大久保チチョリーナ

「そんなことよりおっぱい見せろや、おっぱい」
 大久保チチョリーナはその大声に反応してしまった。ほんの一瞬、演説に間が出来、彼女の微かな動揺が群衆たちにも伝わる。出馬の動機を一語一語に力を籠めて語る彼女ではあったが、それを取り囲むようにして聞いている人間たちは、彼女の言葉よりも彼女の存在そのものにより関心を向けてしまったのだ。
「おっぱい!」
 また誰かが叫んだ。先ほどとは異なる男の声だった。大久保チチョリーナがまるで下品な揶揄をなかったことにして演説を続けても、群衆は卑猥な想像を逞しくしている。
「おっぱーい見ーせろー、チチョリーナー」
 おそらく最初に大声を上げた男だろう。手拍子を打ちながらリズミカルにおっぱいおっぱいと音頭を取り、上半身の服を脱ぎ捨てた。何人かがそれに同調しておっぱいと言い出したなら、おっぱいと口と突いて出てくる者どもが伝染していって、またたく間におっぱいコールは膨れあがる。おっぱーいと唄いながら半裸で踊る小集団に対峙する大久保チチョリーナは、肩から提げたトランジスタ・メガホンのボリューム・スイッチを指で確認する。スイッチを回すとハウリングしてきーんと響いた。慌てて元に戻す。滔々と喋っているように見えて、選挙戦初日の第一声、彼女はやはり動転してしまったのだ。もはや男たちが発する「おっぱい」という騒音は、演説よりもうるさくなっている。
「黙りなさい!」
 大久保チチョリーナが悲鳴のように叫んだ。群衆もいったん口を閉じ、刹那、静寂が広がったに思えたがすぐに騒ぎ出す。彼女は演説を止めてしまった。見かねた参謀が場を収めるため、マイクを奪おうとした時、大久保チチョリーナはゆっくり瞼を閉じた後、意志のはっきりと分かる目で群衆どもを見渡した。男、男、男、男、女、男、男、人間たちの両目はじっと自分を見据えている。彼らの網膜に映る自分を意識しつつ、たくさんの顔にひとつひとつ向き合おうと思った。ひとりずつなら、きっと通じるはずだ。いっぺんに処理しようとしたから駄目だった。一個の人間を意識してゆけば、その意識をもうひとり、さらにひとりと増やしていけば、集団は必ず自分の味方になる。
「私はAV女優です。この頃は新しく撮ってはいないけれど、私の職業はAV女優。確かに少し変わった仕事をやっているかもしれませんが、私の毎日は皆さまと芯のところでは同じなんです。同じ街を歩き、同じ空気を吸い、同じ水を飲んでいる。皆さまと共有していることのほうが、私の特別なところよりも、いくらでも大きいのです。私が選挙に出ることにしたのは、水と空気についての政治をやりたいと思ったから。毎日の事柄について、少しであっても善くしたいと願ったからなんです。おっぱいを見せるのは簡単です。でも、いま私がここで胸をはだけたら、もうそれで今日が終わってしまうでしょう。選挙期間は全部で12日間。初日で終わってしまったら、私は私の願いを叶えられません。おっぱいはお預け」
 言葉を確かめ、噛み締めるように、祈りをつめて語る彼女の声は、拡声器を通った後も透明でよく届いた。彼女の眼力がひとりひとりの目を捉え、制圧していく。おっぱいコールはだんだんと小さく萎えていって、最後は大久保チチョリーナの演説だけが、湖面を渡る水鳥の波紋のように、街に広がってゆく。雑多で騒がしいはずのJR大久保駅前はまるで静かで、大久保チチョリーナの舞台として完成していたのだった。
 ひとまず演説を切り上げると、スタッフは移動の準備を始め、そのあいだ大久保チチョリーナは差し出された手と次々に握手していく。頑張ってください、応援してます、そんな声援を受けながら、彼女はにこやかに、しかし、快活で機敏に身をこなし、ひととおり握手が済むとスタッフに囲まれるようにして、メタリックシルバーのワゴン車に乗り込んだ。佐藤令は朝からずっと大久保チチョリーナにカメラを向けたままだ。彼は助手席から身を乗り出すようにして、彼女を撮影している。隣に座った参謀から演説についてコメントをもらい、今日の予定をあらためて説明される大久保チチョリーナの顔には浮かれたところがなく、緊張感は若干残ったまま、まだ疲労は顔に出ていない。佐藤令はあえて無言のまま、彼女の表情をクローズアップする。
 そもそも彼女を捉えるレンズがセックスから解放されたのは、ドキュメンタリー映画「女優、大久保チチョリーナ」からである。監督として彼女を撮影したのは映像作家佐藤令であり、3年間半のAV女優としての活躍の後、半年間の休養を経て、彼は大久保チチョリーナを録画した。政治活動を本格化するため引退します、そう宣言して彼女はAVを去ったわけだが、それを額面通りに受け取った者は少ないだろう。週刊誌を賑わせていた彼女に関する記事、AV女優大久保チチョリーナは実在する人物であると、彼女の正体を暴こうとする報道がやはり引退の原因なのではないか、普段AV業界に関心のない人たちまでもが、彼女の身を案じていた。佐藤令が映し出した、もはやAV女優でない大久保チチョリーナは陰鬱だった。
「何かを目指しても何にもなれないし。みんな何かになった後でないと、自分が何になりたかったのか知ることができないと思う」
 彼女は引っ越したばかりのマンションの自室で缶ビールを握りながら呟くようにカメラに視線を向けて言った。もう今までの華やかさは失われている。
「あたしはあたしにとっての芸術を見つけていきたいなって。普通じゃないって思ってるし、もう戻れないし」
 もはや彼女は大久保チチョリーナでしかなかったのだ。それ以前の名が本当にあるのだとしても、帰り道はない。
「政治家ですか、嘘ではないんです。でも今はちょっと、うん、ちょっと待って」
 佐藤令は大久保チチョリーナの表情を、その一瞬を逃さない。御茶ノ水駅前で演説をする先鋭的な政治団体の前を通り過ぎる彼女には、あらゆる表情が消えていた。
 このドキュメンタリー映画は彼女について知る上で決定的な意味をもっている。まず大久保チチョリーナが非実在のセクサロイドなどではなく、実在する生身の人間であることがあらためて明らかになったこと。そして、彼女は内省的な人間である、つまり衣服の上に一枚の薄い影を常にまとっているような人間であることが分かったのである。
 今回の選挙戦も大久保チチョリーナ本人からの依頼で、佐藤令が撮影することになった。選挙が終わったらきっと1本のドキュメンタリーが公開されるのだろう。俺、西川泰永は3列シートのワゴン車のいちばん後ろの席で、彼女たちを観察する。俺も彼女から頼まれ、1冊のルポルタージュを書くことになっている。

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大久保チチョリーナ

ヤナ

440円

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