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I'll still love you, DEV LARGE !!!

※この記事は、2015年5月に書かれたものです。

――Yo! そして天まで飛ばそう!

なんて、解放的な響きだろうか! 当時14歳の僕は、このフレーズの、4回のリフレインを聴いたとき、いままで味わったことのないような、ポジティヴな幸福感に包まれた。「いままで味わったことのない」は全然誇張ではなく、音楽に限らず、映画でも小説でもなんでもいいが、人がなにかに目覚めるときの、夢見るときの、呪われるのときの、あの名状しがたい幸福感は、僕の場合、ブッダ・ブランドによってもたらされたのだ。とりわけ、Dev Largeのトラックと声によって。あの頃の僕にとって、「H.KON」というクレジットは、本当に特別だった。音楽とレコードが、僕の人生の多くの時間と大切な部分を支えているのだとすれば、僕の人生は、ブッダ・ブランドに、Dev Largeに、かなりの部分決定づけられてしまったと言っても、まったく嘘にはならない。もちろん、それ以前にマイケル・ジャクソンの踊りは覚えていたし、スチャダラパーや小沢健二の曲だって、なにもわからずとも口ずさんではいた。ブッダ・ブランドを知ったきっかけは、『さんぴんCAMP』のサウンドトラックだったから、同時にシャカゾンビにも、ECDにも、四街道ネイチャーにも、YOU THE ROCKにも、少なからず心をわしづかみにされた。そのすぐあとには、ライムスターやマイクロフォン・ペイジャーにも出会うし、KRSワンにもまもなく出会う。ローリング・ストーンズやボブ・ディランやはっぴいえんども、もう少しあとになれば、大事な存在として出現するし、その頃には、素晴らしきレア・グルーヴの数々にも心を奪われている。しかし、最初が肝心なのだ。ザ・ハイロウズの「14歳」を聴いたとき、僕の頭のなかで鳴っていた音楽は「人間発電所」であって、それ以外ではない。スイッチを入れたとき、いつでもどんなときでも14歳に戻してくれるのは、甲本ヒロトにとってはビートルズ、水道橋博士にとってはビートたけし、僕にとってはブッダ・ブランドだ。本当に人生が一変した思いがあったので、98年夏以降、ブッダ・ブランドに出会ってから1年、ブッダ・ブランドに出会ってから2年……というかたちで、時間の経過を確認していた。いまでも忘れない、高校2年夏の晴れた日、当時16歳の僕は、MDウォークマンで「人間発電所」と「ブッダの休日」を聴きながら、荻窪駅北口を出た。家に向かって、抜け道である光明院という寺に入る手前、だんだんと緑が増えていくところで、もう心の底から、「俺は音楽が好きな人生で本当に良かった。ブッダ・ブランドに感動できる感性を持っていて、本当に良かった」と、その幸福感を噛み締めたのだ。いつまでも、この時間が続けばいい、と。この気持ちよさが続けばいい、と。この気持ちよさにやられてしまいたい、と。

っていうかさ! 言っちゃうけどさ! 次にPヴァインから出す予定のミックスCD、リリース時のele-kingインタビュー、インタビュアーの候補は俺だったんだよ! もちろん、まだ口約束の段階だったけど、レーベル側もele-king側も、D.L.さん本人だって! そのことは承諾してくれていたんだよ! 本当に、もうすぐ、たぶん今年中くらいには、会えるはずだったんだよ! ゆっくり話す機会があるはずだったんだよ! もちろん、インタビューは仕事だから、好き勝手に雑談なんてする気はなく、来るべき新作が多くの人に届くような、一度聴いた人も聴きかたが変わるような、そういうインタビューをしようと思っていたけど、でも、取材前後の時間で、自分がどういう思いでブッダ・ブランドやDev Largeという人を見ていたか、その思いの一端くらいは伝えたいと思うじゃんか! 中学校の給食の時間に「人間発電所」をリクエストした話とか、D.L.さんがソウルトレインに出演したとき、そのエピソードをメールに書いて読まれた話とか、高校の英語のノートを全部グラフィティのタイプで書いていた話とか、現代文授業の短歌作りのときに、ブッダのリリックをサンプリングして全部自由律短歌に仕立てて、まわりから変態扱いされた話とか、同じく、修学旅行の感想文をやはりブッダ他日本語ラップのパンチラインをサンプリングして書いて、こっちは優秀作に選ばれた話とか、高校の卒業ライブで「大怪我」をやって全然上手くいかなかった話とか、トム・スコットの話とか、ボブ・ジェームスの話とか、クール&ザ・ギャングの話とか、マルコム・マクラレンの話とか、「FUNKY METHODIST」のサンプルがオージェイズだと思いきやスティーヴ・カーンだった話とか、それをスティーヴ・キューンと混同していた話とか、柳ジョージ&レイニーウッドのいなたさとか、ブラック・バーズの話とか、プラシーボの話とか、90年代プロファイル・レーベルのサウンドの厚さとか、日本語ラップ黎明期の話とか、さんぴんCAMPの話とか、渋谷系の話とか、ファンキーなオールドスクール・ヒップホップの話とか、その他すべての愛すべき音楽の話をさ、その感動をさ、全部ではないにせよ、その一部は共有したかったよ。だって、Dev Largeだよ? それで、あわよくば顔見知りになれば、レコ屋で会ったりイベントで会ったり、いろんな話をできそうじゃん。そんなことをさ、人に言うのは恥ずかしいけど、夢想していたよ、14歳の少年のように。

いや、そんな自分中心の話はどうでもよくて、寂しいのは、これはマイケル・ジャクソンが死んだときにも思ったけど、D.L.さんのなかにまだまだアイディアが溢れていた、ということ。しかも、かなり具体的に。DJがまえの曲にインスパイアされて次の曲を選ぶように、ブレイクからブレイクにつなぐように、素晴らしき音楽の数々に刺激を受けながら、アイディアが次々と溢れていた。ミックスCDのリリースだって決まっていた。それが実現できないこと、あるべきだった音楽の可能性がなくなってしまったこと、そのことが寂しくて寂しくてしかたない。そして、あの声がもう聴けないということ。ファンとして、それはやはり寂しい。臨終の間際、D.L.さんに無念さが少しでもあったらと思うと、それを想像してしまうのが、もちろん大きなお世話なんだけど、とても寂しい。いや、仏教の教えに共感していたD.Lさんのこと、案外、これも大きな摂理のなかにある小さな出来事に過ぎないのだ、と受け止めていたのだろうか。「ブッダの休日」では、「自然のリズムつかみ俺ら行くのさ」と歌われていたけど、やはりこれも、「自然のリズム」の一部ということなのか。

他人の気持ちを語ることなんてできないし、俺にD.L.さんのことを語る資格なんてあるのか、と考えたりもする。でも、資格がないと言われ続けた人たちがヒップホップを作りあげてきたのではないか、とも思う。楽器のできないやつが音楽をやる資格なんてない。日本人がヒップホップをやる資格なんてない。そういう声に負けなかったからこそ、日本語ラップの名曲たちが生まれ続けているのではないか。そう思うから、自分もしっかりと言葉を発したい。サンプリングは、取り戻せない時間を取り戻そうとする行為だ。あの愛すべきメロディは、D.Lによって、それこそ輪廻転生するように蘇った。俺の言いたい言葉は、すでに歌われている。だから、あの愛すべきメロディとともに、サンプリングをするつもりで、その曲名を叫びたい。

I'll still love you !!!
I'll still love you, DEV LARGE !!!

天まで飛ばそう! マジで天まで飛ばそう! 届いてくれよ、マジで!


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