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栗屋敷のユリ【第39章】白鳥の湖

チャイコフスキー:バレエ「白鳥の湖」
 柔らかな雪が降り続いている。なにもかも真っ白。手織りのコースターづくりの手を休めて外を眺める。どのくらい積もるのだろうか。
 放課後は図書室。土曜日は美術館のワークショップ。日曜日は栗屋敷でコースターづくりというのが最近の私の日課だ。
 このまま雪に埋もれて、静かな毎日が続けばいい。私は眠り続ける。ある日、王子様が現れて長い眠りから覚めるまで…木村じゃないから! 私の妄想に出てこないで!
 木村は第一志望の中学に受かり、モモカちゃんとアイちゃんからも、中学に受かったと手紙が来た。みんな、それぞれの道に進み始めている。人の相談にのっているのに、自分のこととなるとまるでわからない。私だけが置いていかれたみたいだ。
 木村とは本の貸し借りというか、メモのやり取りを続けている。メモに書いていることといえば、まだ世界のいたるところで起こっている紛争のことだったりする。
 ヒロシくんはそのまま日本にいることになって、毎日ピアノのレッスンに行っている。時々、アカネさんと三人でお昼を食べたりすることもある。ヒロシくんとは美術や音楽の話をするようになった。私がなんでも食べ物に例えるのが面白いと言っている。例えばモーツァルトのオーボエ協奏曲は、マロングラッセがのっているモンブランとか。ただし、私には知らないことが多すぎて、会話になっているのかどうかはあやしい。
 雪の中を黒いコートを来た人たちが歩いてくるのが見える。背の高い男の人とバレリーナのように細くてきれいな女の人。悪魔と黒鳥? 黒鳥に魅せられた王子は白鳥のことを忘れてしまう。妄想の中で白鳥は私、王子はヒロシくん(もちろん木村ではない)。黒鳥たちは栗屋敷を通りすぎていった。テツコさんのところに来たお客様かな?
 家に帰るとテーブルの上にお茶が二つ出ていた。さっきの人たちはうちを訪ねて来たようだった。
  「誰か来ていたの?」
 ママは書類を広げたままぼんやりしている。
「ママ、どうしたの?」
 「弟夫婦が来ていたの。入院していた父さんが亡くなったの」
 「兄弟いたの?」
 「血はつながってない。親同士が再婚して兄弟になったから。一緒に暮らしていたのは五年間ぐらいだし」
 親に勘当されたとは聞いていたが、兄弟がいたとは初耳。
「入院した時に知らせてくれなかったの?」
  「手紙も電話も、もらっていた。だけど会いに行かなかったの」
「どうして?」
  「本当だね。どうしてだろう。やっぱり行けばよかった」
 ママはそう言うと泣き出した。いったん泣き出すと止まらなくなってしまった。パパは今、出かけている。雪で電車が遅れたりしなければいいのだけれど。私も泣きたくなってくる。部屋の隅に残っていた節分の豆を見つけて、意味もなく手の中で転がした。
 ママは少し泣き止むと、子どもの頃の話を始めた。本当のお母さんが亡くなった時のこと。自分がどんな子どもだったか。また、ひとしきり泣く。世話をしてくれた優しいフィリピン人のお手伝いさんのこと。新しいお母さんが来たけれど、どうしても仲良くなれなかったこと。弟のこと。
 私のおじいちゃんは実業家で政治家だった。子どものいなかった最初の奥さんを追い出すような感じで、とても若い私のおばあちゃんと再婚した。そして私のママが産まれた。その後、おじいちゃんは汚職事件で政界から引退、おばあちゃんは病気で亡くなった。悪いことって続くものだ。
 ママは高校生の時に街でスカウトされて、親には内緒で雑誌モデルの仕事をはじめた。
「モデルをしていたのがばれて父親と大ケンカして家出。それからちょっとだけテレビとか映画にも出たけど…」
 本当に元女優だったんだ。だけど売れない女優が一人で食べていけるだろうか? ママがどう説明するか言いよどんでいるので私が続ける。
「ホリー・ゴライトリーのような暮らし。『ティファニーで朝食を』の」
「うん。まあそんなところだね」
「パパは知っているの?」
「もちろん」
 私はママをギュッと抱きしめた。ママはきっと大きな家やお金がなくても、今の暮らしが一番幸せなのだろう。
 パパが帰ってきた。私とママは雪山で閉じ込められて救助を待っていたみたいに寄り添って座っていた。夕食の準備も何もしていない。
「三人でニューヨークに行きましょう」
 私はパパと顔を見合わせた。ママはしっかりとした口調で、父親が亡くなったこと、遺言でニューヨークのアパートメントが残されたことを説明した。
「相続の条件は私が住むことなの。全くあの人は最後まで何を考えていたのかしら」
 父親のことを突き放したように言う。さっきまでのママは、どこに行ったのだろう。涙とともに蒸発? パパの前では強気だ。
「ユリの卒業式が終わったら、すぐに引越しましょう。ベルリンから来ていた個展の話もニューヨークからなら便利でいいでしょ」
 パパは黙って聞いていた。ママが一度こうすると決めたら、もう絶対に変更はできないと知っているから。
 春にはニューヨーク。地球の反対側だ。どこか遠いところへ…その願いは叶った訳だ。

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