《物語》について(常識と陰謀論/前編)

 例によって、《物語》の必要性ということを、いつもとは少し違う角度から書きます。
    アメリカの大統領がトランプになったあたりでしょうか、「陰謀論」という言葉が普及し、多く使われるようになりました。陰謀論に関してもさまざまな議論があるでしょう。基本的な定義は、「ある出来事の背後に特定の集団・組織による大きな力が働いていると考えること」といったところですが、その側面のひとつとして「実際にはまったく関係のない出来事どうしを結びつけて物語化する」ということがあります。無関係なささいな出来事を根拠として結び付けて、背後になにかしらの《物語》を捏造してしまう。この《物語》の中身が「特定の集団・組織による大きな力」となったとき、陰謀論めくところがあります。例えば、ワクチンで人口増加を抑制することができる、といったビル・ゲイツの10年まえの発言を「根拠」として、「新型コロナウイルスはビル・ゲイツによって計画された陰謀だ」という陰謀論が一部で広まりました。
 さて、考えたいのは、この、陰謀論を含む「《断片》をつなげて《物語》化をする」という一連のプロセスについてです。「《断片》をつなげて《物語》化する」という水準だけで言えば、いわゆる科学的な論証でも陰謀論でも違いはありません。現在においては合理的・科学的とされていることが、当時においては非合理的・オカルト的だった、ということもありました。反対に、いまのオカルトが当時の常識的理解ということもあるでしょう。占いや預言のたぐいも、基本的には《断片》の《物語》化というかたちで示されます。
 人文学の領域では、この《物語》についての議論は、批判的にであれ擁護的にであれ、しばしばなされます。このあたりはまたさまざまな文脈があるので、ここで詳細に書くことはできませんが、ひとつ論点になるのは、《物語》の恣意性の問題です。つまり、「《断片》をつなげて《物語》化する」以上、「つなげる」主体というものがあって、そこでは、その「つなげる」さいの力学(歴史性・権力性)が抱え込まれる、ということ。いや、そのような議論よりもっと手前で、「つなげる」主体の思い込みや偏見、あるいは事実誤認などによって、《物語》はとうてい現実的ではないものになる可能性がある。陰謀論的な《物語》も、そういうものと言えるでしょう。その意味で、《物語》は必然的ではない=恣意的である、ということです。
 その一方で、いくら恣意性がつきまとったとしても、人間にとって《物語》化は避けられないのだ、という論調もあります。このこともさまざまな人が言っています。思い出すままに参照すれば、例えば、「人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう」(千野帽子『物語は人生を救うのか』)、あるいは、「わたしたちは何らかの「物語」なしに、自分の感情を感じることも、自分を把握することも、行動することも、何かを理解することも、他の人々との同意を得ることも、あるいは誤解、決裂することもできない」(竹村和子『愛について』)など。おおざっぱに言えば、いずれも、わたしたちの認知の恣意性を確認したうえで議論を展開する、という構成になっています。
 したがって、人文学の領域では、恣意性を抱えざるをえないが完全に無視することもできない《物語》について、ときには批判的に、ときには擁護的に、議論され続けているような印象があります。

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