『今日よりもマシな明日』書評その他をめぐって

 2023年3月5日の日曜日から書き始めています。少しだけ時間的余裕ができたので、書かなくてはいけないなと思っていたことを書きます。それは、文芸批評家の川口好美さんによる「小峰ひずみ論」および、それを受けて小峰ひずみさんが書いた文章「批評F運動」についてです。川口さんの文章を読んだ時点からなにかを書こうと思っていましたが、「批評F運動」が出てからは応答責任が発生している、と判断しました。ちなみに、ちょうどついさきほど、批評家の杉田俊介さんが小峰さんに向けた文章をアップしていました。小峰さんの文章に対して、三者が三者なりに自らの問題意識から応えている状況かと思います。ちなみに、この僕の文章に対しての応答はとくに望みません。もちろん、書いていただいたら読みます。

書評が出たときのことについて

 発端と言える拙著『今日よりもマシな明日』の小峰ひずみ書評が、ウェブ版『文学+』に出たときの記憶から。小峰書評を読んだときの最初の印象は、評者の意図があまりにもわからなかったことからくる戸惑いが半分くらい。そして、意図がわからないなりにも不本意な評価がいくつか見受けられたので、それに対する「ああ、批判されているなあ」という気持ち(別に傷ついてはいない)が半分弱くらい。そして、評価にさらされたことに対する喜び・感謝が少し、といった感じだったかと思います。
 その後も小峰書評を読んだのですが、やはり文章の意図・意味が読み取れないと思いました。そんなこともあり、「嫌な気持ちになるだろうな」という予感のもとTwitterを眺めていたら、(記憶違いでなければ)ミスターという人(『大失敗』『LUCKY STRIKE』同人のしげのかいりさんですよね)が小峰書評について「面白い!」とコメントしていて、それに小峰さんが「ありがとうございます」と書いているのを見つけました。
 このとき、漠然と「ある批評界隈においては矢野あたりを批判することは、安全なコミュニケーションになっているのかもな」と推察しました。「安全」の意味は、「本を出しているくらいには有名性はあるがほぼ無名の存在」「SNSで面倒な反論をしてこなさそうな存在」「戦闘力が低そうな存在」「世代的には上の存在」といった感じです。つまり、その界隈において批判していい相手と判断されたのかな、と。批評界隈ではよく見るはしたない光景ですよね。いや批評界隈でなくても、舐めた態度を取ってくるヤツというのはどこにでもいるので、小峰書評を面白がっている人全員にその可能性を疑いました。なるほど、世代が交代していくというのはこういうことか、と。もちろんそのなかには、真摯な批判もありうるでしょう。
 もっともすべて推測でしかないので、これを読んでいる人は事実としては受け取らないでください(とくにしげのさんに関しては行きがかり上名前を出してしまいすみません)。ただ、本来書くべきでないこんな推測を書いているのは、少なくとも小峰さんに関しては、いまに至るまでその疑いが晴れていないからです。そして、この推測を書いておくことは、現時点での議論においてそれなりに本質に関わると思うからです。
 さて、小峰書評をくり返し読み、読めば読むほど「この人は、『今日よりもマシな明日』を書評する場を自分の有名性の獲得のために使っているんだろうな」と思いました。その時点では、当然のことながらけっこうムカついています。ということで、書評に対する応答として「『文学+』の書評に応えて」という文章を書きました。

 小峰さんの功名心が推測でしかない以上、この文章でムカつきの表明はしませんでした。その意味では、川口さんが言うように「抑制的」であることに努めました。もっとも川口さんはのちに、「正直に言うと、矢野は小峰にたいして怒りをあらわにしてはっきりとノーと言うべきだと」「感じていた」と書いています。こういうときに「ノー」と言わないことが良いことなのだと思っていたつもりですが、川口さんにそう言われると、その点がむしろ自分の弱さというか、他人あるいは批評行為への信頼のなさかもな、という気が――それまでも薄々は思っていたのですが――してきます。そして、その後の展開を見ていると、川口さんの言っていることが正しかったのかな、という気も少ししています。
 小峰書評を読み応答を書いた直後くらいでしょうか、やりきれなくなったから、というほど明確な思いだったかわかりませんが、早春書店のコメカくんに会いに行って、コメカくんの見解を尋ねた気がします。このときコメカくんが、「大阪では人を茶化すようなコミュニケーションの意味合いが東京と異なると聞いたことがある。つまり、矢野が思っているほどには悪意のない可能性もあるのではないか」ということを言っていた記憶があります(かなりおぼろげな記憶です。違ったらすみません)。その後の小峰さんの弁明と併せると、これも的を射た意見だったかもしれません。その後、パンスくんとも合流して少しだけふたりに愚痴を聞いてもらいました。もっとも大半はそれ以外の愉快な話でしたが。あの日は楽しかったですね。
 さて、かりに小峰さんのスタンスが、僕の推測したとおりの功名心から来るものだとしても、それはそれで別に良いんです。ムカついたくらいなもんで。実際僕も、かつて『村上春樹『1Q84』をどう読むか』の各論者に対する批判的な感想をブログに書いたとき、武田砂鉄さんを批判したとき、岸政彦さんを批判したときなどは、それなりに心を込めたものの、そのような功名心がなかったとは言えません。のちにその村上春樹本の担当編集に会ったとき、「ルサンチマン」を指摘されたことを覚えています。なにか自分の考えを書くということは少なからずそういう態度を含むと思うし(この点において、批評が嫌になるときがあります)、文学や批評の論争には、そのようなフレームワークを盛り上げるところがあるでしょう。批評の読者・観客としての僕だって、そのような対立図式を楽しんでいるところがあります。文章を書いて好き勝手に読まれていくとは、そういうことだと思っています。引いた目から見たら、そこには喜びすらあります。
 しかしいちプレイヤーとしては、対立図式や論争的な盛り上げはマジ(本気)のものでなくてはしょうがないでしょう。少なくとも僕の問題意識ではそうです。
 僕が疑念を抱いたのは、すでに書いたとおり、小峰書評に対して本気さがみじんも感じられなかったことです。別に茶化したりからかったりすることが悪いとは思っていません。体を張った悪ふざけだって良いと思うんです。でも、小峰さんの場合、自分が成り上がることが先立っている印象があったため、文章にはなにも心が込もっていないなと思いました。このあいだ出演したFM TOKYO『未来授業』という番組でも言いましたが、自分のことばかり考えている人はフェイクです。その意味で率直に、モノホンではないなと思いました。小峰さんが書評で参照してくれた杉田俊介『人志とたけし』の鼎談(マキタスポーツさん・杉田さん・矢野)ですでに述べたとおり、「心を込めたもんじゃないと、もう響かない」んです。「心を込める」の意味は、例えば問題意識に貫かれていることです。小峰書評には、小峰さんが立脚する問題意識がわかりませんでした。だから、他人に対する批判のポーズだけが残るような印象を受けました。全部、小峰書評への応答の文章に書いたとおりです。杉田さん・川口さんの大阪行きを経て「からかい」が論点になっていますが、「からかい」という言葉についてしっかりと考えてこなかった僕のなかには、この時点では、いやいまも、そのような問題意識はあるとは言えません(一考するにあたいする問題だとは思いました)。その時点での論点は、小峰さんの本音・本気度をめぐってでした。
 「活動家」を自認する小峰さんは、一方で批評なら批評、文学なら文学、運動なら運動におけるシーンの盛り上げを企図しているようにも思えます。しかしそのようなシーンの盛り上がりは、心のこもった意見のぶつかり合いと認め合いのさきにあるのではないでしょうか。お手製の凡庸な対立図式は無意味であり面白くもない。面白くないから意味もない、と言ってもいいかもしれません。小峰書評の発表媒体である『文学+』は、批評・文学シーンを良い意味で盛り上げる機能を担おうとしており、その点においておおいに賛同するわけですが、その盛り上げが小峰書評のようなノリを指すのであれば、僕と『文学+』(この場合は中沢忠之さんになるでしょうか)とはスタンスが異なるかもしれないな、とリアルタイムで思いました。中沢さんに対する批判の気持ちはとくにありませんが、いちおうこの機会に書いておきます。

「批評F運動」について

 前置きが長くなりました。その後、小峰さんが「大阪(弁)の反逆——お笑いのポピュリズム」という論考を『群像』(2023年3月)に発表し、この論考を読んだ川口さんが「小峰ひずみ論」をアップしました。そして、その川口さんの「小峰ひずみ論」を受けて、小峰さんが『文学+』ウェブ版に「批評F運動」という論考を発表しました。僕のこの文章は基本的には、川口さんの「小峰ひずみ論」および小峰さんの「批評F運動」を読んで、自分も考えを書かなくてはいけない、と思ったところが出発点です。

 さて、「批評F運動」についてです。まず、「矢野さんの再批判」という記述がありますが、この「再批判」の意味は、矢野の応答(「『文学+』の書評に応えて」)に対する「再批判」ではなくて「『今日よりもマシな明日』の書評を補足する」という意味だと受け取りました。自己解説というか、意地悪く言えば、取り繕いとも取れます。だから、「批評F運動」における矢野への批判に対して、僕から新しい議論を付け加える必要はとくにない、という感想です。「『文学+』書評に応えて」に書いた内容で全部事足りています。とはいえ、そこにはちょっと驚くべき記述もいくつかありました。これに関しては書いておきたいと思います。
 少し遠回りを。このたび、自分の小峰書評に対する応答の文章を読み返したら、末尾に「いずれにせよ、エールを送ってくれていると受け取りました。あらためて、ありがとうございます。マジで。」と書いてありました。この箇所を読んで、記憶がよみがえりました。僕はあのとき、最後の最後、「意図も意味もわからないしムカついてもいるが、そしてかなり疑わしい気もするが、しかし批評を通じてユナイトしている以上、なにかしらの問題意識をもって自分を批判してくれているのだろう」(「ユナイト」はラッパーのTwigyの言葉として使っています。JBとアフリカ・バンバータのデュエット曲にも同名のものがありましたね)と信じたことを思い出しました。「あらためて、ありがとうございます。マジで。」はそういう言葉です。でも、このたび「批評F運動」を読んで、残念ながらそれは間違いだったと思いました。
 僕にとって「マジ」という言葉は、けっこう重い言葉です。ある時期以降の人生を振り返ると、誰かの言葉に怒りを表明するとき、最初に出てくるのはいつも「え、お前それマジで言ってんの?」という言葉だった気がします。それで言うと、「批評F運動」に書かれたいくつかの言葉は、「え、お前それマジで言ってんの?」というものでした。それは、矢野への言及の後半あたりで展開されます。

たしかに、からかいのスタイルです。ただ、そのスタイルは、矢野さんが町田康論で肯定した、芸人的な語りが内包しているものです。

 これは渡辺健一郎の『自由が上演される』に示唆されたことですが、誰か傷つけても遊びとして回収され、その暴力が匿名性を帯び、しかも主体が存在しないゆえに誰かが止めることも難しいからかいは、まさに責任主体を持たない点で、町田の語りと通じ合っています。そのスタイルを肯定したのは、矢野さんの立論です。矢野さんが是認した芸能の力を反転させると、それはからかいやいじりにつながる。

私は、「東京の反逆」(小峰の矢野本への書評——注・矢野)で大阪弁を全面的に打ち出し、「現代の社会を生きるということは、自分ならざるキャラに憑依され続け、《芸人》のような存在として生きることなのかもしれない」という矢野さんの立論のベクトルを徹底的に引き延ばしたのです。

矢野さんは芸人というあり方を是認することで、人間性を損なうからかいをもたらす「二流」の「芸」をも是認しました。「東京の反逆」において芸人的な文体で矢野さんを語ったことで、矢野さんの人間性が損なわれたなら、それは私の「二流」の戦略が成功したことを意味しています。

 このあたり、最初は意味がつかみづらかったです。小峰さんが、僕の前提とあまりにもかけ離れた前提に立っていたから。でも、二・三度読んで理解してきました。次のようなことですよね。すなわち――。
 矢野が「芸人的な語り」を通じて「からかいやいじり」を間接的に「是認」としており、だからこそあえて戦略的に、その「からかいやいじり」を本人に向けておこなった、と。
 だとしたら、これはマジで言っているんですか? 二重・三重に本気ですか? このあたりは、川口さんの「小峰ひずみの反批判(?)についての覚え書」に書かれた批判コメントにまったく同意ですが、自分からもあらためて。
 まず、『今日よりもマシな明日』の著者からすると、小峰さんの「矢野の立論」に対する理解は、ほとんど正反対の方向で間違っています。たしかに僕は、町田康論で「空虚な主体」を想定し、これを肯定しました。ここまでは、まあ良いでしょう。しかし重要なことは、それは「責任主体」を無化するために肯定したのではない、ということです。この点が決定的に違います。「彼らは、単に空虚で単に非‐社会的な存在というわけではない。彼らのなかに『真剣』という一貫した態度があることも、また事実なのだ。彼らはみな『真剣』に生きている。精一杯に。一生懸命に。このひたむきさこそ大事だ」(『今日よりもマシな明日』p.52)。「空虚な主体」なって大量殺人に及んでしまった『告白』の熊太郎は、「あかんかった」と言って自決しました。重く苦しいラストです。でも、どこかユーモラスだとも思いました。考えるべきは、その両義性だと思っています。
 こんなクソみたいな社会、生きているだけで間接的・直接的に誰かに暴力を振るってしまうじゃないですか。そのなかでも可能な限りまっとうに生きていくんですよ。真剣に。そのなかには「運動」も入るのでしょう。でも、だとしても、それでもよからぬことに手を染めてしまっている。そんなしょうもない人間のしょうもない社会です。そんなしょうもなさをぎりぎりで「肯定」するものとして《芸能》という概念は出てきています。そのように書いたつもりです。だから、これを逆向きに組み立てて「責任」の免除に使わないでください。しかも、つまらない虚栄心(と、僕には見えています)のために。
 まあ、百歩譲って町田康論は「空虚な主体」の「肯定」で終わっているかもしれないけど(そんな単純ではないつもりだけど)、小山田圭吾に関する文章や「エピローグ」はどうでしたでしょうか。そこでは、むしろ「ちっとも思い通りにならない言葉」に対してだって「責任」を取ろうとする態度が問われていませんでしたか。「責任」という言葉は残念ながら使っていないけど、「ちっとも思い通りにならない言葉」を追いかけるように(「責任」を取るように)《私》が「主体」化していく。それが「自分ならざる者を精一杯に生きる」ということです。万が一後半部分を読んでいないのならば、ぜひ読んで欲しいです。
 なるほど、小峰書評の意図がやっとわかりました。しかし、その意図は当初の想像よりひどいものでした。ここにはまず、僕の「立論」を自分に都合のいいかたちに利用する手続き的な悪さと、しかもそれを「あなたの立論ですよ」と本人に突きつけるタチの悪さがあります。まずこの2点を明確に批判しておきたいです。「手続き的な悪さ」に対しては論理的に批判を、「タチの悪さ」については道徳感情からの批判を、それぞれしておきたいです。
 次。小峰さんは「からかい」について「最悪の差別行為」(「大阪(弁)の反逆」)と書いていますよね。これは杉田さんが書いていたことに通じますが、自分が「最悪の差別行為」と規定している行為を意図して他人におこなう、とはどういう了見でしょうか。小峰さんからすれば、「空虚な主体」としておこなわれている「語り」だから「空虚」な以上知りません、という感じでしょうか。自ら「最悪の差別行為」だと規定するものを他人におこなっておいて、それに関しては「主体」として「責任」を取る気がない。本当にこれでオーケーですか? マジですか? なぜなら、「そもそも語りには主体が措定されていないから」?——Twitterにそのように書かれていましたね。冷静になってください。そんな理屈が看過できるわけないでしょう。
 いちおう小峰書評の気分を想像すると、「矢野の論には差別やからかい・いじめを許容する余地がある。書評ではそれをコンスタティヴに書くのではなくパフォーマティヴに指摘しよう」(ここに標準語/大阪弁の問題系が入るのでしょう)ということなんだと思います。実際、僕の論に「差別やからかい・いじめを許容する余地がある」ことはその通りです。というか、それが本書後半の主題だから当然です。したがって小峰さんの議論は、著者からしたら巻き戻っています。もちろん、「矢野が解決した気になっているところには躓きのポイントがある」という指摘の仕方はありうるので、巻き戻ることがそのまま悪いことだとは思いません。でも、小峰書評の場合はそういうことでもないと思います。
 それにしても、驚くのはやはり、矢野の差別性を指摘するためとはいえ、自らが「最悪の差別行為」と規定した行為に及ぶということです。そして、それを「戦略」という言葉で正当化することです。これは感覚の違いなのでしょうか。「暴力に対しては暴力を対置するしかない」という暴力論の発想から来たものでしょうか。そうだとすると、僕と小峰さんのあいだには物理的暴力はどこにもないので、局面が異なります。僕は「からかい」について考えてきてなかったこともあり、書評での振る舞いについては、いち著者として腹を立てた程度です。加えて、批評家としての小峰さんのスタンスに疑念を抱いた程度です。でも、腹を立てることも疑念を抱くことも人生においていくらでもあります。しかし、「大阪(弁)の反逆」「批評F運動」というふたつのテキストを読み、あの書評が「からかい」という「最悪の差別行為」の「スタイル」を採用した、ということを知った以上、看過できなくなりました。これは僕からしたらありえないことですが、小峰さんからしたらそうでもないのでしょうか。僕の感覚からしたら、この点こそ「人間性」に関わる問題です。「『からかい』は『最悪の差別行為』である」という命題(「大阪(弁)の反逆」)か、「小峰書評は『からかいのスタイル』である」という命題(「批評F運動」)か、どちらかを訂正することはありませんか。
 そもそも、「スタイル」とはなんでしょうか。ここではおそらく、「文体 style」のことですよね。でも、これもくり返し表明していますが、僕には「文体」という言葉はよくわかりません。それは、町田康論でも小峰書評への応答でも表明したとおりです。町田康論で引用した柄谷行人「文体について」の別の部分(冒頭1段落)を引用しておきます。

 文体とは、あいまいで、ときにはひとを煙に巻くときに用いられる語である。たとえば、「この作品で私は文体を変えてみた」という場合、文体は技術的であり取りかえがきくものである。それにたいして、「彼の作品には文体がある」という場合、文体は技術的形式とはちがった形式であり、作品の意味内容とはちがった意味をさしている。あいまいなのは後者の「文体」である。それは、「文体」という語がメタフォアとして用いられているからだ。前者の場合、文体はふつうの意味で用いられており、はっきり確かめられるものとしてあるが、後者ではメタフォアとして用いられている。それは明確に定義できない何かであり、そのかぎりであらゆる定義をこえて生きのびるだろう。

「文体について」『批評とポストモダン』

 さしあたり、小峰さんは、柄谷が言うところの「前者」の文体と「後者」の文体を意図的に混同させている、と指摘しておきます。自分は「スタイル」=「文体」を「技術」的に「取りかえ」るが、誰か(例えば、赤井浩太さん)の「文体」については差別を含んだものとして、つまり「後者」の「文体」として扱って批判する。そしてそこに巧妙にも自己批判を潜り込ませ、その自己批判については、今度は「前者」の文体として扱ったうえで「取りかえ」る。他方、「文体」を間接的に称揚した者(この場合、杉田俊介さん)までをも批判対象とする。自分は「文体」を「取りかえ」ながら。この点に関しても川口さんの言うとおり、「文体」ではなく「生き方」の問題です(念のために言いますが、「なかよし」だから川口さんや杉田さんの味方をしているわけではないですからね)。
 もう少しだけ。くり返しますが、僕の立場からすると、なんでもねらい通りの「意志的」な行動は、《芸》として評価できません。少なくとも《おかしさ》と名指すことはできません。
 小峰さんは「世の中のからかいは芸人をまねた『二流』の『芸』として行われます。そのことを学校教員である矢野さんは知らないはずがありません」と書いています。この箇所は僕の仕事を盾(意地悪な言いかたをすれば、人質)にしているようで、こういう細部も気になるのですが、まあそれはいいです。重要なのは、《おかしさ》という問題意識のなかで注目すべきは、からかう側ではなくて、自分の意に反してからかわれている側のほうだ、ということです。《芸能》の問題は逆の側において問われています。そこから、からかう側の問題を捉え返して欲しいです。だから、「芸人的な文体で矢野さんを語ったことで、矢野さんの人間性が損なわれたなら、それは私の『二流』の戦略が成功したことを意味しています」という部分は、著者としては本当に不本意です。
 小峰書評の意図は、相手(矢野)のスタイルを自らが徹底化することで相手を封じる、ということですかね。そのとき対象本に対する評価があれこれと変転するのは、まさに自分が「変転」する「主体」ということを示しているのだ、と。さらに、その「戦略」は「政治技術」であり、それによって「活動家」という立場を表明した、ということですかね。
 だとすれば僕の感想は、①「戦略」の前提となる相手(矢野)への認識が甘い/間違っている、②「戦略」が先立ち過ぎて牽強付会になっている(策士策に溺れている)、③自らが批判する行為(ここでは「からかい」)を相手に行使することの態度の良し悪しが問われる、④さらに、その態度を取った「責任」を免除するような論理をこしらえることの倫理が問われる、⑤もろもろわかりづらい、といったところです。
 でも僕は、「批評F運動」で示された小峰さんの意図は、実は事後的に作ったものではないかと少し疑っています。直感的には、書評では「からかいのスタイル」を採用した、という部分を疑っています。もし書評の意図が、本当に「批評F運動」で示されたものだとすれば、僕は功名心のために踏み台にされたほうがまだマシでした。いまこれを書いている僕自身だって、いままさに、この瞬間において、この手の功名心に苦しんでいるさいちゅうですから(もちろん、小峰さんの「功名心」は僕の推測にすぎません。念のため)。生きているうちは精一杯にやるとして一緒に地獄に行きましょう、という気持ちはあるつもりです。

「大阪(弁)の反逆」について

 さて、まだ応答すべきことが残っています。川口さんの「小峰ひずみ論」によれば、「大阪(弁)の反逆」という論考は、小峰さんにとって「矢野の戸惑いと疑問」に対する「答えているかもしれない、答えるかもしれない」文章なのだ、ということです。このあたりは「批評F運動」の矢野に対する言及の前半にも関わるところでしょう。
 まず「大阪(弁)の反逆」で面白いと思ったところを挙げると、現代日本のポピュリストの台頭をハンナ・アレントの「労働運動」論のロジックで説明した点でした。ただ、もし僕だったら、この説明ののち、自らの側にある「労働運動」のポピュリスティックな側面を検討する方向に行く気がしますが、小峰論では「ポピュリズム」に対して「あなたの批判相手である労働運動と同じロジックである」と批判する方向に進みます。思考のクセの違いということもあるかもしれませんが、この相手の揚げ足を払うような批判のしかたが、僕に対しておこなったものと同型に思えるので、この点も考えるポイントのような気がします。小峰さんはここでも、「ポピュリスト」に憑依して自らが揶揄的な態度を取る、という奇妙な「戦略」を見せています(「この『憑依』という言葉こそは矢野が町田康論で使用したものではなかったか」とか、しょうもないこと言わないでくださいね。めっちゃ言いそうだから念のため)。
 応答すべきは「批評F運動」の前半部と呼応する部分です。とはいえ前半部も申し訳ないですが意味がつかみづらかったです。小峰さんいわく、自分は「享楽」とともにある大阪弁という「文体」を採用し、それは「活動家」という「人間のあり方」なのだ、と。まず小峰さんの立場の確認です。でも、これが後半の「芸人的な語り」の採用とどのように接続されるのか、ちょっとわからなかったです。
 さて、小峰さんは以下のように述べています。

 矢野さんは知識人であるよりも生活者であることを優先しました。ただ、「生活者」であることを是とするという考え方そのものが、維新の会をはじめとした構造改革派ポピュリズムのやり口であることは「大阪(弁)の反逆」で論証した通りです。

 小峰さんにとって「維新の会をはじめとした構造改革派ポピュリスト」は敵として見出されているものですが、かりにも《大衆》派を表明している僕としては、当然のことながら「構造改革派ポピュリスト」も読者・話相手として想定されています。やや慎重に言わなくてはいけませんが、いわゆる「ポピュリズム」を肯定するところから思考を始めています。ちょうど一昨日書き終えた論文では、教育言説における「新自由主義批判」批判をおこなっています。この点は、川口さんや杉田さんとは意見が異なるところかもしれません。引き続き、議論を続けるべきところでしょう。次に「言葉」の問題へ。

八〇年代の漫才ブームで大阪弁は「お笑いの言葉」として受容され、芸能色の強い言語になりました。いまや「お笑い芸人の言葉」に収まらず、主要方言として存在感を増しつつある。しかし、『今日よりもマシな明日』では、その大阪弁がカギカッコに入れられて標準語で論じられている。これは見誤っている。この四十年間ほどで言語間の力関係が変わりつつある現状を矢野さんはわかっていない。

 引用部だけ読むと、「この四十年間」における「言語観の力関係」の変化の内実は、大阪弁が「芸能色の強い言語」「主要方言として存在感を増し」たことでしょうか。だから矢野による「標準語」は、矢野の意図に反して「生活者」を語る言語になりえない、ということでしょうか。
 かりにそうなら、僕はそうは思いません。小峰さんの議論とは平行線になりそうですが、僕はそもそも「文体」という水準を認めていないので、〇〇弁であるかということは、僕にとってはさしあたり副次的なことでしかありません。というか逆に言えば、大阪弁であることはそのまま「生活者」の言葉たりえるんですか。
 小峰さんは「大阪(弁)の反逆」において、「言葉はメディアを通して人々に浸透する」と指摘しつつ、テレビにおいて「生活者」の言葉としての「大阪(弁)」による「階級闘争」が演じられた、という整理の仕方をします。しかし、これは単純だと思います。そもそも、標準語(東京弁?)を使用する小泉純一郎・小沢一郎の「語り口」に「生活者」側のポピュリスティックな言葉としての機能を認めている時点で、〇〇弁というレッテルは分析装置として機能していないじゃないですか。
 さらに言えば、現在のしゃべくり漫才の創始と言える漫才作家・秋田實(小峰論でも鶴見俊輔の対談相手として一瞬登場しますね)は、自らの漫才を全国ラジオで放送するために、漫才を「標準語」化させているんですよ。「全国中継なので、大阪弁は分り難いから、なるべく標準語で喋ってほしい」というのが、昭和初期のラジオの条件でした(秋田實『私は漫才作者』)。そこにはまさに、逆向きの言語的な闘争があったのです。秋田がエンタツ・アチャコで試みたのは、えげつない「生活者」の言葉から離れて漫才をまさに「国民」のものとするものでした。その漫才の歴史性のさきに「漫才ブーム」やM-1グランプリがある、というのが僕の認識です。M-1審査員の隅っこに座っていたオール巨人こそ、秋田の薫陶を受けたひとりですよ。その意味では、「漫才ブーム」以後に覇権を握ったらしい「大阪弁」は、そのまま「生活者」の言葉を意味とは言えないのではないでしょうか。
 現在において、東京生まれ・東京育ちの僕が「標準語」で《大衆》論を展開することに問題性も矛盾もないと思います。「標準語」化された大阪弁の「文体」が無害なように。念のために言っておくと、植民地主義における言語の問題は重要です。「標準語」はその点において問題になります。言語的闘争の存在そのものは認めます。というか、「国語」教員という立場において他人事ではありません。もっとも、単なる「標準語」批判にも与しませんが。ただ、「この四十年」に関西弁が相対的に広がった、という認識から、矢野の「標準語」は無効である、小峰の「大阪弁」は有効である、という導出はできないと思います。それだけの話です。
 そもそも、その本質論的な言語観は素朴だと思います。小峰さんは、ナイツ・塙氏と吉村誠氏の議論(注1)に乗るかたちで、「感情」や「怒り」を乗せやすい「方言」は「強い」、という主張をしていますが、では、2022年にM-1グランプリ優勝となったウエストランドが、長らく「標準語」を目指したことはどうなんだ、とかいろいろ疑問が浮かびます。「〇〇弁に変えたらウケるようになった」という事実があったにしても、〇〇弁にしてもウケない人もいるので、これは論点先取だと思います。
 むしろ僕は、「一流」の芸人としてのナイツ・塙の言葉なら、こちらのほうが重要だと思います。小峰論で引用された箇所の1ページ前にある言葉です。

言葉を変えるだけなら簡単です。でも、その変えた言葉に魂を乗せることができなければ漫才では使えません。

ナイツ・塙宣之『言い訳』

 小峰さんは、むしろこの塙の言葉によって批判されてしまうのではないでしょうか。「文体」を「取りかえ」可能のものとして扱っており「魂」が乗っていない、というのは、川口さんが「生き方」の問題を指摘したことや僕が「心がこもっていない」と指摘したことと同じです。ここに、マキタスポーツさんの言葉も加えましょうか。塙の言葉もマキタさんの言葉も、小峰さんが読んだ本に書いてあったはずです。

ちょっと硬い言葉ですけど、責任を取れる発信が重要なんですよね。やっぱり自分でケツを拭ける範囲の言葉を使うこと。そのためには、心技体の一致が大事だと思うんです。

「芸能における身体とはなにか」『人志とたけし』


 小峰さんは、お笑いや《芸能》についてまだ考えが深まっていないと思いました。とくに関東の演芸については考えがいたっていないのかもしれません。
 ちょっとロマン主義っぽくなりますが、《芸能》は政治性を抱えるかもしれませんが、いわゆる「政治」のいとなみではないと思っています。だから、そもそも政治家・橋下徹の言葉遣いと《芸能》の言葉を同じ水準に並列化することに、少し違和感があります。橋下徹の「政治家」としての言葉は、いくら「大阪弁」であっても《芸能》的ではない、という可能性があります。なぜなら、「魂」の乗らないパフォーマンスの可能性があるからです。その言葉は「二流」の「芸」である可能性があるからです。このたび、橋下徹と同じタイタン所属の爆笑問題・太田光が浅草キッドの水道橋博士の著書の帯文を書いたことをめぐって、ふたりが揉めていたときのラジオの録音を聴き直したので、最後に引用しておきます。機会があったら聴いてみてください。この放送はその後、豊崎由美さんや大森望さんのことも言及しつつ、批評(書評)行為についてまで展開するので。

博士、橋下徹をあなたが批判しようが、同じプロダクションだからと言って(帯文をーー注・矢野)引き受けないなんてありえないですよ。(中略)俺と橋下なんて水と油。言ってみれば、思想信条も違うわけですよ。(中略)博士と橋下徹の関係もわかっているし、その時点で俺がどう思ったかと言うと、橋下ふざけんなですよ。というのは、俺は芸人だから。政治家と違うから。「小銭稼ぎ」って言ったら俺にも回ってくんだから。しかも博士に向かって「小銭稼ぎ」という言いかたは、いくらなんでも礼を欠くだろうと思ってるし。(中略)俺、政治家じゃなくて芸人なんだから。むしろ、博士の仲間ですよ。仲間っていうか付き合いも長いしね。

TBSラジオ『火曜JUNK 爆笑問題カーボーイ』2018年2月20日放送

 まあ、とはいえ、こうやって小峰さんの言葉にみんながツッコまざるをえない状況をもって、僕は自分の論旨上、いまの小峰さんを「ボケ」として見ているところがあります。こうやって傷つき傷つけられ、多数でもないだろうけど不特定の人の衆目を集めていること全体が、いちおう《芸能》のいとなみなのだと言えます。ムカつく相手とだって「思わず」(『今日よりもマシな明日』)手を取り合ってしまうんです。それが一概に良いか悪いかはもう少し考えさせてください。でも僕は、川口さんの文章を皮切りにみんながいろんな意見を出した、といういとなみの連鎖自体は、まあ良かったのかなと思っています。ではひるがえって、このさまざまな人のエネルギーと徒労、感情の揺れ動き、時間の浪費、思考の散乱に比して、小峰さんの「からかいのスタイル」は本当に、小峰さんが言うように《芸能》たりえているのでしょうか。

注1
「議論」と書き直しましたが、最初は「尻馬」と書いていました。あとで読み直したら、不必要に感情的な言葉だと思い、修正しました。むしろ結果的に「尻馬」に乗ったのは、川口好美さんと杉田俊介さんの記事に続けて本記事を出した矢野のほうだとは思います。もちろん僕含め三者は三者ともそれぞれのタイミングで執筆・発表しているので、なにかを示し合わせていることはないのですが、とはいえ、「尻馬」に乗ったと思われても仕方ないとは思っています。(2023年3月16日追記)

参考


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