『絵と言葉の一研究』 寄藤文平

「世界」が「わかる」ために絵はあるのか

         『絵と言葉の一研究』 寄藤文平

 「世界」は、ひたすら無限の、膨大な「データ」の積み重ね、でできている。

 137億年前に地球が誕生して以来、原子が、分子が、太陽からの熱を受け、地殻変動の影響を受け、ただただ無慈悲に、毎秒毎秒刻一刻と積み重なり、くっついたり離れたりしながら、ひょんな理由から自分で増殖する分子の固まりが38億年前に生まれ、この分子の固まりがさまざまなパターンの分子の固まりに分かれていき、そう、これが「生物」であり、突然地球が氷で覆われたり、突然隕石が衝突したり、突然大火山が噴火したり、といった「偶然」が積み重なり、「生物」という名の分子の固まりは、環境の変化にたまたま適応したものだけが生き残り、そしてアフリカと呼ばれる大きな島の片隅で18万年ほど前に、毛が薄くて、背筋が伸びた類人猿の1種が登場し、何度か絶滅しかかったのち、その一部がアフリカを出て、地球の至る所に、てくてくてくてく歩いていき、1万数千年前までに地球上のあらゆる陸上に増殖した。我々人間である。

 地球の歴史は、まさに分子の積み重なりによる実に無慈悲な「結果」である。そのままでは何も読み取ることのできない、まさにビッグデータ、の積み重ねである。

 そんな偶然の積み重なりでたまたま誕生し、サバイバルした我々人間の脳みそは、あまりに無慈悲なビッグデータであるところの世界を把握するために、世界に意味を持たせるために、3つほどの道具を発明した。

 1つは、科学によるアプローチ。「法則」を見つけること。原子や分子の特性からはじまって、重力、熱、光、さまざまなエネルギーの特性を発見することで、人間は世界がアットランダムで無慈悲なビッグデータの固まりである世界が、いくつもの「法則」の組み合わせで、変化したり、安定したりしていることに気づいた。

 もう1つは、文字のアプローチ。「物語」を紡ぎ出すこと。世界には、意味がある。自分たちの足跡には理由がある。自らに心地よい「物語」をいくつもいくつも創り出すことによって、無慈悲な世界への足がかりをつくった。

 そしてもう1つは、アートのアプローチ。つまり「絵」を描くことである。

 法則を見つけ、物語を創り、絵を描く。これはつまり、データをインフフォメーションに変える、ということだ。無慈悲な情報の固まりを、意味あるかたちに変換する。我々は普段無意識のうちにこんなことをして「世界」に生きている。

 逆に言えば、若干18万歳の我々の脳みそは、法則と、物語と、絵がなければ、世界を把握できないのである。

 で、毎日毎日、物語を創造し、一枚の絵で表現することで、身の回りの無慈悲にして膨大なデータから、意味あるインフォメーションを抽出し、人々に伝えてくれる仕事がある。

 デザイナーであり、イラストレーターだ。

 彼らは、いかにして、データをインフォメーションに転換し得るのか。その思考のプロセスを徹底的に明らかにしてくれたのが、本書『絵と言葉の一研究』である。

 著者は寄藤文平さん。デザイナーにしてイラストレーター。多くの人が彼のイラストを見たことがあるだろう。JTの広告「大人たばこ養成講座」(http://www.otonatobacco.com/newkouza/)もご覧になったことがあるのでは。また、数多くの書籍の装丁も手がけている。

 データというただの事実、意味のない事実を、意味のある、物語のある、感情をざわつかせるインフォメーションへ変える。

 たとえば、二酸化炭素の排出量が年々増えている、というデータ、をインフォメーションに変えるにはどうするか。竹槍マフラーの族車をモチーフに、年々棒グラフが伸びる代わりに、族車の竹槍マフラーがどんどん高くなっていく、というイラストで表現する。

 二酸化炭素の排出原因である自動車がヤンキー化していくと排出量が増えるぞ、という「物語」をたった一枚の絵で表現することで、二酸化炭素増加傾向というデータは、おおこれはマズいな、というインフォメーションに代わるわけだ。

 また、別の章では、本をデザインするとはどういうことか、について、究極の方法で読者にデザインする思考のプロセスを開陳してくれる。その究極の方法とは、実存する書籍のカバーを、勝手に新たにデザインしちゃう! 素材として選んだのは『千利休 無言の前衛』。著者は赤瀬川原平さん。岩波新書だ。

 ただの嗜好品を飲む、という行為を、「茶道」という道に仕立て、茶道の場たる茶室をたった2畳のミニマルな空間に封じ込めた、まさに「前衛」の男。ゆえに豊臣秀吉に重用され、家康や伊達政宗らに愛され、最後は秀吉に殺された男。

 実用物が無用になったとき、それが「芸術」と見立てられるのでは、という「トマソン」という概念を「発明」し、ただの散歩ではなく芸術の再発見行為である「路上観察」を世に知らしめた、まさに現代の前衛、赤瀬川さんが、そんな千利休の謎を解体していく、実に面白い本である。

 寄藤氏自身が「学生時代に一番読んだ本」というこの本を、改めて装丁する。作例はなんと21種類。本はいかにデザインされるか。

 著者名。タイトル。イラスト。たった3つの素材の「見せ方」「組み合わせ方」で、どうすれば、本の中身を想起させ、読者を書籍の中に誘えるか。想いを「絵」にするとはどういうことか、世のデザインとはどうやってできるのか、読者は実に心地よく疑似体験できるはずだ。

 なぜ寄藤さんは、自らのデザイン創作の秘密をこんなにもあけっぴろげに教えてくれるのか? 企業秘密ではないのか?

 実は、広告業界や出版業界で数多くの傑作をものしている寄藤さんだが、デザイナーをやめてしまおう、と悩んだことが、本書の執筆のきっかけとなったという。デザインは好きだ。にもかかわらず。それは「なんとなく、デザインの世界に息苦しさを感じていて」と、彼は漏らす。

 なにが息苦しいのか。その息苦しさの正体はたとえばこんな話に透けて見える。絵で表現するのはなぜか。それは絵で表現すると「わかりやすくなる」という共通認識が世間にあるからだ。

 彼はこの認識に「うそ」をみつけてしまった。「わかりやすくなる」と「わかる」は別のものだ。「わかりやすくなる」というのは「わかる」ための手段である。でも往々にして「わかりやすくなる」が目的化して、「わかる」が達成されなくても「わかりやすければ」オッケー、という発想。デザインの世界の息苦しさ、とはおそらく、そんな知的怠慢が原因のひとつである。

 では、そんな息苦しさを、寄藤さんは、どのように払拭したのか。続きは本書で。


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