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ラーメン食い逃げ王の失敗

就職氷河期世代の淡い恋のゆくえとは。
短篇小説です。原稿用紙40枚ほど。15分で読めます。

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 吉立町のキングは悪態を生む。すれ違う男は彼の肩にぶつかると罵倒の言葉を浴びせ、女たちは軽蔑しきった目で彼を指差し噂話を始める。小学生は道を塞いで、先に行きたければ百円渡せと脅迫し、飲み屋街の客引きは彼を見るなり、おっぱいおっぱいキャバキャバとからかう。そのつどごとにキングは、身に受け止めた憎悪を口に出して返すのだ。ぶっ殺すぞ、俺。彼が大きな息でそう叫ぶ時、キングの殺害予告は、キング自身に向けられている。まれにその息にかすかな声が乗ってしまい、人に怪しまれることもあるものの、音なき声は彼の身体から怒りの腕力を回収してゆく。
 キングは今、歩いている。大地は隈なく舗装されているけれども、人間の住む土地には必ず埋まっている怨念が、足の裏から伝わってくる。多くの者どもはそれをそのまま頭のてっぺんから空に向けて放出しているが、キングにはそれができない。体の内側に溜め込んでしまう。だからキングはますます異形となってしまう。それは彼の責任ではない。
 吉立町駅の駅前は商店街になっていて賑わう。商店街の終点には映画館がある。キングの歩行の目的はそこだ。仕事が休みの日に映画を観ることを、唯一の生き甲斐としているのだ。雑踏を生き延び、なんとか目的地に到着した。階段を上がって、窓口で切符を買う。金を払う。開場時間まで精を取られぬよう立ち尽くす。
 映画が終わると、こんどは図書館に向かう。そこで文字の詰まった雑誌を読む。キングは物語が好きだ。映像で味わった後は、文章による物語を探してしまう。読書しているあいだ、キングの周囲は皆、鼻を鳴らす。本当は悪臭から鼻頭を親指と人差し指で挟んでしまいたいが、露骨にやるとキングの怒りを引き起こしそうだから、くんくんと鳴らした後はなるべく息を止めて我慢をしている。キングはもちろん全部自覚している。だからあまり長居する気になれない。そそくさと図書館を後にする。
 図書館は飲み屋街の外れにあって、駅に向かう近道は雑居ビルに挟まれた狭いアスファルトを抜けることだ。キングはわざと遠回りするような姑息なことはしない。客引きを怖れずにゆく。どしどしと何も気にしない風情で歩いて進む。声をかけられても動じない。駅の高架下に置いてきた自転車に鍵を差して、吉立町九丁目に所在するという駅からは随分と距離のあるアパートを目指して帰途につく。キングにとってはいつもの帰り道も冒険そのものだ。
 キングはまめだから冷蔵庫に物を入れていて、そのいくつかに火を通して食べる。キングは出来たてなら、たいていの物はおいしいと感じる。腹が詰まると、パソコンを使う。彼はインターネット回線に繋がった携帯端末を持っていない。無線電話機も所持しない。部屋にはテレビもない。彼に情報をもたらすのは、単四電池二本で動くポータブルラジオと、インターネットの海に繋がるノートパソコンだけだ。
 キングは町で溜め込んだ悪意をキーボードで打ち込んでいく。何か書き込む度に彼は嫌われ、遮断されていく。それでも彼はやめない。排泄しない動物はいない。それはキングも同じだ。体に取り入れてしまったもろもろは汚物として外に出さないといけない。だから彼のネット活動は全く生産的でなく、ネットの海を汚染する一方なのである。
 キングは休みの日には風呂に入らない。働かなければ体は汚れない。だから必要ない。デジタル目覚まし時計が朝の五時半に鳴るよう細工されていることを確認してから寝ようと努力する。今夜は労苦が実ってすんなり寝付けるだろうか。

「今日は四時から裏広場でアイドルのライブがあります。ライブが終わったらゴミが落ちていないか確認してください。以上」
 朝のミーティングでマネージャーは言った。畳の敷かれた六畳の部屋の隅には鍵のかかるロッカーが置かれ、卓袱台が中央に位置し、その上には漫画週刊誌が投げてある。朝七時から始まった労働時間は九時五十五分で一段落し、十時にデパートが開店する頃、屋上建て屋のさらに二階にある事務所、その片隅が衝立で囲まれていて畳敷の待機所となっているのだが、そこに集まり、清掃員はマネージャーから連絡事項を伝えられる。キングは百貨店の清掃作業員だ。今朝は婦人服売り場にモップを掛けた。開店前の店内、作業を始める時間は薄暗く、冷房も効いていなくて暑い。人の背丈ほどもあるモップを床に滑らすと、みるみる埃が集まり手許は重くなる。朝の掃除は忙しい。全ての手順を十時の開店までに必ず間に合わせねばならない。時間の定めが絶対だから、決められた手順であっても、省くべきところは省く必要がある。知恵の回らない者は、省いても支障がないものが何なのか見極めることができないで、クレームの原因を作ってしまう。
 ミーティング時は男女の作業員が集まっていたが、その後は女の作業員は他の休憩所などに散らばり、待機所は男しかいなくなる。十時半になるまでは清掃作業員は売り場に姿を見せてはいけない決まりになっている。十時から半までの三十分間は待機時間で、基本的には畳の上でごろごろしていて可だ。仰向けになって目を閉じた。すでに体は疲労の塊となっている。寝つくことはできなくても、横になっていると息が和らぐ。時間が来たら、すぐに立ち上がらないといけない。
 このデパートの吉立町店は古い造りになっていて、各階で出たゴミは四隅にキャスターがついた大きな鉄の箱に放り込んで、それを人力で押して地下の排出場まで持っていく必要がある。男の作業員が主にする仕事は百キロを超えるゴミの山を腰を屈めて押し進めることだ。百貨店のバックヤードでは次々とゴミが産まれていく。衣服を詰めていた段ボール箱、その衣服ひとつひとつがまとっていた透明なビニール、店内を巡回して得られたゴミ箱に入っていた物体やちり取りにあった埃、空き缶、ペットボトル。それらを簡単に分別して鉄の箱に積み直し、業務用エレベーターに乗って地下に行く。地下はなぜか轟音が響いていて、大きな声を出しながらいかつい顔をした廃棄物受け取り人のおっちゃんたちに、可燃です、不燃ですと大声とともにゴミを渡す。夢で生成されたデパートの店内と、従業員専用の扉をいっぽ入ったら存在する現実しかないバックヤードの落差は、この仕事に就いた者が初日に味わう洗礼だ。ゴミの引き取りを終えて鉄の箱を空にしたならば、元の位置まで戻す。そして隅に置かれた用具箱から自在ホウキとちり取りを装備すると、店内巡回に繰り出す。
 デパートには季節がある。太陽の作り出す季節とは少し時間がずれているデパートの季節。今は真夏のはずなのに、セールが終わったばかりの店内はもう秋一色で、店員のひとりは毛の塊を首に巻いている。ホウキを床に滑らしながら歩く。歩行は常に猫背で、地面を見続ける義務を負う。床に黒い筋が出来ていることがある。ヒールマークと呼ばれるもので、靴の裏で擦ると浄化される。
 清掃作業員が通り過ぎているだけなのに、女の店員は人の気配だけで声を出す。いらっしゃいませ、ご覧くださいませ。キングは店内を歩き、階段を降り、バックヤードに入り鉄の箱に溜まっているゴミの量を確認し、店内に戻り、歩く。受け持ち時間が終わるまで、鉄の箱の運搬と、店内巡回を続ける。昼飯はテンキューと呼ばれる社員食堂で食べ、待機所で横になり、休み時間が終わると、午前と同じ繰り返しだ。キングの労働時間は四時で終わる。事務所に戻って点呼を受けて、ロッカー室に向かい着替えをして、業務用の出口から外に出る。
 音楽が聞こえている。デパートの裏は広場になっていて、コーヒースタンドの椅子とテーブルも並べられているのだが、ときおりその一角に簡単なステージが組まれて、今日みたいにアイドルやらお笑い芸人やらがライブをすることがある。キングは音の鳴るほうに向かった。数十人の人垣の向こうには、四人の人間が歌いながら踊っていた。
 キングは騒動の現場に近づいてゆき、歌い踊る少女らにあわせて大声を上げている主に男の取り巻きたちのすぐ後ろに立った。
 あみです、すずです、さくらです、うーみんです、わたしたちワクワクタウンズです。歌歌いを一段落させた四人組はステージで棒立ちになり、自己紹介をした。そしてふたことみこと喋ると、また歌い出した。キングはじっとステージを見ていた。するとどこからか視線を感じたような気がした。時の含みを内包しているような視線だと思念する。
 アイドルたちの出演が終わると、ビラを配っている人がいたので、キングは手を差し出して入手した。月末は吉立町にあるライブハウスで歌うらしい。グループ名の正式名称は、「ワクワクTOWNS」であることをキングは知り得た。
「キングさん、こういうの好きなんすか」
 後ろから声を掛けられる。振り返ると、浅黒い顔をして、目の下のくまは大きいのに目は細い男が作業服姿で立っていた。キングの職場のマネージャーだ。キングはただ無言で頷いて、お疲れさまですと返事した。
 マネージャーも、お疲れさまですと鸚鵡返ししたきりそれ以上は発言せず、ゴミ探しの作業に戻った。キングは今の仕事をもう五年も続けているが、マネージャーは数ヶ月前に吉立町店にやってきたばかりだ。彼は自分をキングよりも年下だと思っていて、さん付けでキングを呼ぶ。前任のマネージャーは、キングと呼び捨てにしていた。上司からさん付けされて、キングは自分の加齢を実感する。
 キングはもらったビラを読み直しながら、自転車置き場まで歩いた。また冒険が始まり、九丁目のアパートを目指すのだ。

 吉立町には大きな公園がある。公園の中央には池があって、水が透明だ。澄んだ湖面には水草が浮いていて、貸しボートが浮かんでいる様子を見ていると、クロード・モネが生き返ったらきっとこの場所で絵筆を取るに違いないと確信する。キングは散歩する。ひとりの少女が必要なくらい、目の前の光景が美しい。絵画を構成するには、絶対にあの少女がここに立っていなければいけない。それはキングの記憶にある女の子だった。ときおり青い時代の実らなかった思い出がキングを穢す。今に生きることが大切だ。分かっている。けれど過去から完全に自由になれたのであれば、自分が自分である必然性はどこにもないのではないか。
 空は青く濃く広がっている。太陽は皮膚を刺す。汗を拭う。昨夜のことを思い出す。ワクワクTOWNSの悪口でめいいっぱいネットの海を汚染した。顔は可愛いけど、普通。曲はいいけど、歌の声量が少ないと思う。アイドルが踊っているあいだ、にやにやしてしまったのは事実だけど、別に感動したわけじゃない。それよりもあいつら。オタクと呼ばれるアイドルのファンら。大声で変な言葉を叫び、せっかくの音楽を台無しにする。あのような者たちはちゃんと攻撃されなければいけない。
 公園の一角は動物園になっていて、キングはそこでコールダックを見るのが好きだ。黄色いくちばしと真っ白な羽毛の十数羽が檻のなかで、食べたり歩いたり何もしていなかったりする。ただ純粋に彼らの存在が肯定されている様を羨ましく感じる。動物園の動物に自由はない。けれど幸福がある。己はどうか。選択肢はいくつもあったはずなのに、言葉も喋れないコールダックすら持っている肯定を、自分はちっとも得られていないのではなかろうか。キングは動物園で他にはカピバラとリスを見る。彼らを祝福することで、自らの存在理由を整えたいと思う。
 翌日、午後四時前になったので、作業を終えて事務所を目指し、子供服売り場から屋上に出た。ひさしのあるベンチには人間がひとり腰掛けていて、横目でそれらを見遣り、屋上建て屋の二階に向かおうとした。すると女に声を掛けられた。
 スマホ落としたみたいなんですけど。髪はやや長めで、少し日に焼けている女は、キングと同世代のようにも見えた。痩せていて、顔には経験が積まれているように思量する。
 二階にお客様センターがありますので、そちらで聞いてみてください。キングは答える。女はキングの顔をまじまじと見詰めている。あれ。キングも女の顔をしっかりと見た。
「キングだよね」女に問われて、キングは頷いた。
「覚えている? わたし。松下。中学高校で一緒だった……」
「あ、え? まっちゃん?」
「そう、それ。キング、この前も見たよ。ワクタンのライブいたじゃん」
「ワクタン?」
「ワクワクTOWNS。ここでライブしたでしょ」
 キングは、今仕事終わるところで着替えてくるからと伝え、大急ぎで事務所に行って点呼を受けてロッカー室で着替え、従業員用出入り口から外に出ると、通常の入口から店内に入り直して、屋上まで来た。ベンチで座って待っていると、よかったスマホあったよと言いながら、忘れ物を取り戻した松下が戻ってきた。
「ちょう久しぶりじゃん。確か大学一年の終わりに同窓会であったっけ?」
 松下はキングの隣に座って言った。
「俺は浪人してたから受験終わったばっかりだったけど」
「東大受かったんだっけ?」
「落ちて別のところ行った」
「キングは賢かったからなあ」
 松下は身の上話をし出した。彼女は地元の国立大学を卒業後、就職活動は上手くいかなかったので、思い切って上京してCDショップのアルバイトに就いた。二年ちょっとでそこは退職し、それから職をいろいろやり、結婚したり離婚したりしてから、零細の芸能事務所にスタッフとして入社して、一年前からはワクワクTOWNSの運営に関わっているらしい。音楽が好きで若い頃は自分がステージに立ちたかったけれど、もろもろの末いまはアイドルを運営側から支援する仕事のほうが性にあっていると感じているそうだ。
「まあ地下アイドルだけど、いちおう芸能界じゃん。だから業界人並みというか、やばめなことも多くてね。心折れそうになっちゃうけど」
 松下はキングの顔を覗き込んだ。
「キングはデパートの掃除?」
 松下に聞かれて、素直に肯定だけした。しかしキングは自分の所属する物語について話すことができなかった。ただ今の勤務条件を述べただけだった。
「うちら、氷河期世代じゃん。みんな事情ある人多いよ。だから同窓会も結局なかなか開かれないしね」
 キングは松下と標準語で会話していることに気付いた。十年くらい前まではキングにも年一回正月に会う高校時代の友人がいた。キングにとってはたったひとりの友達だった。彼とは顔を合わせるとすぐに地元の方言を使って会話をしていた。なぜ松下とは方言で話すことにならないのか、キングにはその理由が分からなかった。
 その後、ふたりでファミリーレストランに入った。ドリンクバーと軽い食事をお互い注文した。中学や高校の時の話を延々と続けた。内実としては、松下が一方的に話し、キングが相槌をしていただけではあるが。
「ライン教えてよ」
 レジでそれぞれ自分の分を支払った後、松下はキングに依頼した。
「スマホ持ってないんで」
 キングは回答した。
「じゃあメールは?」
「ケータイも持ってない。あ、でもフェイスブックはいちおうアカウント持っている、偽名だけど」
「そうなんだ。わたしもやっているから。今、友達申請しとくね」
 レストランから駅に向かってふたり並んで歩いた。松下はキングに懇願した。ワクワクTOWNSのライブにぜひ来てよ。今度、吉立町でワンマンライブやるんだ。千円でチェキも撮れる。
 駅までつくと、キングは言う。俺、自転車なんで。あれ、キングこの辺に住んでんの? 九丁目。わたしも吉立町に住んでるよ、九丁目とは反対方向だけど。そうなんだ。また会うかもね。

 その夜の冒険は波乱に満ちていた。自転車は段差にとられひっくり返りそうになったり、無灯でやって来る他の自転車と衝突しそうになったり、ハンドルになにかまとわりついているようにも感じた。なんとかアパートにつくと、すぐにキングはマットレスの上に寝転んだ。
 松下とは中学三年生の時から高校卒業までずっと同じクラスだった。公立中学から同じ高校に進学し、たまたま同じクラスになった。さらに奇蹟は続き、二年生の時も三年生の時も同じクラスに配属されたのだった。その時はあまり会話を交わすことはなかった。その高校では昼休みに日直が用務員室からお茶の入った大きな薬缶を教室まで運び、めいめいが自分のコップにお茶を注いで飲んでいたのだが、松下は高校一年生の夏休み明けくらいから、自分たちのグループでお茶を入れ終わると、必ずキングのところまで持ってきてくれた。それは卒業するまで続いた。高校三年生の時分、キングはたちの悪い同級生に苛められていて、教室内に居場所がなかったにも拘わらず。
 当然、キングは松下を好きになった。しかも松下はワクワクTOWNSのメンバーなんかよりずっとか可愛かったとキングは回想する。けれど、ふたりがしっかりと会話するのは、高校卒業後一度だけ開かれた中学のクラス会の時だけであり、当時たしかに意気投合したものの、それ以上は何も起きなかった。事の起こし方をキングが知らなかったからである。
 一度なら偶然はある。もしそれが二度あればもう運命である。キングは松下にすすめられたとおり、ワクワクTOWNSのライブに行くことにした。キングの父親は三年前に死んだ。僅かながら遺産相続もあり、年収一年分の貯蓄はある。ライブに行って物販でチェキ券を買うくらいの資産は十分にある。だがキングの場合、チケットを予約してライブが近づくと、デパートで服を買った。初めて自分が働いている店で買い物をしたことになる。いつもは安い床屋を使っているが、美容院にも挑戦した。身だしなみを整えて、ライブ当日を迎える。心のどこかで二度目の運命を期待していることは否定しない。

 ライブハウスは地下にあって、受付で予約している名前を言ってお金を払った。ロビーには何人かが滞留している。キングは勝手が分からないのでそこで立っていた。すると小太りの男からカードが渡された。今日は初ワンマンなのでメンバーにメッセージをお願いします。色とりどりのペンセットも差し出されて、頑張ってね、とだけキングは書いた。会場内に入って、ドリンク券でビールを注文し、紙コップに入ったアルコールをその場で一気飲みした。後ろの柵のほうに立ちすくんで、上演開始を待つ。
 開演時刻が近づくと、メンバーであるあみを名乗る人物の注意事項をアナウンスする声がスピーカーから聞こえてきた。撮影禁止、ダイブ禁止、リフト禁止、モッシュ禁止。ドリンクの引き換えはお早めに。ステージにはスモークがかかり始める。白い霧が立ちこめると、ここにも絵画的現実があったのだとキングは気付いた。
 出囃子の音楽とともに四人の少女が登場した。黄色、水色、ピンク、紫。それぞれのカラーに包まれたステージ衣装。ステージの真ん中で円陣を組み、ワクタン行くぞ、と声を上げると、大きな音楽が始まり、彼女たちは歌い踊る。
 キングは今回のライブの予習として、ワクワクTOWNSのウェブサイトと、ユーチューブにあがっているライブ動画をいくつか見ておいた。正直、ネット動画でみるライブはあまり盛り上がっているようには思えなかったが、狭いライブハウスの密封された閉鎖空間で爆音が響くと、オタクたちの鬨の声のような異様な大声と合わさって、暴動現場の真っ只中にいるような興奮が涌いてきた。黄色はあみ。手足の動きに切れがあって、小さな体が飛び跳ねているように思える。水色はすず。声がいい。歌声だけで場の空気を支配してしまいそうだ。ピンクはさくら。ダンスの時の表情が自信に溢れていて、彼女がこちらの方を向いて指差す時、目が合ったような気がする。紫はうーみん。なんだか色っぽい。余韻を感じさせる振りと歌。同じ空間にいる者たちを惑わせる。
 ライブ中、四人の歌い手たちが舞うこの時空は、宇宙開闢からの歴史のなかでただ一度この日のために集められた素粒子から構成されていて、それはどこまでも完璧に世界を構築していると思った。これまでとは訣別した新しい宇宙の開始点が胎動しようとしている。ビッグバンの特異点そのものが、ワクワクTOWNSから始まってしまうのだ。ライブが終わる頃、もう世界は新しく創造されたものに置き換わっている。
「君が殻を破らなきゃ、世界は救われないのさ」あみがサビのフレーズを歌うと、ライブ会場はもっとも熱量が高くなった。
 四十分くらいでライブが終わり、物販の時間になった。松下がチェキ券を売りさばき、それを購入した者はアイドルの各行列にならんで、順番が来るとチェキ券を渡してアイドルとツーショットの写真を撮る。一分間の時間が与えられ、アイドルはチェキにサインをしながら、客と会話する。
 キングはあみがいちばんかわいいと思った。高校時代の松下に面影が似ていると感じたせいもある。しかし彼の目的はあみではない。キングは四回行列に並び、四人のアイドル全員とそれぞれチェキを撮った。チェキ券を買う度に松下にひと言話した。なににやついてんの。いやそんなことない。松下はこの場所でも、まっちゃんと呼ばれてオタクどもから慕われていた。
 家に帰ると、松下からメッセージが届いていた。楽しかったでしょ、また来てよ。キングは何文字か打ち込み、返事をした。その夜は、忙しくチェキ券を売っている松下の光景を何度も反芻しながら眠ろうとした。

 清掃の仕事をしていると目が良くなる。視力が上がるわけではないのだが、床の小さな汚れを発見できるようになる。床のかすかな黒い筋を見つけるたび、靴の裏を擦って正常化する。仕事の成果が目に見えるのは心地よい。身体の疲労があったとしても、素晴らしい仕事のようにも考える。ただ賃金の額を考慮しなければ。
 あのライブの非日常から、毎日の労働の世界に戻るにはしばらく時間がかかった。数日間はライブのことばかり思い出していた。松下にも会いたいとも思った。けれど、あの一回きり、もう他のライブには行かなかった。キングは分かっていた。今の自分は松下と関わる資格をまったく持っていないことを。
 休みの日は映画館に行った。映画には青春があった。若者の活躍があった。憧れの職業があった。事件があった。暴力と陰謀があった。自分が映画を観るのは、それらを知らないからだ。一流と呼ばれる大学を中退せざるを得なくなり、その後は何も得ることができなかった。キングはもうずっと悪態をついているだけの生活を送っている。世界を知らないから、映画館に通い、世界を垣間見る。
 キングは吉立町の路地を歩いてゆくのが好きだ。歩けど歩けど知らない道を発見することが出来、それが想定外なところに繋がっていたりして、だから晴れて気温も良い休みの日には、自転車に乗らずに歩くこともある。歩行していくだけで、見えてくるものが違ってくる。神社を見つけると、手を合わせてお祈りをする。何か良いことがありますように。とても小さな幸運がどこかに落ちているかもしれない。キングは諦めている。けれど絶望していない。毎日がただ続いていくその事実だけで、死にたいと思うことから逃れることができる。求めているのは、淡々とした平穏だ。かき乱されるものは少しでも少ないほうがいい。松下を想う。彼女には彼女の人生がある。それでいいのではなかろうか。夜、古本屋を出たら白いワンピースの女が二車線道路を横切るのが見えた。渡り鳥のようだった。そろそろこの町を離れようか。いったい悪態を生まなくて済むのであれば、他の土地でもやっていけそうだ。

 職場に新人が入ってきた。服飾の専門学校に通う男子学生である。キングは彼と共に現場に入り、仕事を教える。学生は「だりー」が口癖で、キングの前でもだりーだりーと繰り返す。
「地震が起きた時のマニュアルが更新されました。今から配るのでポケットに入れて携帯するようにしてください」
 その日の朝、マネージャーは皆の前で言った。午後、学生と共に裏広場に出る。
「地震が起きたら、真っ先に逃げますよ。お客優先とかあり得ないから。お前ら時給いくらだよって話」
 キングは学生の話に相槌をうつ。
「キングさん、何でこんなだりーところで働いているんすか」
 学生は煙草の吸い殻を火ばさみで摘まみながら言う。
「きれい好きだからね」
 キングが答えると、まじっすかと学生が反応した。
「マネージャーに聞いたんですけど、キングさんて頭いいんですよね」
 昔のことだよ、キングは返す。
「今日、暇っすか、飯行きません?」
 学生に食事に誘われた。キングはこれまで昼食すらひとりで食べることを課してきた。飲食を共にしたのは前任のマネージャーに缶コーヒーをご馳走になった時だけだ。
「うん、分かった」
 キングは応諾した。なぜ自分とは性格もまったく合いそうにない男と食事をするのを可としたのか、キングはその分析をしかけてすぐによした。
 仕事が終わると、学生がよく行くというラーメン屋にふたりで向かうことになった。デパートを出て商店街を横切り路地に入ると音楽が聞こえてくる。乃木坂やん、学生は言った。
 アダルトショップの道路に面したところだけ、アイドルグッズが並べられていて、モニターには少女らが陣形を組んで踊る様子が映っている。学生は鼻歌を歌い、キングに尋ねた。
「握手会行ったことあります?」
「アイドルの?」
「そう。俺、乃木坂の何回も行ってるんすよ、手ぇとかめっちゃ柔らかいの」
「自分、アイドル興味ないからなあ」
「じゃあ、何に興味あるんすか、キングさん」
 学生はキングと目を合わせた。軽く茶色に染めた長髪と細い眉、片耳のピアス。キングは飲み屋街にいたいつかの客引きを思い出した。
「ネット」
 キングがそう言うと、ネット、と学生はいちモーラいちモーラ力を込めて繰り返した。
「インターネット面白いっすか」
「面白いよ、いろんな人がいるし」
 学生は、そうすねと発言し、以降黙った。ラーメン屋に着いて、ふたりとも食券を買う。ライス無料の店だというので、食券を店員に渡してから、ライスをめいめい自力で茶碗に入れる。
「食券制の店で食い逃げする方法って知ってます?」
 ラーメンを待っている間、学生は白米に漬物を載せて食う。
「前、牛丼屋で働いていたんすけど、九割くらい食い終わってから、髪の毛入っているとかクレームつけて返金させる客とかいたんすよ」
 キングは学生を見る。箸を上下に振りながら学生は言う。
「あきらかに自分でごみ入れてんだけど、めんどくさいから返金しちゃうんすよ」
 やばいね、キングは反応する。
「やばいすよ。キングさんも金がない時、やってみるといいすよ」
「俺は無理だな」
「まあキングさんは無理っすよね、食い逃げってかんじじゃないっすよ、でもなんかぶちのめしたい時はやったらいいですよ」
 注文した品が到着すると学生は喋るのを止め、ふたりとも目の前に並んだラーメンとライスの処理に夢中となった。黙々と食べ、食い終わり、すぐにふたりで店を出る。駅に向かう。
「今日はありがとうございました。楽しかったっす」
 キングは学生と別れて、自転車置き場に行った。もやもやしたものが胸の奥から湧いてきて、何か叫び出したい気持ちになる。
 翌朝、開店前の清掃を終えて、事務所に向かうと、階段の上で学生とマネージャーが話しているのが聞こえてくる。
「まじで?」
「キングさんと飯食いましたよ」
「ありえねえよ。七不思議だからな」
「いい人でしたよ」
「いや不気味だよ。誰かと一緒とかありえないから」
「約束の千円」
「しょうがねえなあ、やるよ。お前、たいしたもんだよ。七不思議のひとつを解明したんだから」
 キングは階段の上昇を中止した。しばし硬直した。他の作業員が階段を昇ってきたのでふたりは会話をやめる。キングも階段を昇る。
 次の週は、仕事終わりマネージャーと学生との三人で居酒屋のチェーン店に飲みに行った。キングはふたりの発言を聞いてばかりいた。しかし酒をどんどん喉に流し込み、グラスを空にしていく。
「キングさん、酒強いっすね、意外」
 そう誉めてくれた学生ではあったが、そのさらに次の週、学生は仕事を辞めた。

 午後の待機時間、屋上裏にある休憩所に行った。同僚がベンチに座って煙草をふかしていた。キングは彼に会釈する。向こうも頭を少し下げた。
 自動販売機で缶コーヒーを買って、同僚の近くに座った。
「学生さん、辞めたね」
 キングは同僚に話し掛ける。
「辞めましたね」
 同僚は煙を吐き出す。
「俺、婚活始めたんですよ」
 同僚はむかいのビルを見ながら言う。
「障害者向けの相談所に入ったんですよ」
 そうなんだ、とキングは返事をした。
「障害者年金もあるから、この仕事してても余裕あるんですよ」
 同僚はキングの顔を見る。
「こう見えて知的障害なんで」
 そうは見えないけどね、とキングは言う。
「あ、男おんなだ」
 同僚は、自動販売機のところにいた清掃員の制服をまとった小柄な男を指して小声を出した。
 男はこちらに気付き、会釈をする。キングも頭を下げる。同僚はこちらに来るよう手招きをする。しかし男はぷいと体を回転させて、階段を降りていった。
「朝、ロッカー室であいつと一緒だったんだけど、着替えているところ見られるの嫌がるんですよ」
 恥ずかしがり屋なんだよ、キングは助言する。
「女みたいな男ですよね、まじで」
 同僚は煙草を水の張られたバケツに落とした。
「そろそろ時間ですよ」
 同僚は腰を上げ、キングも立ち上がる。
「キングさんから話し掛けてもらえるなんて珍しいですね。嬉しいです」同僚はそう言い残して、現場に向かった。
 終業時間前、ごみが少なかったので、時間が余ってしまった。キングは便所に行く。婦人服フロアのバックヤードにある従業員用便所。そこに辿り着くためには、服がみっちりと吊された廻廊を抜けないといけないので、人はあまり来ない。キングは時間を調整するため、便所に籠もることがある。
 便所の扉を開けると、さきほどの男がいた。洗面台で手を洗っている。肩幅のない小柄な後ろ姿から、制服の色を確認しなければ、女の清掃員が男子便所を掃除しているのかと見間違うだろう。
「お疲れさまです」
 キングは男に話し掛けた。男は振りかえり、あ、とだけ声を出した。手は石鹸まみれなのだが、洗いすぎだからか肘から先が赤くただれている。お疲れさまです、男は小さな、しかし甲高い声でそういうと急いで泡を流し、手も拭かずに便所から出て行った。キングは申し訳ないことをしたかもしれないと後悔する。

 休みの日、キングは公園を歩いた。池にはボートが浮かんでいる。キングは思案した。貸しボートに乗ってみたい。けれどもひとりで利用しては不審だろうか。平日の午前中、あたりを見まわしても人出は少なく、決意を固めて切符売り場に向かった。手漕ぎのボートを一艘、借りる。桟橋から小さな船に乗り移った瞬間、少し揺れた。しかし漕ぎ出すとすいすい後ろに進んでいった。
 池の中央でボートを停泊させる。水面からは水草が浮かんでいるのが見える。池を取り囲む木々は青く、太陽はまだ力を持っている。キングは松下を想った。彼女が目の前に乗っていたならば、自分も救われるのではなかろうか。だが、彼女は自分のボートに乗ることで果たして救われるのか。キングは空を見上げてから、再びオールを動かす。
 昼過ぎにアパートに戻ると、ユーチューブでワクワクTOWNSの動画を久しぶりに見た。彼女たちの歌声を流しっぱなしにしながら、預金通帳を確認する。やっぱりライブに通おうか。節度を守れば、そんなに散財しないはずだ。チケット代やチェキ代の売上が増えれば、松下の助けに、僅かであったとしてもなるだろう。キングはワクワクTOWNSのスケジュールを確認する。来週末、また吉立町でライブがある。メールで予約しようとしてキーボードを打ったが、送信ボタンは押さずに下書き保存にした。明日、送信しよう。キングは眠気を感じて昼寝をする。

 その日の夜十時、寝つくことが出来ないでインターネットを徘徊しているとメッセージが届いた。松下からだった。今、暇? 会える? キングは返事をした。どこに行けばいい?
 あの時と同じファミリーレストランの同じテーブルで落ち合った。どうしたの? キングは顔を合わせるなり、松下に尋ねる。うんちょっと。彼女は俯く。
 飲んでいい? そう言って松下はボトルワインをオーダーした。キングもそれに付き合う。
 キングは最近どう? 普通だよ。わたし、ちょっとね。何かあったの。うん、まあ。
 ふたりとも黙って、赤ワインを食べ物もなしに飲んでいた。とつぜん松下が泣き出した。キングが戸惑っていると、数分ひとりで泣いて松下はまた元に戻った。
「ワクタン、もうやっていけない」
「なんで」
「うちの社長が逮捕されちゃった」
「逮捕?」
「詐欺にからんでいたみたいで」
「そうなんだ」
「もともとワンマンというかパワハラぎみだったから、メンバーももう辞めるっていってるし」
「そっか」
 松下は社長の詐欺事件のことで、自分も事情聴取されたと言った。警察署で三時間くらい任意で取り調べを受けた。松下が警察に逮捕されるようなことはしていないし逮捕はされないとも述べた。
「でもアイツにはバックにやばい連中もいてね」
 そいつらからしばらく逃げないといけない。だから今夜、この町を出て行く。
 松下は千円札二枚をテーブルに置いた。これで払っておいて。わたしがここを出てから三十分後にキングは家に帰って。わたしと一緒にいるところを見られるとまずいから。じゃあね、また会うことがあったら、もうそんな偶然は二回も起きないけれど、今度は何かおいしいものを食べに行こうね。
 立ち上がろうとする松下の手首をキングはつかんだ。俺も一緒に行く。だめだよ、キングには関係ないことだよ。でも。足手まといになるだけだよ、そうだ、フェイスブックやっているんでしょ、ほとぼりがさめたら、新しいアカウント作って、またキングに友達申請するよ。本当に大丈夫? うん、信じて、大したことじゃないから、じゃあ、もう行くよ。
「うちもキングのこと好きやったよ、あの時代」
 松下は肩に斜めがけしたウエストポーチひとつの身なりでキングから離れていった。キングは指示どおり半時間、レストランにいて、残りのボトルワインを飲んでいた。酔いは少しも回ってこなかった。
 ファミリーレストランを出て、町を歩いた。どこかでまだ松下が待っているような気がした。ライブハウスの入口、デパートの裏広場、電器店裏の飲み屋街、神社の周囲の路地、公園の階段、吉立町駅コンコース。どこにも松下はいなかった。歩き続けていると腹が減っていることに気付いた。目に付いたラーメン屋に入る。豚骨ラーメンの食券を買う。タオルを頭に巻いたいかつい男に差し出す。数分後、ラーメンが出てきた。ラーメンを三分の一くらい食べたところで、もう腹一杯を感じた。松下のいる世界、松下と一緒にいる世界。いや松下が救われる世界。「君が殻を破らなきゃ、世界は救われないのさ」あみの歌声がどこからか聞こえた気がした。店員を見遣った。こちらを見ていない。頭から髪の毛を抜いた。ラーメンに入れた。キングは悪態を生む。
「お、おい、髪の毛入っているんだけど」
 大声で言った。
「すみません、作り直しましょうか」
 店員は笑顔で言う。
「お金、返して」
「お客さん、困りますよ」
 店員は真顔になった。
「金、返せよ」
「お客さん、さっき自分で髪の毛入れたでしょ。ばればれだぞ」
 低い声で店員は言う。
「うるさい」
「お前がうるさいよ」
 キングは立ち上がった。
「ぶっ殺すぞ、俺……わキングだ」
 店員とは目を合わさずに怒鳴り声を発声した。すぐに店を出た。数歩駆けて立ち止まり頭上を見上げた。薄白くぼんやりとした都会の夜の空に、ひとすじの流れ星が見えたと確信する。

 金具義智、四十一歳。ラーメン食い逃げの失敗である。

【了】


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