距離を超える好意
寂しさ、怒り。
共依存、寄る辺なさ。
成功体験、リスクヘッジ。
うん、いずれもしっくりこない。
「連帯感とは何から生まれるのだろうか」
と、道東を離れてから折につけ、僕は考えている。
連帯感でなく、チームやパーティと言い換えてもいい。
つまり、目的を持ったある種の共感。
それは、何から生み出されるのだろうか?
去年、道東でタクローくんという不思議な男に出会った。
(本稿のカバーフォト、空を見上げる青年がタクローくんだ)
それから僕は、そんなことを考えるようになっていた。
彼はまったく、無茶苦茶な男だ。
独自の善意の脊髄反射というスタイルにより、良かれと思ったことが全部、裏目に出る。
まず、去年、僕らを北海道に呼んでくれて、最大限の敬意を表してくれたのはうれしい。感謝をしているし、今、考えても「道東誘致大作戦」は、すごいプロジェクトだったと思う。
でも、彼は完全に接待をはき違えている。愛が過剰で重すぎる。
アメリカの大統領だって、こんなスケジュールで動いていないよ、っていうくらいタフな出張を作ってくれた。まさか、この年になってトラウマが生まれるとはね。
「隙間があったら詰める」というタクローくんの習性から、彼は「テトリス野郎」と呼ばれるようになった。(素晴らしい名づけ。さすが藤本さんだ)
強制給餌されたガチョウの肝臓が、肥え太ってフォアグラを作ると聞くけれど、うん、タクローくんの親切はまさにそんな感じ。「もう、食べられないよ!」と言っているのに、彼は真顔で僕の口に漏斗を突っ込み、棒でさらに「食え食え!」とカロリーを押し込んでくる。もう、いっそ、早く殺してくればいいのに。
しかし、タクローくんたちが、僕らに与えてくれたものも大きかった。
網走や津別だけでなく、結局僕はタクローくんたちが呼んでくれたあとも、帯広や釧路というエリアにも行くことにした。1年で3回も道東に行くことがあるなんて、まったく想像もできなかったな。
人生というものは、実に不思議だ。
そこで、僕は、色々な人と会わせてもらう。
過ぎて尚、忘れえぬ人たち。
諸先輩方、
同世代のプレイヤーたち、
そして、年下の友人たち。
もう少しはっきり言えば、僕は彼らに不思議な連帯感を感じているんだ。
別に仕事をしているわけでもないのに。
もっと接触頻度の高い友人はたくさんいるのに。
連帯感なんて、生まれようのない関係性なのに。なぜだろう。
なぜ僕は彼らのことが、こんなにも気になるのだろうか。
道東で結ばれたリレーションシップが、今、成果を生み出そうとしていて、だから、僕はお礼と報告のため、タクローくんに連絡しようと思っていた。
その内容については後述するが、連絡しようと思っていたその矢先、僕を道東に招いてくれた、テトリス野郎・タクローくん、ロボ・神宮司さん、行きずりデザイナー・ちひろちゃん、生涯学習・かしこちゃん、という四人。そして加えて、たぶんこのチームの良心である、野澤さんによって、「ドット道東」という一般社団法人が作られたと、インターネットが僕に教えてくれた。
おもしろいのは、「道東という広いエリアのクリエイターを結ぶ」という、ドット道東の主題に呼応して、次々とプレイヤーがSNSに言葉を紡いでいることだ。彼らの作ったドット道東というマトリクスに、点が集まり線を作り、実際にグリッドが生まれている。ブラボー!
SNSというものは年賀状の身体性を拡張したようなものだな、と僕は思っていて。つまり、リアルでなくてもなんとなく、相手の様子がわかる程度のコミュニケーションということ。
年賀状は年に一度「家族が増えました」っていうレベルの情報密度をやり取りするけれど、その頻度が増えたのがSNSかもしれない。
実はあまり双方向性は重要でなく、適度な距離の近況報告の集合だってこと。SNSはクラウドを通じて、それをドライブさせる。
その頻度が上がれば、それは変容する。
そして、道東という距離的な制限があるエリアでは、SNSはとても有効だ。だって会いたくても、距離的に簡単に会えないもん。
今、タクローくんたちの所信表明が生み出すクラウド上の化学反応は、とても北海道的な動きだなって思う。
もっと言えば、北海道にとても相性のいい、SNSの動きだなって思う。
(そして、これは、北海道的距離感の動きと言ってもいい。少し脇道にそれるけど、道東の経験から僕は西伊豆、野江、肥後橋、京都、長崎、福岡、広島、松本、長野、石巻、秋田、網走、ああ、ここにも書ききれないけれど、全国のたくさんの友人たちにも同じようなシンパシーを感じることができるようになった気がする。遠距離を知ったということ。毎日会わなくても友だちだということ)
そんな、道東にいる彼らの動きを見ていて、思ったことがある。
「距離を超える好意」というものが、確かにあるんだなって。
最初から遠距離が前提の彼ら・彼女らは、サヨナラするときも「しばらく会えない」というつもりで別れる。もっと言えば「もう会えないかも」ってくらいの重みを含んで。
東京の「また会おうね」とは重みが違う気がするな。会おうと思っても「すぐに」会えないから、コミュニケーションコストがまったく違う。
彼ら・彼女らの、遠距離を前提としたコミュニケーション。
それが、この僕が知らなかった奇妙な連帯感を作り出していたということだろう。遠距離を前提とした好意が、直接会ったときの過剰な愛に変わる。道東の連中の不器用な距離感は、そんな遠距離と近距離を行き来する、フォーカスのズレにあるんだろうな。(でも、愛してるぜ?)
ところで、タクローくんが紹介してくれた、オホーツクの硝子工場で、日本橋の本棚専門店で販売するための、ブックエンドを作ってもらうことになった。網走は流氷硝子館の軍司さんの手によるものだ。デザインや工業的な問題をクリアするために打ち合わせを重ねて、ようやく完成しようとしている。
僕はインフルエンサーでもないし、優れたクリエイターというわけでもない。シンプルな実業が僕の主戦場。僕が作れる道東のメリットは、やはりビジネスかなって思っている。規模は小さいけれど、継続可能性のあることを、これからも続けていきたいなって思っている。
リレーションシップは距離を超えて結実する。
それは現代の福音のひとつだと思う。
どうせ、道東の連中は、またすぐに喧嘩をするだろう。
それでも「つかず離れず」で言えば、「つく」寄りの「つかず」っていう、彼らのあの絶妙な距離感がすでに懐かしい。
ドット道東は、きっとそんな連帯感。
また行くね、道東。
みんな、それまで待っててね。
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