舞踏とキャバレー:3 ショーダンスがやりたくて入ったら、舞踏になってしまった

■3 ショーダンスがやりたくて入ったら、舞踏になってしまった

嵯峨 私たちの頃は公演が多かったんですよ。次から次へいろんな公演があって一番盛んにやってた頃です。ショーの方はおざなりになってて、素人が(入った)次の日に行かされるみたいな感じでした。お金稼ぐ方はそんな感じで大きいところも行けるんだけれども、小さいところしか行けないとか。店にあるレコードでやるしかないとか。
武藤 いろんな演目があるなかでのひとつに舞踏の方が入っているという格好でしょうか?
嵯峨 キャバレーで行くと、色物もあります。ジャグラーや歌手がいれば、そこにダンスショーも入って行くという形が多いんですけどね。大きいところはそういう形ね。小さいところに行くと、色気のショーしかない訳です。ストリップに近いショーしかね。
 体育館くらいの大きいところから、田川(* 福岡県の筑豊地区に該当する自治体。炭坑節発祥の地としても知られる)辺りの小さいところまで、九州をぐるっとショーで廻りまして。私たちの頃のダンサーは「とにかく荷物を持って行け」って言われて「じゃあ行きます」って言って。舞台にとにかく立たせる。なにも分からないのに立たせられる、ということを経験させられた訳ですね。
武藤 そこで鍛えられる訳ですね。
嵯峨 鍛えられるんですよね。女の子は本当になにも知らない。でも自然に、本能的に「こうやればお客さんがこっちを見てくれるんじゃないか」ということを学んでいくんですよね。それで綺麗になって帰ってきたりして(笑 
武藤 それが70年代ですね?
嵯峨 70年代ですね。
田野 70年代の頃には地方行かないと、あまり仕事がないの。
嵯峨 そう、衰退していく。まだまだ大きいところもありましたけども、とにかく公演が多かったので土方さんもショーのことはしないみたい。みんなそれぞれ行って、それぞれ自分たちで工夫して踊るとか。 
 さきほど元藤さんと土方さんのショーのお話が出ましたけど、お二人が銀座のクラブでショーをやったときに土方さんが元藤さんをバーと廻しますでしょ。そうすると元藤さんの髪の毛が柱にパシンパシンとあたるんだそうですよ。その店でマネージャーとして働いていた玉野黄市さんが「これ、すごいな」と思って、それですぐに楽屋に行って「ショーを教えて下さい」って言ったそうです。
 ところがアスベスト館へ来たらショーじゃなくて、(客席笑い)そのまま引っ張られて「薔薇色ダンス」などに出てるんですね
武藤 じゃあ玉野さんは舞踏がやりたくて入った訳じゃないんですね。ショーダンスがやりたくて入ったら舞踏になってしまった。最初の段階からそういう逆流みたいな……。
慶人 キャバレーからスカウトしてきましたよ。キャバレーで下駄履いて踊ってる奴がいる。話を聞いたら石井獏先生の所でクラッシック・バレエから始めたということで、すぐ連れてきてね。それが石井満隆。
武藤 じゃあキャバレーにもいろいろ変なことをしている人がいたんですね。
慶人 そうですね。
嵯峨  ダンスの方も結構キャバレーは。黒沢美香さんのご両親も……。
田野 キャバレーだけを廻るダンサーというのは、浅草オペラから出てきてる人が多かったんですよ。戦後はね、(日劇)ミュージックホールだとかをやめた人たちが出てるとか。バレエダンサーも戦後はやってましたよ。だからリフトなんて言うのはバレエダンサーが(持ち込んだ)。
嵯峨 先生がアダジオショーと言って……。
田野 そう。アダジオ(* リフトを主体とした男女のデュオ)と言ってた。
 でね、キャバレーって5種類くらいあるんですよ、ヌードだけじゃなくて。だからお客の目のレベルがすごく高いの。
 わたし、順番じゃないけどしゃべっていいですか? 交代で良いんでしょ?
嵯峨 どうぞどうぞ
田野 ソロダンス、グループダンス、それからデュエット、ヌード、ストリップ。ヌードっていっても衣裳は全部は取りません。入浴ショー、花魁ショー、日舞ショー……何種類かあって。
 舞踏の人たちは60年代に出ていらして。それまでは舞踏の人たちは踊っていませんでしたよ。舞踏(の人がキャバレーで踊る)は……土方さんが走りじゃないかな。
嵯峨 そうかも知れないですね。土方さんは元藤さんとペアを組んでましたが、「これをやってると俺は踊りが出来なくなる」と言うんで、ある日橋の上からトランクを川の中に投げ込んだそうです。それで自分たちは踊らなくなって、我々入ってきた生徒たちに踊らせた。
 私が入った頃はすでに土方さんはキャバレーをやめてました。わたしたち振り付けされて、一番最初は赤坂のひじょうに高級なナイトクラブなんですけど「スペースカプセル」(*註)という所に毎週1回日替わりで、今日は状況劇場の日とか、今日は土方さんの日、今日は石井獏さんとか、そういう前衛的なショーが毎週日替わりで入ってました。「スペースカプセル」は1年くらいやりまして、その後地方廻りのキャバレーへ。
武藤 「スペースカプセル」はご存じの方も多いかも知れませんが、1969年に赤坂に出来たクラブで寺山修司ですとか実験的な演劇をやっていた(*註)。内装は黒川紀章のデザイン(*註)で、Googleで検索されると当時の店内の画像が出てきますので、御覧になるとほんとうにびっくりします。見たこともない空間が出来ている。この中で先端的な芸術が……。
嵯峨 横尾忠則さんが壁にこういう感じでね……。

黒川紀章が手がけた「スペースカプセル」の店内

*註 「スペースクラブ」はキャバレーではなくディスコだったが、当時のディスコは踊りだけではなく、現在のクラブのようにパフォーマンス・スペースとしても機能していた。バンドは生演奏だったが、休憩している間に下記のような演目が上演された。

オープン後間もない1969年3月のスケジュール
月 中原中也から流行歌まで、詩を演ずる劇団 N.L.T.。構成・演出・竹邑類
火 天井桟敷の人形劇、はだかの恋唄
水 福島晶子のフォトジェニック・アクション
木 ガルメラ商会謹製・取扱人 土方巽
金 伊藤ミカ・ビザール・バレエグループ
土 河本昭郎ファッションショー
日 サンデー・カプセル寄席
(出典:「毎日グラフ」1969年3月30日号)

*註 カプセルつながりということで、同じく黒川紀章設計の1972年竣工のカプセル型集合住宅「中銀カプセルタワービル」とも関連があるのだろうか?

武藤 そういう場所のお客さんは?
嵯峨 アーチストが結構いた。細江(英公)さんとか……。
武藤 「将軍」的に成り立っているということは、それなりにお客さんの層も厚かったということですか?
嵯峨 そうですね。
武藤 サラリーマンも観に来るんですか?
嵯峨 いや、サラリーマンが来るということはないんですけど。
田野 その頃は会社のお金を使えたから。会社で車代を出してくれたし、みんな遊んでましたよ。チップ高いし。
慶人 若いサラリーマンが2、3万平気で遊んでたもん。
田野 もしかしたらキャバレーっていうのは経済とセットされてるかもしれないわね。
慶人 そう。当時はセットされてましたね。

田野 それとアーチストに憧れてる若者たちは「先端は〜」なんて言って。

ー構成・檀原照和ー

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