第一話「剥奪」

川沿いにあるベンチに座り、背もたれにもたれてため息を一つつくと、身体から自然と力が抜けていった。まだ6月下旬だというのにびっくりするほど蒸し暑い。それなのに僕のため息はとても乾いていた。
今日、僕は人生で初めて学校をサボった。大して頭もよくないし、何一つとして特技は持っていない。どの教科も平均点を少しだけ下回るくらいで、ずば抜けた才能も持っていない。ただ一つ誇れることは、小中で皆勤賞を貰ったことだけだ。仲良くしている友人にも「お前はオタク知識と健康だけが取り柄だな!」とよく言われている。別に嬉しくないし、悔しくもない。ただ事実を言われているだけなので、毎度「そっすね」とか言って受け流している。そんな僕が、人生で初めて学校を休んだ。しかも仮病。僕の家庭は共働きで、両親は朝7時頃に仕事場に向かい、夕方過ぎまで帰ってこない。8時に家を出ても余裕で学校に着く僕は、両親にわざわざ「学校に行く」と嘘をつく必要がない。ただ、学校には電話を一本入れておかないと後々面倒くさい。僕は学校の事務員に「熱があるので休ませていただきます」と伝え、同級生と出くわさないよう時間をずらして家を出た。僕は一時の自由を得、その代償に健康という称号をあっさりと手放した。
携帯と家の鍵以外何も持たず家を出たので、行く場所がない。しかも充電をし忘れたので、残り28%しかない。もちろん服は着ている。これで全裸だったら、逮捕された時に友人たちに「熱が上がりすぎておかしくなったんだ」と思われてしまうだろう。まあいい、話を戻そう。僕は遠出する気分でもなく、家に籠って買ったゲームをする気にもなれなかった。迷いに迷った結果、ここで時間を潰すことにしたのだ。別にここで何かをしたいわけではない。ただただボケーっとして、時間が過ぎるのを待とうと思った。
「はぁ...」
乾いたため息を一つ。ふと、僕は何をしているんだろうと思った。何故サボってしまったのだろう。ここで時間を潰すとは言っても、何も持っていないのに数時間もここにいられるわけがない。僕はふと、ニュース番組のお天気コーナーで、今日の岡崎は30度を超えると報道されていたことを思い出した。まずい。いろいろとまずい。脳が帰った方がいいと促し始めた。不本意だが家に帰ろうと立ち上がろうとした時だった。
「っしょっと」
隣に若い女性が座ってきた。見た目は同い年か少し上くらい。ワイシャツ、青のダメージジーンズに白のスニーカー。黒色のロン毛をポニーテールにしている。顔はとても僕好みだ。その女性は胸ポケットからセブンスターの箱とライターを取り出すと、僕のことなど気づいていないのかのようにタバコを吸い始めた。
「...」
僕は動けなかった、動くべきなのだろうが。
「ふぅ...」
彼女はタバコの煙を吹き出し、じっと空を眺めていた。僕は自覚できてしまうほど緊張で肩が縮まって、顔が強ばっていた。彼女は、その雰囲気を感じとったのか、僕の方を見て言った。
「吸う?」
「なんでですか」
僕は反射的に答えてしまった。他にも言うことはあるはずなのに、何故そうなるのだろうか。
「いやぁ、もしかしたら吸ってるのかなーって」
「吸ってないですよ、だってまだ未成年ですから」
「あそう?アタシ未成年だけど吸ってるよ」
「えー...」
「なに」
「いえ、なんでもないです」
「ふゥん」
彼女は終始顔色変えずに話しかけてきた。そしてまたタバコを咥え、煙を吐き、持ち歩き用の灰皿にタバコを押し付けた。
「アタシは小倉しずく。君は?」
「へ?」
「君の名前、教えて」
「あ、宮野祐介です」
「宮野くんね。よろしく」
「よろしくお願いします...」
再び沈黙が訪れる。小倉さんはまたタバコを吸い出した。僕は女性とのコミュニケーションが得意ではない。ましてやこの人は不良だ。何をされるか分からない。僕がまだ肩に力を入れていると、小倉さんが口を開いた。
「宮野...宮野...祐介。君、同級生でしょ?」
「え?」
嫌な予感がした。
「ほら、霧ノ山高校の2年生で、B組でしょ?」
脳が帰った方がいいと言ったのに無視しただろと怒り出したように感じた。
「なんでここにいるの?」
身体全身に危険信号が発令され、動けなくなった。
「え...えっと...う...あ...」
「え、大丈夫?」
小倉さんが眉間に皺を寄せて言った。やばい、サボっていることが他人にバレてしまった。しかも相手は同級生だ。バラされるかもしれない。
「あの...その...ごめんなさい!許してください!」
「えぇ?なんで謝ってんの?」
「あの、今日はちょっと、その、学校に行く気になれなくて、えっと、嘘言って、サボっちゃって」
「アッハッハ!大丈夫だよ、誰にも言わないから」
「え...誰にも...言いませんか?」
「言うわけないじゃん!サボりなんてやってる人なんてざらにいるし、現にアタシもサボってるし」
「え...あ、そうか」
普通に考えたら、授業が始まってるのにこんなところでベンチに座ってる時点でサボりなのは一目瞭然。焦りすぎていた。
「でしょ?しかもアタシなんてタバコ吸ってるんだから、誰にも言わないでっていうのはアタシのセリフなんだよ?」
「確かにそうか」
「お、敬語じゃなくなってるね」
「ああいや、すみません」
「だからなんで謝るの?面白いねぇ、アタシたち同級生でしょ?一応アタシはC組」
「ああそっか、同い年か。ごめん」
「もー、謝るの禁止」
「はい…」
「よろしい」
そういうと、小倉さんはにっこりと笑った。僕はその笑顔を見て、自然と笑っていた。
「んー!それにしても暑いねぇ」
小倉さんが伸びをしながら言った。
「ホント6月とは思えないよね」
「うん。よいしょ、飲み物買おうかな」
小倉さんは立ち上がると、すぐ側の自動販売機にお金を入れてお茶のボタンを押した。ガタンと落ちたお茶のペットボトルを取り出して蓋を開けると、一気に半分近く飲んだ。
「っぷは!やっぱり暑い日に飲む冷たいお茶はいいですなぁ!」
「...」
僕はお金を持っていない。ただ眺めていることしかできなかった。
「あれ、飲み物持ってないの?」
「いや、携帯と家の鍵以外何も持ってなくてさ」
「え、それほぼ自殺行為じゃん」
「普段飲まないから、その勢いでやっちゃった」
「アホじゃん、お金貸すよ」
「え、いや、大丈夫だよ、申し訳ないし」
「倒れられたらこっちが困るの、はいお金」
小倉さんはそう言って、僕に100円玉と50円玉をくれた。
「お釣りは返してね」
「ありがとう、使った分も返すから」
「別に気にしなくていいよ」
「ホント、ありがとう」
僕は受け取ったお金を自動販売機に入れ、小倉さんのよりも少し安めの水を買った。ガタンと落ちてきたキンキンに冷えている水を取り出して蓋を開け、口いっぱいに含んで一気に飲み込んだ。太陽で熱された身体の体温が一気に冷えた感覚がした。
「はい、お釣り」
「どーも」
僕は小倉さんにお釣りを渡し、再びベンチに座った。ベンチは今朝来た時よりも少し熱くなっていた。
「あのさ」
「ン?」
「なんで僕が宮野ってわかったの?」
一度も会ったこともなく、別に有名でもないはずなのに、何故1分足らずで僕の身元がわかったのか、僕は不思議に思っていた。
「あー...勘かな」
「え?勘?」
「冗談だよ冗談。たまたまこの前廊下で男子たちが会話してるのが聞こえてね。そこで知ったんだ。確か、小中一度も休んだことがないなんて、まさに天然バカの宮野だなって言ってたかな」
初耳だ。
「そんなこと言われてたのか...」
「え?その場にいなかったの?」
「うん...少なくとも僕は知らない」
「あああ、えっと、ほら、バカは風邪をひかないって言うでしょ?多分それと掛けてるんじゃないかな、アハハ...」
小倉さんが動揺しているのがわかった、言っていることは正解なのだろうけど、フォローになっていない。
「なんか、悲しいな…」
「安心して。アタシなんて、サボり魔って言われてるんだよ?名前が呼ばれてるだけマシだから」
僕は、サボり魔なのは事実だと言うのは抑えておこうと思った。
「でも良かったじゃん」
「なにが?」
「だって今日学校サボってるじゃん?もう皆から天然バカって呼ばれないよ」
何故か寂しい気がした。
「あ、ちょっと残念だって顔してる」
「え、バレた」
「エッへへ。アタシ人間観察は得意なんだ」
小倉さんはそう言って、お茶を一口飲んだ。僕も水を一口飲み、身体を冷やした。そして一息つき、少しだけの間沈黙になった後、小倉さんが口を開いた。
「宮野くんは、なんで今日学校サボったの?」
いずれはされるであろうと思っていた質問が飛んできた。
「いや、単に学校に行くのが嫌になって」
「ふゥん」
「今まで一度も学校を休んだことがなくて、大きな病気にもかかったことがなくて。学校に行くことは至極当たり前のことだと思ってた。そう思ってたはずなのに、今日は何故か行きたくなかった。なんでだろう、僕、疲れたんかな」
僕は思っていることを包み隠さず話した。
「そっか」
小倉さんは特に驚きもせず、ただ彼女らしい相槌を打っただけだった。
「ねぇ、まだサボったこと気にしてるでしょ」
「へっ」
不意打ちだった。確かに僕は心の中で罪悪感に苛まれていた。
「初心だなぁ。懐かしい。初めてサボる人は大体そうなるよ」
「そういうものなのか」
「アタシレベルになると何も思わなくなるから、頑張ってね」
「いや目指してないから」
「アッハッハッハ!アタシは大歓迎だけどねぇ」
「ノーサンキューです」
僕は笑いながら言った。
「さてと、そろそろ昼ごはん食べますかねぇ」
そう言って、小倉さんは立ち上がって伸びをした。僕は時計を確認した。まだ10時30分だったが、朝飯を抜いているためお腹は減っていた。
「僕も帰って飯食うかな」
「そっか。じゃあお開きにするか」
「うん、また明日学校で会おうね」
「えー、サボろうと思ってたんだけどなぁ」
「ダメです。ちゃんと学校に来てください」
「はーい」
「よろしい」
僕は親指を立てて言った。
「じゃあ、アタシはあっちだから」
小倉さんは東の方を指さして言った。
「そっか、じゃあ反対だね」
僕の家は今いる場所から西の方にある。もうちょっと小倉さんと話していたかったが、それは明日の楽しみにとっておくことにした。
「じゃ、またね」
僕は小倉さんに手を振った。
「うん、また明日」
小倉さんは笑顔でそう言うと、僕とは反対方向へと歩き始めた。僕は帰りの道中で水を一口飲んだ。水はほんの少しだけぬるくなっていた。

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