メディアの話、その24。「おどろく」は、心の「痛点」である。

なぜ、まったく「笑えない」んだろう。

朝ドラの「お笑い」シーンを見て、いま思った。

そういえば、「お笑い」を題材にしたドラマや映画をみて、思わず笑っちゃった、ということがない。
いまのNHK朝ドラも、ちょっと前の「植木等 のぼせもん」も、ドラマとしての面白さ、とは別に、再現している「お笑い」シーンで「笑う」ことは、まずない。むしろ、ちょびっとだけ(早く終わってくれ)と思ったりする。

なぜ「笑えない」のか。それは、再現ドラマや映画の「お笑いシーン」には、「おどろき」成分がないからである。見ているほうはむしろ「あのネタをどう再現するかな」という「予想を埋めてもらう」目線で眺める。だから、「ほう、ここまで似せたか」と感心することはあっても、「わっ、おどろいちゃった、おどろきすぎて笑っちゃった」となることは、まずない。

「お笑い」というコンテンツに対するひとの反応のかなりの部分は、まず「おどろく」こと、にあるのではないか。「お笑い」コンテンツの大ヒットほとんどは「一発」で終わる。

「おどろく」という心根と「慣れる」という心根は相矛盾する。「慣れて」すぎてしまったら、もう「おどろかない」。「おどろかない」と、もう「笑えない」というスパイラル。

もちろん「お笑い」というコンテンツを求める心根には、「おどろく」とは逆の「慣れ」「親しむ」という心根もあったりする。ここでポイントは「慣れ」だけじゃだめ。「慣れ」しかないと必ず「飽きる」に結びつき、捨てられる。「慣れ」たからこそ「親しむ」この心根をゲットできたコンテンツは強い。「安心して」「笑ってもらえる」という最強のシチュエーションに到達できる。このあたり「恋愛」にも似てますね。

「おどろく」に頼るコンテンツはもうひとつあって「怖がらせる」である。
だから、しばしば、「お笑い」と「怖がらせる」は、重なったりする。「ホラー映画」のように。

「おどろかせる」というのは、けっこうなコンテンツだ。
「お笑い」や「怖がらせる」だけじゃない。
 「広告」のなかの大きな成分は「おどろかせる」だ。というか、エンタテインメントビジネス、アミューズメントビジネスの入り口の基本は、聴衆から「おどろく」を引き出すところにある。どんな顰蹙を買おうと「おどろかせたら」勝ち、だったりする。

「おどろく」とはなにか。
いまその瞬間の自分が「予想もしなかったこと」が突然、ぶつけられる。

その瞬間、人間は「おどろく」

「おどろく」と、その以前以後で、
自分のなかのソフトウェアの何かが書き換えられる。

ひとつは、「おどろく」状況に対する学習がうまれ、
次からは「おどろかなくなる」。

恐怖に対する耐性がそれだ。
なんども同じパターンでおどろかされると、
次第にひとはおどろかなくなる。

もうひとつは、
逆に同じ「おどろかされる」状況そのものを
なんども、消費したくなる。
麻薬中毒のように。

「恐怖映画」や「絶叫マシン」がビジネスになるのは、
ひとは、あるパターンでなんども「おどろかされたい」、
という願望がある、ということだろう。

そういえば「サプライズ・パーティ」なんてのもある。

その意味でいうと、
「おどろかされる」は、ちょっと「性欲」にも似ている。
いや、「おどろかされる」のなかには、「性的興奮」がいちぶ含まれているのか。この話は、突っ込んでいくと別方向に行くので、ここにとどめておく。

「おどろく」状況は、そのひとにとって、避けるべき、慣れて「おどろかない」ようになるべき状況であると同時に、
「おどろく」という状況は、
なんどもなんども繰り返し体験したい、という
甘美な欲望とむすびついている。

とにかくひとの心は「おどろく」状況に、反射的に反応する。

もしかしたら「おどろく」は「心」ではなくて、「本性」の一部なのか。

というのも、動物も鳥も「おどろく」。

ぼーっとした猫にうしろから「わっ」とやると、ぎゃと叫んで2メートルくらい飛び上がったりする(猫、すまぬ)。あれ、驚いてますよね。

ニューギニアのフウチョウがメスに向かって派手なダンスをやって求愛するのも、お笑い勝ち抜きのM1グランプリみたいなもんで、より「おどろくほど動けるやつ」が選ばれる。フウチョウ、肉体派のお笑いが好きなんです。

「おどろく」というのは、言い換えれば「ニュース」である。

いままで知らなかった、なにか「新しい」もの、である。

「おどろく」、つまり「ニュース」が練りこまれていないと、「お笑い」のみならず、あらゆるコンテンツ、それどころかあらゆる商品は、「気づいてもらえない」。「手にとってもらえない」。「売れない」。

そのあとに好きになってもらえるかどうかはわからない。でも、「おどろく」は、つまりあらゆるジャンルで絶対に欠かせない最強のコンテンツである。おそらくどの文明でも、いつの時代でも。

と考えると、「おどろく」はやはり「文化」ではない。「本性」から発するもの、のようだ。

なぜ、ひとは「おどろく」生き物に進化したのか。

我々はなぜ「おどろく」のか。そして「おどろく」を回避しようとする一方で、「おどろく」を求め続けるのか。

「おどろく」本性の根っこは、おそらく「危険回避」の本能だろう。すなわち、サイレンみたいなものである。わっあぶない! わっ死ぬぞ! 大きな恐怖を感じたシチュエーションについて、ひとは「おどろく」ことによって「学習」する。

あそこは、おどろいちゃう=死ぬかもしれない場所だから、近づかないようにしよう、気をつけるようにしよう、橋をかけることにしよう、1人じゃなくて、仲間といくことにしよう。

でも、それだけじゃ、「おどろく」をなんども消費したくなる、という心根がなぜ進化したのかがわからない。

「おどろく」というのは、一方でニュースである。まったく新しいなにかである。そのなにかを手に入れられたものは、他の個体よりも一歩先にいけるかもしれない。

つまり「おどろく」というのは、人間という生き物を進化させてきた本性「好奇心」の表現系のひとつ、という側面がある。

「SENSE OF WONDER」ということばは、レイチェルカーソンが使い、SF作家が使う。つまり、いままで知らなかった自然のある事象、SFで描かれたあるシーンを目の当たりにしたとき、「おどろく」とともに「目が開かれる」、知らなかった「世界」が広がる。その感覚を表したことば、と私は解釈している。

ウェブ上には「おどろかせる」コンテンツがたくさん流れてくるけれど、実は再生回数がダントツに多いジャンルのひとつが、「自然」「景色」「生き物」のあっと「おどろく」シーンが登場する「SENSE OF WONDER」コンテンツが、とっても多い。

人間は「おどろく」生き物である。

おっかないこと、笑っちゃうこと、いままで知らなかったことに出会うと、まず「おどろく」。泣いたり、笑ったり、感動するのは、そのあとである。

ものすごく冷たいもの、熱いを触ると、冷たい、熱い、と思うまえに、痛い!と感じるのは、手のひらにある感覚点において「痛点」が圧倒的に多いからである。

もしかすると「おどろく」という感覚は、人間の本性の中に埋め込まれた無数の「痛点」のようなものなのかもしれない。だから、恐怖や、笑いや、感動につながる事象に出会った瞬間、まずは泣いたり笑ったり感動するまえに「おどろく」。

「おどろく」は心の「痛点」である。

この「痛み」を刺激すると、ひとはとにかく反応する。

だから、フェイクニュースや過大広告的なるものも、メディア上から永遠になくなることはない。手を変え品を変え、登場する。なぜならば、ひとびとは「おどろきたがっている」からである。

ぬるい真実より、おどろくべき嘘を。

反応の順番として、まず「おどろく」に反応してしまう。

それが、私たち、である。

メディアの本質と、「おどろく」本性との付き合い方。

たぶん、永遠に決着がつかない話である。

続きます。

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