーギー」という6、7人のチームを作りまして、僕がそこに加わりまして、野村のボンボンなんて言われてる若いシンガーも加えてね。それからは「今日は錦糸町の金時だよ」「次は歌舞伎町だ」なんて言って、スケジュール渡してあちこち出ましたし、地方にも旅に行きました。
 当時僕は20歳ちょっと過ぎ。困ったのはホステスさんがですね、僕の身体を触りにくるんですよ。酔っ払ってね。お客さんは不愉快な顔してるし、高い金払って……ていうことでね。
 若手のダンサーの中で前座を務めまして、最後になりますと元藤さんと土方さんのデュエットがある訳ですよ。それは上手でしたよ。グーと上げたり。廻したりね。
 土方さんは、もとは「安藤三子とユニークバレエ団」に入ってました。ユニークバレエ団はバレエの基礎をやるんですけども、そのほかにショー的なダンスもしてね。テレビの歌番組で歌手の後ろでタキシードなんか着て踊ってる。それが「安藤三子とユニークバレエ団」の得意技でしたよ。それでかなり有名だったんだ。そこの出身だからショー的な踊りを土方さんは出来る人なんだ。僕らに振り付けてね。僕はボンゴを持って出てきたので、「前座、慶人さん叩いてくれよ」っていって、その後チャッチャッチャッチャッチャッチャッ、みんなで踊って。そこへ(元藤さんと土方さんが)出てきてデュエットなんだ。
 最後は銀座の一流のキャバレーを掛け持ちしたくらい売れっ子になって認められたというか。一流の店でも踊れるようなショーをやってましたからね。それが土方さんの生業になっていたと思います。
 
*註 クリフサイド
所在地: 〒231-0861 横浜市中区元町2丁目114
電話: 045-641-1244
http://homepage2.nifty.com/cliffside/
 1946年創業のボールルーム。戦後の一時期は東京までその名がとどろき、芸能人たちがタクシーを飛ばして遊びに来たという。日活無国籍映画を思わせるような、古き良き時代の横浜の栄華を偲ばせる生き証人のような場所。創業当初はナイトクラブだったが、その後ダンスホール、キャバレーになり、現在は生バンドつきパーティーが目玉の大人のためのレストランとなっている。
「純粋に社交ダンスを楽しむために、カップルでクリフサイドに来ていた方は、開業当時でも半分くらいではないでしょうか。私が知る昭和50、60年代だと、6、7割の方はダンサー目当てで、名前はダンスホールですが、実態はキャバレーでした。
 ところが昭和の終わりとともに、キャバレーの時代も終わります。社交ダンス目当ての方は、ワルツとかタンゴ、ルンバの曲を好み、ムーディーな曲を好みません。ダンサー目当ての方はその逆です。そのどちらに舵かじをとるかが、一番むずかしかったですね」(支配人の山下正氏)
引用元:代官坂「クリフサイド」の白い壁 読売新聞(YOMIURI ONLINE) : http://www.yomiuri.co.jp/life/special/hill/20150602-OYT8T50263.html
 横浜のキャバレーは、山下町や関内は東京の人も交えた接待の場、福富町は地元の人が遊びに行く所、という具合に棲み分けが出来ていたという。
 
武藤 ありがとうございます。「クリフサイド」というお店が黄金町にあって……。
慶人 いえ、山手にあるんです。
檀原 代官坂ですね。
武藤 それが土方さんのキャバレーとの接点の一番最初。
慶人 ええ。最初です。
檀原 「クリフサイド」は今もありますので、横浜観光の際にはぜひ足をお運び下さい。
武藤 今も当時のまま営業していますか。
檀原 営業しています。
田野日出子(以下:田野) でもその頃は生の音が入ってましたでしょ。
檀原 いまでも(「クリフサイド」は)生ですよ。
武藤 土方さんと元藤さんのデュエット、他の店でも出ていた、ということは商業的なシーンの中で「売れていた」ということですよね。
慶人 ええ、そうです。ええ。
武藤 それは印象が違いますね。
慶人 ええ。ちゃんとした一流の店で通用するようなグループでした。
武藤 それはすばらしい。また色々お伺いしたいんですけど、ここで嵯峨さんにどういった経験をされたのかお話いただけますか。

ー構成・檀原照和ー

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