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お気に入りの服って、あなたをどうするものだろう。

この度noteを投稿させていただきます。亀田准季と申します。
服飾に対する記事やこのコミュニティに参加するきっかけについて投稿させていただこうと思いましたが、なにやら変容してしまいました。
「着る」とは…について、僕の身の回りにある話について少しだけ話させてください。

【想像できる僕らは、想像できないお気に入りの服をどうするか考えないといけないと思う】

ジョン・レノンが、「想像してごらん」っていってから、時間は経ったし、そのフレーズを僕が知ってからもそれなりの時間は経った。

「想像する」って、具体的に何をするのだろうか。
「食べる」「暮らす」そして、「着る」方が簡単にできる気がする。
「衣食住」中で「食」「住」は命に関わる。「衣」はそうではない。にもかかわらず、最初に「衣」がくるのはなぜか。それは人間だからだ。となにかに書いてあった。(※1)
「食」「住」は動物も行う。しかし、人間は社会を構築し牙や爪の代わりの武器としてきた。それゆえ、防寒などの機能としての「衣」だけでなく、社会性の「衣」の概念な生まれたのだろう。サラリーマンのスーツとか、ユニフォームとか、制服とか、体操服とか。レジメンタルタイなんか、まさにそう。この辺は、高校の家庭科の選択授業で習った……気がする。
そして、「暖かい」以外の「着ることへの喜び」もここから芽生えたと思う。
でも、「苦しみ」「不安」を感じる人もいる。
もちろん「着る」ことに対して。

私は、いわゆる「学校の先生」である。(教員という呼び方は固いし、教師は尊大でむず痒い)今は都合あって小学校にいるが、基本的には、「特別支援学校」なんていう、スペシャルな感じのする場所で働いている。このスペシャルな学校は、聞き馴染みがあるようなないような…といった具合だろう。長くなってしまうので検索していただきたい。
僕の職場には……(というよりこの世界には)「自閉症スペクトラム/自閉スペクトラム症(ASD)」と呼ばれる子たち、人達が多くいる。(※2)

(ここからはやや専門的な話になってしまう。おおらかに、概ね、だいたい、アバウトに読んでもらえればいいと思う。)

このASDの方々には、いくつかの「生きづらさ」がある。
そのうちの一つに「こだわり」と呼ばれるものがある。これは「こだわりの一品」「僕のこだわりは、冬も素足に革靴」のように、「一貫した美学」のような、平和なものではない。
なかなか「想像デキナイ」かもしれないが、簡単に言うと「特定の行為を繰り返したり、執着したりしてしまうこと」だ。

僕が教えていた子の例で言うと、ある子は教室から出るときに左足からしか出られない。うっかり右足からでると怒るし、後で「右足からでてしまった」ことを思い出して、パニックになったこともあった。

ASDの方々にはこの他にもいくつかの「生きづらさ」はあるのだが、基本的には「想像できない」ことが根元にあるらしい。

相手の立場や、言葉のニュアンスなどが「想像できない」

「この先の予定や、◯◯する自分が『想像できない』から、不安になる」

「不安にならないように、『想像できる(結果がわかる)』行動を繰り返し安心する(≒こだわり)」

だから、ASDの子達と会話をするとき、指示をするとき、なるべく具体的に話をする。「上着を着て」とか「脱いだ服を畳んで、かごにいれて」とか。
ジョンレノンの言葉は抽象的で、この子達には届かない。

ここからが本題である。
そんな「生きづらさ」を有する子達の中には、「服」に対する生きづらさがあることもある。
ある子は、体操服でしか登校しない。毎日、体育の授業の有無にか変わらず体操服。それは、「決まった服しかきれない」という「こだわり」からだった。引継ぎ資料にも「体操服しか着られない」とばっちり書かれてしまっている。
言葉では「お気に入り」といってはいたが、「お気に入り」しか着られないのなら……僕らのいう「お気に入り」の服には、前向きのニュアンスが強い。しかし、彼らの「お気に入り」には、どこか選択肢の狭さを感じる。
そう、もっと前向きに「服を着る」ことを知ってほしい。

あの新しい服を手に入れたときの高揚感を、あのストーリーをはらんだ服を着たときのわくわくを、「服」にまつわる「安心」だけでなく前進するような喜びをもっと感じて欲しい。
 
 強すぎる「こだわり」の縛りから抜け出すにはどうすればいいのだろうか。似たような指導をしたことがある。

「偏食」だ。

その時は調理実習をして、自身で調理させることで、(その子にとっての)新たな味覚への挑戦させることができた。子供は大人より「自分が作ったもの」の輝きを強く感じるらしい。その輝きは「こだわり」の縛りをほどくよう程に。
本来は「縫う」こともさせたかったが、そこまで行くと時間も予算もかかるし、途中で挫折させてしまう結果も待っているだろう。既製品に手を加えるなら?どう加える?

 選択したのは「草木染」であった。
 保護者に依頼し、綿のTシャツ、シャツ、ハンカチetcを準備し、みんなで「玉葱」「紅茶」「コーヒー」で染めた。市販キットだが「藍染」もした。
(教室を汚しながら)はしゃぎまわった授業は、半日に及び、夏の校舎に19枚の衣類が干された。子供たちは満足そうであったが、どうなるだろう、想像ができない…

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翌日は終業式だった。
僕は子供たちが染めてくれたシャツにネクタイを締めて1学期の終わりを迎えた。
さぁ登校時間。子どもたちは…

染めたものを着てきた子、そうでない子は半々。

「着てないんかーい」なんて、みんなで笑ったことで良しとしようとも思った。

でも、少し時間がたって。
2学期になってから、ある子がいった。

「終業式はきてこんかったけど、夏休みはたくさん着た、お気に入りだもん」

体操服しかきれなかった子である。
どうやら知らないところで、無事「お気に入り」は増えたようだ。
別の子も、自分で染めたTシャツが気に入りすぎて、さまざまな重ね着を駆使し、7月から11月周辺まで着ていた。
僕は少し、いや結構うれしかった。

きっと、この授業があったところで、目に見える大きな変化なんてないのだと思う。子どもたちの未来が明るくなったわけでも、社会的な「生きづらさ」が消えたわけではない。日々の教科書の指導の中で、授業の記憶も薄れていくかもしれない。数年後には、「あぁ…あんなこともあったな」程度だろう。
でも、春が来たとき、あの子の引継ぎ資料には「体操服しか着られない」の記述はない。
かわりに「お気に入りの服しか着れない」の一文を書いておこうと思う。


服は、きっと僕らの人生を前へ進めてくれるものだと思う。
だって「人間の武器、社会性の象徴」であるわけだから、それくらいの効能は期待していいはずだ。
いや、それだけでなく、暖をとるためだけでなく、社会性を保持するためだけでなく、「お気に入りを着る喜び」もくれると思う。

ここで、想像してほしい。
お気に入りの服って、あなたをどうするものだろう。

そして、少し想像してほしい。
「着る」だけのことが、少し大変な子どもがいることを。

最後に、ちょっとだけ想像してほしい。
「僕らが纏うモノ」についての授業のちょっとした意味ついて。

2019.12.27 亀田准季 (KAMEDA JUNKI)


(※1)出典不明…インターネットなのか、書籍なのか、漫画なのか、SNSなのか…
(※2)少し前までは、アスペルガー症候群と呼ばれていたものも、ASDに統合され、重度の自閉症の方も、アスペルガーと診断された子も、今はASDである。この辺の話も、長くなるので「そんなもんか」と思っていただき読み進めてほしい。

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