東京オリンピックをまえにして

・東京オリンピックが、開幕直前にいたってなおひどい状況です。2013年、東京オリンピックが決まったとき、大学院ゼミの同人誌ではオリンピックについて考える特集を組んでおり、そこでは次のように書き始めていました。

 二〇二〇年のオリンピック開催地が東京に決まった。「東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも及ぼすことはありません」という謎の断言とともに招致されたオリンピックへの僕の印象は、佐々木敦と同様、「愚の骨頂」(『en-taxi』2013・冬)だというものだった。(『F』2013.11)

 もっとも当時、短期的な景気回復を求めるリアリティもあったとは思うので、そのあたりは差し引いて良し悪しは考えよう、とも思っていました。とは言え、引用部での安倍晋三の「断言」と同じく、オリンピック招致するさいの、原発の汚染水についての「アンダーコントロール」というコメントからして、多くの人と同じように疑念を持っていました。そして、その疑念は払拭されないまま、8年経ったと思います。8年まえからなにも変わらずに来たのではないか。すなわち、ガバナンスはまったく取れていないにもかかわらず「アンダーコントロール」と強弁されている状態。暑さ対策からコロナ対応まで、東京都も政府も、まったくオリンピック実現に向けて納得のいく説明をしないまま、ここまで来ている。
    その底にあるのは、やはり責任を取らない態度だと思います。なにがいちばん罪深いかと言えば、このかんの政治において、まともに責任を取ろうとする人がどこにもいないことだと思います。オリンピックをめぐっては、おいしいところだけフリーライドしたいというフェイクな欲求と器の小ささのみを感じます。本当に、《責任》を取る人がいないなら興行を打つ資格などない。スタートラインにすら立っていない催し、政治的判断以前にゴーサインする根拠がない。政治的判断においても反対だが、それ以前感が強いです。一般的な組織論で、《責任》は上の立場の人が取るもの。でないと、立場の弱い人にしわ寄せが行くから。オリンピック組織委員会は組織的にたいへん脆弱だった。
・一方で、近代的な主体概念が揺らぐにともなって《責任》概念がキャンセルされるような局面は、これは日常の場面においても感じなくもありません。例えば、刑法39をめぐる議論、あるいは、少年法をめぐる議論など。買ったまままだ読んでいませんが、さしあたり、國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成』を参考に考えたいと思います。古くて新しい《責任》という概念を再考したいところです。
・4度目の緊急事態宣言にともない、経済財政担当相の西村康稔が、酒類提供停止に応じない飲食店に対し、金融機関と情報共有をしながら働きかけると発言(のち撤回)。おいおいおい、どういう根拠で政府がそんなことをできるんだよ。「要請」通りに「自粛」をしない店や客への見せしめ・いやがらせというメンタリティなのだろうけど、本当に低劣な支配欲であり、危険なことだと思います。あまりこういう野暮ったいことは言いたくないけど、こういうことをした政府だということは忘れてはいけない。小池百合子の一連の動きについても同様。
・職業柄、思い通りにならないことに対して、強権を振るってしまう欲望は理解しないとは言わない。そういう危険性とはつねに隣り合わせだと思っています。だからこそ、そのような振る舞いはリアリティをもって批判するべきです。
・「自粛要請」という《責任》を取らない態度について、引き続き考える。上記、西村(および政府)の蛮行も「要請」というグレーゾーンのなかで拡大解釈される。《責任》不在のなかで、結果的に強権が振るわれる。荒木優太『無責任の新体系』も読み直すべきか。
・ここは、周囲の人と意見が異なるかもしれませんが、緊急事態法は整備して推し進めるべきだと考えています。もちろん、制限付きで。2015年くらいの一連の議論のときから、そう思っています。「緊急事態」にまつわることを制限をかけながらある程度明示化しないと、逆に国家権力が暴走する可能性があるからです。
・さらに言えば――こういうこともあまり言いたくはないのですが――集団的自衛権も容認の立場です。集団的な安全保障を構築するために、必要なら9条も改憲したほうが良いと考えています。とは言え、一方で、例えば小泉政権下でイラク戦争に参加したことはやはり間違っていたとも思っており、ようするに、そういう主体的な外交政策の議論を細かくおこなっていくためにこそ、従来的な(なにをもって従来?)、個別自衛権のみを合憲とする9条のありかたを問い直すべきだと思います。かなり穏当で国際標準の意見だと思いますがどうでしょう。
・他方、上記踏まえつつも、現政権が進める改憲案はかなり危険な感じなので、改憲/護憲の二項対立の憲法論にしないで、個別の議論を熟成させるしかないと思いますが、正直、そういう議論がこの日本社会において深まっていくイメージができません。
・この3日くらい、またツイッターにあてられていて、それは、小山田圭吾と藤本タツキ『ルック・バック』をめぐってなのですが。
・『ルック・バック』は素晴らしい作品だと思いました。基本的にTwitterで話題になるものには言及しない、という自分ルールなのですが、「単に周囲の意見に流されて、素晴らしいと思ったわけではない」と強く思ったので、そのことを自分で表明する意味も込めて、自分ルールを破って感想を2ツイート。その後、じょじょに作品に対する批判も出てきました。見知った限りでは、①実際の事件を作品化することについて、死者をどのように扱うかという観点からの批判、②殺人者が「統合失調症」のステレオタイプであることに対する批判、というふたつでしょうか。①については、作品のテーマ自体がそこに向かい合っていると思うので、賛否どちらにせよ「向かい合っている」ことを前提に考えないといけないと思いました。そのうえで①の批判はそんなに当たらないと、僕は思っています。②は、大事な指摘だと思いました。僕自身は少し違った印象も持ちましたが、とは言え、ありうる、受け止めるべき批判だと思いました。もう少し言えば、①と②に通底するような《表現》そのものをめぐる暴力性というものがあって、それをどのように考えるか、ということを問われるように思いました。そのことを見すえている作品なだけに。「良い/ダメ」のツイッター的二分法にとらわれず、引き続き考えたいと思います。
・同人誌『文学+』のウェブ版が開設され、批評の「速度」をめぐる問題が提起されました。僕自身、まさに『文学+』の座談会で「速度」の問題に言及しており、そこそこ関心のひとつです。このことはしっかり文章化したいと思っています。
・川口好美氏の『週刊読書人』時評に住本麻子氏が反論する、ということがありましたが、この健全な、異なる意見が交換される光景がいかに稀少に思えたか。ウェブにおいては、まずはブログ的な形式が、このようなごく普通の意見交換の「速度」の場所になっている、ということでしょうか。
・小山田圭吾については、とてもTwitterで書けるものではないです。簡単に意見できるレベルとしては、あのような過去記事がずっと指摘されていた人なのだから、パラリンピックに関わる人としてはふさわしくない、ということでしょう。これはいわゆる「身体検査」的な話として。「悪趣味カルチャー」その他については、長く取ると中学生のときから、短く取ってもここ10年くらい、ずっとどこか考えていることなので、しっかりと向き合っていきたいです。

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