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【感想】劇団ひとり補完計画としての『浅草キッド』レビュー~表層的な世界でたったひとつ宿った真実とは~

ネットフリックスで劇団ひとり監督の『浅草キッド』(2021)を見た。ビートたけしによる自伝的小説の映画化であり、下積み時代のたけしと師匠の深見千三郎の関係が描かれていく。多くの人は、たけしの青春物語として、昭和の浅草のノスタルジーとして、本作を消費するのではないか。ただ、自分は劇団ひとりの徹底的な空虚さと、ゆがんだ同化への願望が表出した作品として興味深く見た。詳しく書いていく。

表層の芸人・劇団ひとり

さて、そもそも「空虚」は劇団ひとりを象徴するキーワードだといっていい。ひとりのネタはさまざまな奇人に扮し、笑いを誘うものだ。彼が演じるキャラクターには哀愁がある。だが、不思議と人間味は感じない。なぜなら、ひとりの演技はどこまでも表層的で、キャラクターの感情とは切り離されているからである。

典型的な例が、ひとりが長く司会を務めているテレビ番組『ゴッドタン』の人気コーナー、「キス我慢選手権」だろう。当初は美女にキスを迫られ、我慢する男性芸人の滑稽さを笑う企画だった。しかし、ひとりが即興芝居を過剰に演じるようになってからは、キスにいたるまでのドラマ性が強調され始めた。この企画のひとりを「天才」と評する人も多い。

ただ、ひとりの演技はあくまでも「この場で何を言えば面白くなるか」を考え、回答していっているだけに過ぎない。演技の世界でいうところの「反射」からは程遠い手法だ。よく見れば、ひとりの演技にはいつでも、相手の言葉に対する間がある。心を揺さぶられて台詞を吐いているのではなく、頭で考えている証拠である。ひとりの芸は「憑依型」と言われるが、彼が誰かに憑依したことは多くない。単に、それっぽい表層を作り上げた後で、ディティールを突き詰めているだけなのだ。真の憑依型に属するシソンヌのじろう、かもめんたるのう大などとは、似て非なる芸だろう。

いうまでもなく、憑依型の芸人が表層型の芸人よりも優れているわけでも、劣っているわけでもない。スタイルの違いは優劣を意味しない。それでも、表層的な記号表現に依存しているひとりが憑依型に見えるのは、そこに迷いがないからだ。記号を過剰に散りばめ、強烈に感情を発散させる振りをし、ときには涙を流すこともある。興味深いのは、ここまで自分を客観視できている人間が、「感情」にこだわっていることだ。言い換えれば、自分が「感情を持っている生き物」だと思われたがっているという事実。それは、逆説的に、ひとりの芸が感情を伴わない、表層の産物だと示している。

ビートたけしと松本人志への同化願望

ここで、ひとりのルーツについて振り返っておこう。ひとりがリスペクトを公言している人間は多いが、その中でもビートたけしと松本人志からの影響はもっとも強い。なぜなら、青春時代に憧れた2人によって、ひとりはお笑いの道を志しているからだ。そして、ひとりはたけしと松本の2人に対し、強烈な同化願望を見せている。学生時代のひとりがリーゼントだったのは、若手時代の松本人志に憧れてのことである。また、ひとりはたけしに憧れるがあまり、後輩芸人を「あんちゃん」と呼ぶという。売れない後輩とつるむ理由として、「たけしさんのような気分になれるから」と述べていたこともあった。

もちろん、誰でも心のアイドルはいるだろう。その人に近づこうと、ファッションや話し方を真似るのも自然な行いだ。しかし、ひとりほど分かりやすく、一貫している人間は珍しい。こうしたひとりの同化願望は、彼の芸風の核にある空虚さと容易に結び付けられる―と考えるのは自分だけなのだろうか。自らの空虚さを自覚しているからこそ、尊敬する先人を理想化し、同化したいと願っていしまうのではないか。

そうは言っても、現実問題として他人と完全に同化することなどできはしない。どこまでいっても他人は他人、自分は自分である。もしもそんな無理難題を叶えられるのだとしたら、創作物の中でしかありえない。

ひとりが演じてきたキャラクターの中に「尾藤武」という男がいる。普段は気の弱いサラリーマンだが、憧れのビートたけしの物真似をすることで本音が出るという設定だ。自分は、尾藤武だけにはひとりの「憑依」を感じる。おそらく、尾藤はひとり自身の願望だろう。「ビートたけしのようになりたい」のではなく、「ビートたけしになりたい」。ひとりは実生活でなしえなかった願いをコントで叶えようとした。さらに、映画撮影でも。

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